忘れられた者篇

第54話 忘れられた子供たち

 物語は数カ月、時を遡る。

 季節は春の終わり、板野喜十郎いたのきじゅうろう絵都えとがまだ長崎にいたころ、青海では――。


☆☆☆


 梅雨の走りか、このところ青海では、ぐずついた天気が続いていた。雨に濡れた中庭の紫陽花は乾く暇もない。雨がぱらぱらと隼人の傘と緑の葉を打つ。


「そんなところでなにをしているのだ」

「父上」


 声をかけてきたのは、隼人の父でこの斎道場の主人、斎兵庫いつきひょうごだった。


「いえ。ただなんとなく――」


 屋敷の縁に立った父が鋭い目で見ていた。ぬかるんだ中庭の地面が、隼人の足袋を汚している。


「用がないなら、意味のないことはやめなさい。中へ入れ。午後からお城へ上がるのだろう」


 そう言い残して父は座敷の方へ姿を消した。


「……はい」


 父の言いつけには素直に従った。中庭を出るとき振り返ると、ひときわ激しい雨が吹きつけて紫陽花を揺らしていた。




 青海城中で斎隼人いつきはやとの評判は悪くなかった。

 素直な性格で、行動に裏表なく、礼儀正しかったからだ。目上の者に対しては慇懃で、目下の者に対しても偉ぶるところがなかった。


 これしきのこと、剣術指南役見習としてお城に出仕しはじめたばかりの隼人にとって、当たり前といえば当たり前なのだが、ここでは父・兵庫の変人ぶりが知れ渡ってしまっていており、「斎殿の御子息か。これはお見それした」と目を見張られたことも一度や二度のことではなかった。


 ――父上の評判の悪さよ。


 隼人としては苦笑せざるを得ないが、感情表現に不器用で一徹な性格である父・兵庫にとって、世辞や追従ばかりがまかり通るお城勤めが苦労の連続であっただろうことは、容易に察せられた。


 青海藩に二家ある剣術指南役の一家として跡を継いだ隼人だったが、まだ正式に指南役の職についたわけではない。剣術指南役としてもう一家の剣術指南役、柳井大膳やないたいぜんの指導を受けることになっていたからだ。


「隼人殿は若いなあ。よくよく励んでくだされよ。なにすぐに慣れるであろう」

「は、ご指導の程よろしくお願い申し上げます」


 快活で人懐こい柳井大膳は、剣の腕より弁が立つと評判の口達者で、人を逸らさぬ魅力を湛えた男だった。道場に門人は多く、城中での評判もすこぶるいい。似た年配の同僚がこれでは、不調法者の父はやりにくかったに違いないと、隼人は兵庫に同情した。


 見習とはいうものの、じっさいに隼人が見習うべきことはほとんどない。藩主へ剣術・兵法の進講を行い、時には実地に手ほどきをするのが剣術指南役の役目だが、その役割を担うのはもっぱら柳井大膳である。加えてこの春から藩主は長崎警備のため、任地へ向かい青海を留守にしがちである。城中での儀礼やしきたりなど、ひととおりのことを習ってしまうと、隼人はすることがなくなってしまった。


湧学館ゆうがくかんの指導を手伝うように」


 湧学館は、青海藩士の子弟が通う藩校である。武士の子供たちは十五歳まで藩が設置したこの湧学館で学ぶ。湧学館では漢籍、修身のほか剣術を学ぶことになっているが、見習とはいえ子供たちの指導が、藩の剣術指南役である武士の役目とも思われなかった。


 隼人は、まだ二十歳にもならぬというのに、藩の閑職をあてがわれ、また、それに不服を漏らすような気骨もないと、柳井から見透かされていたのである。


 ――むしろその方が気楽でよい。


 そして隼人自身が、まず己に期待するところの少ない男だった。





 しのつく雨のなか、湧学館へ向かうとこんな天気であるにも関わらず校舎には大勢の子供たちが詰めかけていて、道場にも竹刀を打ち合わせる音が響いていた。


 子供たちを指導していたのは、柳井大膳の嫡子、翔だった。


「なんだ君か」


 柳井翔やないかけるは隼人よりふたつ年長である。狭い家中のことであるし、年齢も近いため以前からの顔見知りだ。しかし、隼人が挨拶をしても、翔が挨拶を返すことはなかった。


