阿片城篇

第39話 家老暗殺

 夏が終わろうとしている。

 つい半月ほど前まではいつまでも西の空が明るかったものだが、いまふと気づけばもう足元が暗くなりはじめている。道の脇の草むらからは虫の音も聞こえてきた。城下では暑い日が続いているが、秋はすぐそこまで来ているのだ。


 ――暗くなる前に戻らんとな。


 青海藩筆頭家老、橘厳慎たちばなげんしんは屋敷に向かう足を早めた。


 この春から長崎警備の職を拝命し、現地に赴任していた藩主、宝川義茂たからがわよしもちが一時帰藩してきたのが一昨日。今日、橘は藩の重臣を代表して、藩主が留守中の藩政の進捗しんちょく状況について言上ごんじょうした帰り道である。藩政に熱心な藩主、義茂から受けたいくつか下問に答えるうち、下城の刻限は過ぎてしまっていた。


 藩主からは、用心のため今夜は城内に宿泊するよう勧められたが、橘は丁重に断った。突然筆頭家老が城内に宿泊するとなれば、宿直の家臣たちがその手配に難渋するだろうと考えたからだ。しかし、一歩お城から足を踏み出すと、思いのほか日の沈むのは早かった。


 家老を勤める橘の屋敷は大手門とさほど距離があるわけではない。ただ、お城のほりばたにつづく道は暗く、日が落ちると人通りはほとんどない。寂しげなその道を、橘は下男のひとりも連れずぶらぶらと歩いてゆくのだ、藩主ならずとも物騒なことと考えて無理はなかった。


 ――なに。屋敷はすぐそこだ。それにいざとなれば昔は鳴らした剣の腕で……。


 橘には油断があったと言えるだろう。

 練塀ねりべいの向こうに屋敷の屋根が見える距離までやってきたとき、濠ばたに植っている大イチョウの陰から突然、覆面の男数人が道へ飛び出してきた。


「無礼者!」


 橘の一喝にも怯むことなく駆けてくる彼らは一様に無言で、手には抜き身の刀を下げている。西空の残光を映してぴかりと輝く刀身を目の前に引きつけると襲撃者たちは橘に殺到してきた。


 ――まさか、ほんとうに?


 戸惑ったために刀を抜くのが遅れた。気がつくと目の前に男が迫って、大きく刀を振りかぶっていた。


 ガキッ!


 かろうじて最初の一撃を受け、火花が散った。強烈な打ち込みに橘の手が痺れる。手の中の刀が感覚があった。とんでもない腕力である。


 ――いかん。


 だめだ、斬られる! 恐怖に取り憑かれた者の末路は――死である。橘の胸に死神の手が触れた。


 夕闇に白刃がひらめき、襲撃者の返す刀が橘厳慎の肩を切り裂いた。肩の骨が砕かれる感触。目の前が真っ暗になってゆく――。



☆☆☆



 前青海藩剣術指南役、斎兵庫いつきひょうごの道場でその知らせを最初に耳にしたのは、兵庫とは年の離れた妹である絵都えとだった。屋敷の勝手口で、御用聞きにきた酒屋の若衆が、女中相手に話しているのを耳に留めたのだ。


「それほんとうなの?」


 武家の若奥様(正確には違うが、出入りの商人へは、そういうことになっている)に話しかけられて目を白黒させている若者から、絵都が聞き込んだのは「筆頭家老、橘厳慎たちばなげんしんさまが下城の途中、待ち伏せしていた不逞ふていの浪士共に襲撃され、大怪我おおけがを負った」という驚くべき内容だった。


「まさか」


 驚いたのは、絵都から報告を受けたこの道場の主人である斎兵庫も同じで、知らせを聞いたその顔には「信じられん」と書かれていた。


「でも、店じまいに近くを流していた油屋が、刀を打ち合わせる音を聞いたのですって」

「見てはいないのか」

「剣の心得のない商人ですもの。怖気おぞけが奮って始終、塀の陰に隠れていたそうよ」

「その者の空耳ではなかったのか」

「それが、話はそれだけじゃなくて。昨晩、橘さまのお屋敷に外科治療の名人として知られた蘭方医が、大慌てにあわてて入っていくことがあったらしいの」

「……まるで、見てきたかのような話だな」

「そこはそれ、人の噂というものはそういうものですから」


 兵庫は、まるで自分がならず者から斬りつけられたかのような青白い顔をして聞いていたが、膝を一つ叩くと腰を上げた。


「絵都、支度してくれ。彦右衛門を見舞いにいく」

「えっ、でも……」

「いいから早くしなさい!」

「は、はい」


 噂の真偽は自ら確かめにゆく、居ても立っても居られない――という様子だった。


 青海藩筆頭家老、橘厳慎と斎兵庫とは、まだ先代が道場主を務めていた頃の斎道場で、ともに剣術を学んだ幼なじみである。いまは筆頭家老と隠居の剣術家と立場は違ってしまったが、互いに信頼し合っている親友同士であることには変わりはない。絵都は、橘の身の上に降りかかった災難に、ふたりの絆の深さを再認識した思いだった。

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