第26話 第二の容疑者

 奥御殿に毒を持ち込んだ可能性のある者はふたりいる――。


 長崎へやってくる以前、絵都が尚姫なおひめ警護のお役目に付くにあたっては、筆頭家老の橘厳慎たちばなげんしんからあらかじめ聞かされていたことがあった。


「事件が発覚して後、奥御殿では取り調べが行われた。奥女中の聞き取りはもちろん、居住する部屋、郷里の実家、出入の職人、商人まで徹底的に。しかし、持ち込まれた毒に関わるものは何も発見されなかった」


 絵都の兄、斎兵庫いつきひょうごの幼なじみである橘は、会うといつも可笑おかしなことばかり口にして絵都を笑わせてくれる愉快な男だが、斎家の座敷で向かい合ったときの表情は暗く張り詰めていた。


「なにも?」

「……調べうる限りでは」


 橘は、苦いものを呑んだような顔をしていた。


「じつは、まだ調べることのできていない者がいる。ほかでもない、奥方様ご自身と奥御殿を取りまとめるふたりの奥女中取締おくじょちゅうとりしまりだ」


 奥御殿は男子禁制であり、今回の騒動でも直接表の男たちが調べを進めたわけではなかった。すべては奥御殿を取り仕切る奥女中取締を通して行われた捜査であり、取調べであった。いま、青海藩にその奥女中取締はふたりいる。このふたりの奥女中取締には、表の男たちの捜査権は及ばない。


 ひとりは三十年以上、青海藩の奥御殿に勤めてきた奥女中総取締そうとりしまり霞川かすみかわ。もうひとりが、輿入れとともに赤城藩から尚姫お付の奥女中としてやってきた奥女中取締、桜野さくらのである。 


「この際、奥方様ご自身は容疑からはずすとして、容疑者はあとふたり。まだ何者の取調べも受けていない奥女中総取締、霞川と奥女中取締、桜野だ」


 いまの青海藩奥御殿は、ふたりの奥女中取締の存在によって二派にわかれているといっていい。表立った対立とはなっていないが、これまで奥御殿を取り仕切ってきた霞川の周辺と新しくやってきた桜野の取り巻きとの間には明らかな緊張感がある。


「仮に、どちらかがと繋がっているとすれば」


 橘の懸念は、ふたりのうち、いずれかの奥女中取締が藩内の攘夷派の急先鋒である前藩主の庶兄「奇妙公」と通じているのではないかというところにあった。そうであれば、いま表層に見えているよりもさらに問題の根は深いものとなる。


 ――奥方様の警護と併せて探り出してほしい。


 まるで隠密のような任務が、橘から絵都に課せられていた。


 絵都が用件を済ませて、屋敷の勝手口を入ると厨房からとてもよい匂いがただよってきた。きょうのお茶会に饗される食事が作られているのだろう。その厨房の隣室で、ひとり喜十郎が湯漬けをかきこんでいる。


「やあ、絵都さん」

「……なにをしてるのですか」


 ふたりは人目を避けるように、低い声で囁くように言い交わす。


「いや、小腹が減ったといったら、屋敷の小使いさんが湯漬けを持ってきてくれたので」

「ずうずうしい」

「腹が減ってはなんとやらと申しますから」


 思わず頬が緩んでしまった。どこか抜けた雰囲気をもった喜十郎は、青海藩の奥に漂う張り詰めた空気を和ませてくれる。絵都は喜十郎のそばではじめて人心地つけるような気がした。


「そうそう、桜野どのが絵都さんを探しておられるようでした」

「桜野さまが?」

「案内しましょう」


 ぐいと椀の湯漬けをかき込むと、喜十郎は絵都の先に立って歩きはじめた。はじめてきた場所のはずなのに、ぐいぐいと歩いてゆく様子は、ややうかつではあるものの頼もしい。


「外国人の住まう屋敷というものは変わったものですね」

「ええ、本当に」


 長崎の港を見下ろす外国人居留地の一角を占めるグラバーの屋敷は、真新しい西洋風の建物だ。屋敷をぐるりと取り囲むベランダ。その屋根を支える円柱の連なり、そこここに施される洋風の装飾など、絵都が目にしたことのないものばかりだ。そもそも履物を脱ぐことなく、土足のまま建物のなかに出入りし、絨毯など床に敷かれた調度品を踏みつけてよいというのも奇妙な風習である。


「絵都さんは、なんのご用でこの屋敷にいるのですか」

「奥方様は、長崎での住まいが決まるまで、この屋敷の別棟に仮住まいをされていて、きょうは主のクラバーどのからお茶会に招かれているのです」

「ここに住まわれている……知りませんでした」


 主君の奥方の住まいを把握していないなど、いったいに喜十郎とは呑気でうっかりした男なのだ。兄、新二郎が脱藩という不始末をしでかした後、家禄を召し上げられて生活に困窮していたときでさえも、どこかのんびりした雰囲気を漂わせていた。

 そのうかつな喜十郎が、こうして藩主警護という名誉ある役目を得て長崎に赴任した。昨年、外国人商館襲撃未遂事件の首魁を討ち取った喜十郎の手柄は大きかったといえる。


「たしか、奥方様の控室にいると桜野どのが……。奥方様は?」

「グラバーさまと花壇でお話をされています」

「そうですか」


 いくつかの部屋の脇を抜けて廊下をたどっていくと、突き当りが控室だった。

 大きな木製のドアが閉められいている。西洋風のドアの前で、絵都と喜十郎がどうやって内にいる桜野にじぶんたちの来訪を伝えたものか考えあぐんでいるうちに、部屋の中で複数の人物が言い争う声がしたかと思うと、急にドアが部屋の内側へと開いて若い女中が飛び出してきた。


「お助けください! 桜野さまが――毒を!」


 絵都と喜十郎が、その若い女中を後ろにかばいながら部屋に踏み込むと、なかには庭に面した大きな窓のそばに呆然とたたずむ女性の影が。白い包み紙を手に大きく目を見開いてふたりをにらみつけた三十過ぎの女性こそ、もうひとりの奥女中取締、桜野だった。


 ――まさか、第二の容疑者が。

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