第53話「あなたのせいではありません」
堤の上をゆくと気持ちがいい。青海川の水面を渡ってきた風が、着物の袖を揺らして追い越してゆくのだ。
足を留めて振り仰ぐと、空は青く澄み渡っていて高く、風はひんやりと冷たい。遠くに眺められる青海山の木々も赤や黄色に色づきはじめていた。
すっかり秋になったのだな――
堤からそう遠くない武家屋敷へ足を向ける。堤を下りてゆくと、屋敷の粗末な作りの戸口に女が姿を見せた。髪は半ば白く痩せていて、足元もおぼつかない。女は屋敷の主、
「お母さま、大丈夫ですか。立ち歩いたりなどして」
駆け寄って絵都が手を取ると、彼女ははかなげな微笑を浮かべた。喜十郎の母親はここ数年寝たきりが続き、数カ月前からやっと起き上がれるようになったばかりだった。
「こうして毎日絵都さまがこられますし、肝心の喜十郎があんなでございますからね。横になってばかりいられません」
「まだ、無理をなさっていけませんわ」
「心得ております」
手をとったまま屋敷の中へ入る。ここ数日、絵都は毎日、板野家を訪ねていた。
屋敷の土間を通り、傘張りの内職道具が散らばる座敷を抜けて奥の間へ喜十郎の母を休ませると、続く喜十郎の居間にむかって声をかけた。
「喜十郎どの」
しばらく待っても返事はない。
「喜十郎どの、入りますよ」
襖を開けるとあいかわらず中は暗かった。部屋の隅に追いやられた文机。山のように積まれた剣術稽古の防具、木刀、竹刀。衣桁に掛けられた何着かの着物、袴、稽古着。雑然とした薄暗い四畳半の真ん中に、板野喜十郎は床を延べて横になっていた。
浅い呼吸が規則正しい。眠っているのだろう。その目元にうっすらと涙が光っている。絵都はその枕元に座って懐紙をとりそっと涙を拭う。
あの日から喜十郎はずっとこうしている。
あの日。秋の観月会の夜――絵都は斎道場にいて落ち着かなかった。
夜中を過ぎても、喜十郎からの知らせはなかった。とうに観月会は終わっている時刻である。
――なにか事が起こったのに違いない。
斎家で絵都だけがひとり、まんじりともできぬ夜を過ごしていた。時間は青虫が這うようにじれったく過ぎ、夜も明けようかという時刻になって、ようやく勝手口の戸を叩く音が聞こえてきたときには、だれよりも早く絵都が駆けつけた。
勝手口の戸の向こうには、背には事切れた
「喜十郎どの……」
応えない。喜十郎は目の前に絵都がやってきたことに気づいていない。ただ、その頬をふた筋の涙が流れ落ちるに任せていた。
「喜十郎どの!」
「あ……」
絵都が強く呼びかけると、はじめて喜十郎の表情が動き、両目に新たな涙が盛り上がった。喜十郎はあやつり人形の糸が切れたようにその場にへたりこむと、まるで子どものように泣きじゃくった。
「できませんでした……。助けられませんでした……二人とも。死なせてしまった! おれが、無能で、弱かった、ばっかりに……死なせてしまった!」
そして、身を揉むように捩って嗚咽するのである。いけないと思った。このままでは心がばらばらになってしまう。喜十郎はどこか遠いところへ行ってしまう。二度と絵都の手の届かない遠いところへ。
「あなたのせいではありません」
気がつくと絵都は喜十郎の前にひざまずき、彼の血まみれになった背中に手を回して抱き締めていた。どこへも行かないよう喜十郎を引き留めないといけない。大切なものを失うのはもうたくさんだ。
「……お願いですからここにいて」
獣のように嗚咽する喜十郎を強く抱き続けた。
どのくらいそうしていたのだろう。我にかえると喜十郎は絵都の腕のなかで眠ってしまい、長かった夜がようやく東の空から明るくなりはじめていた。
夜が明けると、橘家老襲撃事件の詳細が明らかとなってきた。
首謀者である
現場からは篠崎祐馬とほか一名が逃走。篠崎は青海川をさかのぼること一里余り、青海橋のたもとで追ってきた大村圭介を返り討ちにし、直後、何者かによって射殺された。
すべての現場を目撃したただひとりの男、板野喜十郎は全身五か所に銃弾を負いながら一命を取り留めた。別の途を選んで屋敷へ戻った橘厳慎は無事だった。
朝になり、はじめて事のあらましを聞かされた絵都の兄、
あれから三日。
食事もとらず眠り続けている喜十郎を絵都は見守りつづけてきた。やつれた頬に無精ひげが濃い。触れると手のひらをちくちくと刺してくすぐったい。
「目が覚めたら、剃ってあげましょう」
痩せはしたけれどずいぶん血色はよくなった。
もっと良くなる。きっと喜十郎は目を覚ます。
喜十郎が守ろうとした篠崎祐馬は死んだ。大村圭介も死んだ。
だが、喜十郎は強い男だ。だれよりも。なによりも。いつかこの挫折からも立ち上がる。いつものように笑顔で絵都の元へ戻ってきてくれるはずだ。
「そして『絵都さん』って呼んでください」
そのときまで喜十郎は眠り続ける。
[阿片城篇 終]
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