「道場を手伝うように言われてきたのです」

「ああ、なら適当にやってくれていい。僕は忙しいんだ」


 そう言って、翔は柳井道場の若侍らを指揮して、年長の子供たちの指導を続け、とりつく島もない。昔から翔はこういう態度をとる若者だった。人前でことさら隼人がいないかのように振る舞う。同じ剣術指南役の家を継ぐ者同士、意識しているのだ。だから気にしても仕方がないことは分かっていた。しかし、道場の隅に立ち尽くして子供たちの稽古を見守るだけというのは手持無沙汰である。


 見ていると湧学館の道場は、柳井翔と柳井道場の門弟たちの手で指導が行われているようだった。隼人も見たことのある若侍たちが、翔の指揮のもときびきびと子供たちを指導している。柳井大膳からは「手伝うように」と言われてきたが、ここに隼人が入り込む余地はなかった。


 ――残念だが仕方がない。


 藩主から剣術指南役に任じられている自分にも指導させろなどと、言い募るつもりはなかった。自分が必要とされてないのなら、それはそういうことなのだろう。隼人は自分が求められる時に求められる存在でいられればそれでいい。隼人は、これまでいつもそういう風に考えてきた。


 道場の片隅から稽古を眺めていると、ほかの子たちから遅れてひとりの男の子が道場にやってきた。 ひときわ小さな身体は八、九歳くらいだろうか。雨の中を駆けてきたため、全身ずぶぬれだった。一生懸命、手ぬぐいで顔や手足の水を拭っている。


「遅いぞ、陽太郎」

「すみません」


 隼人は、ぺこりと頭を下げる男の子の顔を見つめた。陽太郎――。逆川陽太郎さかがわようたろうか。男の子は、自分の方をじっと見ている隼人に気づくと、いぶかしげな目をしながらも新しく来た剣術の指導者であると気づいたのだろう、お辞儀をして年少の子供たちに混じっていった。


 男の子は気づかなかったようだが、隼人と逆川陽太郎は従兄弟同士だ。逆川陽太郎は、逆川家に嫁いだ隼人の叔母が生んだ子供である。ただし、叔母は逆川家から離縁されて斎家へ戻ってきている。もう五年も前の話だ。


 叔母が――隼人が「姉さん」と呼ぶ父の妹である絵都が、婚家を離縁されて戻ってきた詳細は知らない。まだ幼く、そのようなことを教えてもらえる年齢ではなかったからだ。当時の隼人は、母を病で亡くしたばかり。若くて美しい「姉さん」が家に戻ってきてくれて、うれしかった記憶しかない。しかし、当の絵都は三つになったばかり陽太郎と、まだ乳飲み子だった従妹を逆川家において離縁されていたのだ。


 あれから五年余り。人づてにいろいろな噂をきかされて、あらましを知った。噂によれば逆川に嫁いだ絵都は、姑からずいぶんつらく当たられたようだ。夫である逆川家の主も、妻である絵都を守ろうとはしてくれなかったらしい。そうするうちに、夫の浮気が発覚。姑から「妻のあなたがだらしないから」と責められた絵都がたまらず子供の手を引いて家を出ようとしたところを取り押されられ、逆川家を追い出されたという。


 逆川の当主は、絵都と離縁した後、あろうことかそのときの浮気相手を後添いに迎えたらしい。従弟妹たちはその継母から可愛がられていないと聞いていた。普段はほとんど気にすることのないそれらのことが、雨にずぶぬれになった男の子によって隼人の脳裏に呼び戻された。


 ――もう藩校に通うような年齢になったのか。



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