第56話 親の考え、子の想い
翌日から、隼人は湧学館へ通わなくなった。午後、斎道場にやってくる陽太郎に稽古をつけるためだ。自分の屋敷の道場に現れた隼人を見て、師範代の本間蓮太郎が駆け寄ってきた。
「どうしたんですか、隼人さん。お勤めに出かけなくていいんですか?」
「しばらくはいいんです」
「あの、隼人さんを訪ねてきた子供がいるのですが」
本間から背格好を聞き出すと、どうやら陽太郎らしかった。午前中、湧学館で学んだ後、隼人の言いつけ通り斎道場へやってきたのだ。
「道場へ上げてください」
「は、はあ。しかし、いったいあの子は?」
「僕が湧学館の道場で教えている子です。今日から十日間、ここで稽古をつけます」
「湧学館の……ということは、藩士の子弟ですか」
「御先手組、
「……逆川!」
しまった、まずいことを尋ねてしまったという本間内心の動揺が、ありありとその表情から見て取れた。古参の門人であれば、道場主の妹・絵都が逆川家を離縁され、出戻ってきたことを知らぬ者はいない。
「いいんです。陽太郎本人はまだ知らない事だし、姉さんは今ちょうど留守にしていますから」
陽太郎の母親で、隼人からは叔母に当たる絵都は、長崎警備の任に就いた藩主に付き従い、いまは長崎にいる。
「この事は他言無用です。本間さんの胸のうちに留めておいてください。父にも黙っていてください」
「し、しかし」
「嘘をつくわけではありません。黙っているだけでいいんです。さあ、稽古を始めましょう。陽太郎を連れてきてください」
十日後に向けて、隼人と陽太郎ふたりの稽古が始まった。
はじめて道場で陽太郎と向かい合い、打ち込みを受けていると、すぐに問題点がわかった。陽太郎の太刀筋は、ふらついているのである。竹刀を波打ちながら振りかぶっているし、足元もふらついている。だから、そもそもまっすぐに打ち込むことができないのだ。これは互角稽古をする以前の問題である。
「もういい。今日はここまでにしよう」
はじまって早々に隼人が稽古を終えてしまったので、陽太郎は驚いていた。なにか先生の機嫌を損ねることをしてしまったのだろうかと。
「……もう終わりですか」
不安そうに隼人の顔色を伺う。そんな従弟の表情を見ていると、当の隼人はわけもなく腹が立ってしまう。
――そんな目で僕を見るな。
「今日はこれ以上稽古しても意味はない。家へ帰りなさい。また明日、同じ時刻から稽古をします。遅れないように」
「は、はい……」
今日も降りしきる雨の中を、陽太郎は肩を落として帰っていった。
「よかったんですか、帰してしまって。あの子すいぶんち落ち込んでいましたが」
陽太郎が出てゆくと、すぐに本間蓮太郎が近づいてきた。人のいい師範代は、隼人と小さな弟子のことが気になって仕方がないのである。
「あれではどうしようもありません」
「でも、まだ小さい子ですし、打ち込みがふらつくのは仕方がないですよ」
「ちがうんです。小さいからではありません。むしろ、大きいからです」
「は?」
隼人は、陽太郎が使っている竹刀を持って頭上に掲げた。子供用の細く短い竹刀だ。
「三尺六寸(約109cm)ほどの竹刀です。子供用としては一般的な長さですが、まだ八歳の陽太郎には長いのです」
「あ」
「面、籠手、胴の防具も子供用のものですが、いまの陽太郎には少し大きい。竹刀が長く、防具も重いためふらつくのです」
「なるほど」
太刀筋が定まらないと打突は流れて弱くなる。仮に面や小手に当たったとしても、有効打とは判断されないのだ。
「今日は早く帰して、陽太郎のための竹刀を作ることにします。防具も僕が子供の頃に使っていたものが、まだ蔵に置いてあるはずなんです」
「そうでしたか。お手伝いしますよ、隼人さん」
「ありがとう。それじゃあ本間さんな竹刀をばらして、二寸ほど詰めててもらえますか。僕は蔵の中を探ってきます」
陽太郎の竹刀づくりを本間に任せると、隼人は屋敷の蔵に潜り込むと、幼い頃自身が使っていた防具を探しはじめた。
思えば物心つく前から竹刀で遊び、防具と戯れていたように思う。普通の藩士の子弟なら、まだ竹刀も握らない頃から防具を身に付け、道場で竹刀を振っていた。
――僕は剣を司る家の跡取りとして、期待されていたのだ。
陽太郎のために、防具を探している今の今までそんなことを考えたことはなかったが、そのことに間違いはないと思った。小さな息子が持て余さないよう、体に合った防具をしつらえる――当たり前のようでいて、なかなかできないことだ。
子供はすぐに大きく成長する。だから、竹刀はともかく、防具は実際より大きめのものを与える親が多い。それを体に合った防具をいくつも用意してくれていたということは……。
――僕のことを思ってのことだったのか。
隼人は、父親の兵庫を頑固で融通が効かず、己の意見ばかりを優先させる傲慢な男だと考えてきた。近づき難い冷酷な人だと思っていた。
――もしかすると、そうではないのかもしれない。
蔵の中の棚の奥に、埃をかぶった布袋を探り当てたとき、隼人は思った。その中には、まだ体の小さい陽太郎にちょうどいいくらいの大きさの防具一式が入っていた。その日、隼人は固く絞った雑巾でその防具――幼い頃、自分が身に付けていた小さな面、籠手、胴の埃を拭い続けた。日が落ちて道場が暗くなるまで。
翌日から陽太郎の動きは格段に良くなった。
「とても動きやすいです」
湧学館の道場では見せたことのない明るい表情だった。短めに切られた竹刀を振ってもふらつかなくなり、体に合った防具を身に付けた足運びは軽い。
すぱん!
打ち込みで面を打つ音も小気味良い。
「見違えるような動きですな」
昨日、時間を割いて陽太郎の竹刀を作ってくれた本間の声もうれしそうだ。
「あの年頃にしては動きもいい。なにより素直なところが良いです」
「素直……」
「陽太郎には僕が教えたとおりに、動ける素直さがあります。大人の教えるとおり素直に動ける。これはこの年頃の子供にとって得難い資質です」
「なるほど、かつての隼人さんのように――ですか」
「僕は素直じゃありませんよ」
幼い日、父からつけてもらった稽古を思い出しながら隼人は苦笑した。そう。いまも素直になれないじゃないか。
「八歳とは思えない動きですね。やっぱり、あのひとの子供だ。あんなに楽しそうに竹刀を振って。血は争えませんね」
隼人の叔母で、陽太郎の母親である絵都は、『斎の女天狗』とあだ名されるほどの達者だった。陽太郎の黒目がちでよく動く目は、母親にそっくりだ。
「この分なら
「いや、小次郎は強いよ。それに陽太郎はまだ面しか打てないんだ」
「は?」
「小手や胴の打ち方を習ってないのさ。試合の駆け引きも何もかもね」
陽太郎は、まだ湧学館の道場に通いはじめたばかりで、打ち込みは面打ちしかしたことがない。小手打ち、胴打ちなどこれから習うところだったのだ。
「それを十日で教えるんですか?」
「それは無理だよ。中途半端になってしまう。面さえまだ満足に打てないんだから。徹底的に面だけ鍛えるさ」
「……それで、勝てるんですか」
「なんとかなる――なんとかするしかないよ」
「そ、そうですか」
さあ、稽古をしましょうと隼人は竹刀を持って立ち上がった。陽太郎と樅木小次郎との互角稽古まであと九日間しかないのだ。
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