第40話 動きはじめた「敵」
兵庫のお供として訪ねた橘の屋敷では、いつもより長い時間待たされた。二杯目のお茶が冷めてしまう頃になって通された部屋はいつもの座敷でなく、ずっと屋敷の奥、橘の寝所だった。
「人をたてて呼んで来させるつもりだったのだが――耳が早いな」
絵都たちがお見舞いの言葉をかける間もなく橘はしゃべりだした。声には張りがあって意外と元気そうだったが、その身は布団の上に半身を起こすのが精一杯という有様。顔は、半紙に覆われたように真っ白だった。
「こんなに早く兵庫の耳に入ったということは……、城下の噂となっているに違いないな」
話す途中に時折顔をしかめる瞬間がある。けがが痛むのだろう。
「……下城の途中、襲われたというのは確かか」
「まったく面目ない。大見得きってお城を出たというのに……殿に合わせる顔もない」
「何者だ、おぬしを襲ったのは」
「わからん。しかし――」
相当に剣がつかえる男たちだったという。覆面はしていても、狭い城下のことである、それが藩士であれば、どこかで見たことがあると気づくものだ。あれほどの腕を持った藩士に橘は覚えがない――ということは
「家中の者ではないと思う」
「……」
重い沈黙が手負の主人と客のあいだに落ちた。
「それはともかく、ご無事でよろしゅうございました」
「いや、絵都どの。無事というか、命拾いしたといったところが本当だ。あの幸運がなければ、お手前らはわしの死体と対面していたところだ」
「まあ」
襲撃者はふたりだった。見上げるような巨漢と、敏捷な小男といった印象だったという。しかし、そのときの橘は
だが、このときの相手は違った。斬りかかってきたのは巨漢の男一人だけだったのだが、尋常でない遣い手だったのである。
「一度打ち合わせただけでわしの手が痺れた。返す刀も早く、肩を切り裂かれた。たまらず刀を落としたわしは、つぎの瞬間観念したよ。
そのときだ、ひとりの男が屋敷角の四辻を曲がって姿を現したのは。見張りだったのだろう小男の方が駆け寄って斬りつけたが、男は見事な抜き打ちでその刀を弾き飛ばした。
男は大声で助けを求めながら、駆け寄ってくると巨漢の男と斬り結んだ。道に人が出てくる人の気配がした。こうなると襲撃者は浮き足だち、しっぽを巻いて逃げ出したよ」
「助けてくれたのは?」
「それも……わからん。武士だ。屋敷に駆け込んで異変を告げるとそのまま立ち去ってしまった」
それだけ話すと橘は、大きく息をついて身体をよろめかせた。肩の傷は軽くない。こうして話しているのも辛いのだろう。
「わかった。よく休め、彦右衛門」
なにが分かったのか絵都には要領を得なかったが、兵庫とふたりお見舞いの言葉を述べると、早々と橘の屋敷を辞した。
帰り道――
「大事に至らずようございました」
「痛々しいお姿でしたね」
「床を上げるのは、いつ頃になりましょうか」
そう話すのは絵都ばかりで、
「絵都」
「はい」
その兵庫が口を開いたのは、そろそろ道場の屋根が見えようかというところまで戻ってきた時だった。
「ようやく敵が動きはじめたようだ」
「……と申されますと」
「長崎での一件、忘れたわけではあるまい」
兵庫のいう「長崎での一件」とは、この春、藩主に伴って長崎へ向かった藩主の正室、
「長崎で奥方さまを害し損ねたあの方が、反攘夷派の本丸である。筆頭家老・
兵庫のいう「あの方」とは、藩主の叔父で、前藩主の庶兄にあたる
「それでは……」
「今回の件も板野が――、板野新二郎が裏で糸を引いている可能性が高い」
奇妙公の懐刀として、その側近くに仕えている元御徒組、板野新二郎は、兵庫の下で剣名を高めた斎道場の俊才で絵都とも縁浅からぬ人物である。
「長崎で出会ったそうだな。おまえも用心しろ」
やつは得体が知れぬ――と兵庫は続けたのだったが、それを聞いているはずの絵都はうわの空だった。
あの人が……新二郎どのが帰ってきている。
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