第55話「泣いてなどおりませぬ」

 藩士の子弟は、おおむね十歳になると湧学館ゆうがくかんに通いはじめる。しかし、陽太郎はまだ八歳のはずだった。見ていると年少組のなかでもひときわ身体が小さい。竹刀の素振りはともかく、防具を付けて互角に打ち合う稽古がはじまると、いつも他の子供たちから一方的に打ち込まれていた。


 仕方がない。この年頃の子どもの体力は一歳違うだけでかなり差が出る。同い年の子供がいない陽太郎は道場で一番弱く、そのため道場に通う子供たちから馬鹿にされていた。道場の隅でひとり竹刀を抱えて立っていることが多かった。


 この日から隼人は毎日、湧学館の道場へ通うことになったのだが、もとより子供たちを指導することは期待されていなかった。時折、稽古について気づいたことを助言しようとはするのだが、道場の指導役を自ら任じている柳井翔やないかけるが露骨に嫌そうな態度を見せるので、一言二言声をかけるほか、竹刀を取って指導したことは一度もない。自然、道場の壁際に立ち尽くして子供たちの稽古を見守る形になる。


 子供たちも、そうした隼人のことが気になるのか、稽古をしながらチラチラと隼人の方を窺う。いったいこの先生はなにをしに道場へ通ってきているのだろう。そう思っているのだろうなと考えながら稽古を見るのは、なかなかに情けない。


「だめだ、陽太郎。もっと強く!」


 陽太郎が柳井道場の若侍から指導されている。


「もっと、早く、強く打突しないと人は斬れないぞ」


 道場での指導は、陽太郎がまだ幼いからといって斟酌されることはない。道場に立てば皆対等だ。戦場で一旦刀をとれば、年が若い、体格が小さいことを理由に手加減してくれるような敵はいないのだ。


 ――なるほど戦場におけるそれは真理だが。


 若侍に竹刀の先でさんざん小突き回される陽太郎はあまりに幼かった。稽古を終えると、いつも道場の隅に引っ込んで竹刀を抱え、俯いていた。


 道場には毎日午後に五十人程度の子供たちがやってくる。子供たちは年長、年中、年少の三組に分かれて剣術の稽古をしている。そのうち陽太郎のいる年少組に、道場を指導している柳井翔が目をかけている少年がいた。


 樅木小次郎もみきこじろう

 御先手組、樅木新平の長子で十歳になる。樅木新平と言えば柳井道場の高弟で、ここ数年、藩の御前試合で不敗を続けている青海藩きっての剣客である。彼の子である小次郎も、早くから剣術に才能を示していて、「素質は父以上」と噂されていた。


 竹刀捌き、身体の強さ、カンの良さ。隼人の目から見ても、小次郎はまぶしいほどの才能を持っていた。しかし、この小次郎が二歳年下の陽太郎をいじめるのである。


 翔や柳井道場の若侍たちの目の届かないところで、陽太郎を道場の隅から連れ出し、稽古をつけてやると称していいように竹刀で殴ったり、突いたり、ときには足蹴にしたりしているのだ。道場に子供は大勢いるのでわかりにくいが、ずっと陽太郎を目の端で追っている隼人にはすぐ分かった。


 翔にそのことを話してみた。翔は例によって煙たそうな表情をすると――。


「いい年をして子供のけんかを告げ口するようなことはやめた方がいい」

「しかし、隠れてこそこそというのは陰湿だ」

「……君がそういうなら正々堂々、ふたりに勝負させてもいいんだぜ?」

「正々堂々?」

「皆の前で互角稽古をさせようじゃないか」


 にやにや笑いながら翔はそう言うのである。互角稽古とは、地力が同程度のもの同士が試合同様に技を尽くして打ち合う稽古のことだ。あくまで小次郎のいじめを認めるつもりはないのだ。


 しかも、小次郎と陽太郎では地力にかなり差がある。そもそも陽太郎はまだ八歳なのだ。隼人はやめさせようとしたが、小次郎と陽太郎は道場の真ん中に連れだされ、五十人の子供たちが見守る中で互角稽古が行われた。

 

 三本行われた稽古で、陽太郎は小次郎からいいように弄ばれた挙句、三本とも面を取られて敗れた。ふたりの力量の違いは明らかだった。


「これで文句はなかろう」


 翔の、まるで自分が手柄を上げたかのような言い草に、普段は大人しくしている隼人も気色ばんだ。


「なにも人前で恥をかかせるような真似をしなくてもいいじゃないか」

「なにをいう。正々堂々、勝負させてやったまでだ。強い者が勝ち、弱い者が負けるのは道理だ。公明にして正大だ」


 隼人は、防具を脱いでうなだれている陽太郎を見下ろした。赤くした目にいっぱいの涙をためて震えている。


「泣いているのか?」


 そう隼人がきくと、激しく首を振った。


「泣いてなどおりませぬ!」

「小次郎に負けたことが悔しいか」

「……悔しいです」


 いいことだった。悔しいと感じるということは、諦めていないということだ。小次郎の実力を見せつけられても絶望していないということだ。間違いない、陽太郎はきっと強くなる。


「翔どの、陽太郎は弱くなどない」

「なにを?」


 翔が顔色を変え、道場にいる子供たちの視線が自分に集中するのを感じた。


「剣術というものが何か、まだ理解していないだけだ。小次郎と戦って勝負にならなかったのはそのため。翔どの、陽太郎に十日の時間をくれ。小次郎と勝負できるまでに鍛えてみせる」

「鍛える。君が? 陽太郎を?」


 翔は、隼人と陽太郎を交互に見比べて笑顔になった。弱い者を侮る強者に特有の嫌らしい笑顔だった。


「わかった。十日後。場所はふたたびこの道場で。小次郎と陽太郎の互角稽古を行うことにしよう。陽太郎には君が剣術を教えるといい。しかし――」


 翔はいったん口をつぐんで、次の言葉を特に強調した。


「その間、君にはこの道場を使わせない。ここを任されている僕に逆らうのだから当然だ。そして、十日後。三本行う稽古で陽太郎が一本も取れなければ、もう君は道場に来なくていい。君には子供たちを指導する力がないということだからな」

「結構だ」


 この間、道場は水を打ったように静まりかえっていた。子供たちも、教師役の若侍も息を呑んでことの成り行きを見守っていた。


 ――逃げも隠れもできない、か。


 成り行きとはいえ、厄介なことになってしまった。だが、愉快でもあった。だって、他人の思い通りに振る舞うだけの生き方って、つまらないじゃないか。


「行こう」


 隼人は、意外すぎる事の展開に目を丸くしている陽太郎をうながして、湧学館の道場を出た。次にここの敷居を跨ぐのは十日後だ。そう思うと、柄にもなく武者振るいを起こす隼人だった。

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