第25話 第一の容疑者

 外国人居留地、イギリス商人クラバーの屋敷は、長崎の港を見下ろす丘の上にある。絵都には見慣れぬ西洋風の屋敷は、広い庭、美しい西洋の花々、石敷きのベランダと屋根とそれを支える円柱の列、沓脱のない住居など、見たことのないものばかり。


 はじめてここへ足を踏み入れた喜十郎は、子どものようにぽかんと口を開けて、周囲を眺めまわしている。最初にきたときの絵都もそうだった。じぶんもあのような間抜け面だったのかと想像すると赤面する。


 庭でまごついているところを、洋装の使用人に声かけされて目を白黒させている様子は、おかしいやら気の毒やら、喜十郎は案内されて庭を出ていった。


「絵都さま」


 喜十郎の取り乱しように袂で口元をおさえて、笑いをかみ殺しているところへ、突然声を掛けられた。


「こ、これは奥方さま」


 そこへ現れたのは、絵都ら奥で働く女中たちが奥方さまと呼び習わしている青海藩主の正室、尚姫なおひめだった。背後に奥女中取締おくじょちゅうとりしまり霞川かすみかわを従えている。絵都は驚いてひざまずいた。


「先ほどのお方はどなた?」


 鈴が鳴るように美しい声だ。尚姫は、絵都が自身の警護のため特別に遣わされた女で、常の奥女中ではないことをわきまえており、いつも丁寧な言葉づかいで接してくれる。

 喜十郎とのやりとりを見られていたのか。


「板野さまと申し上げて、殿さまの警護のために長崎へ来られた方です」

「お知り合い?」


 やはり見られていたのだ。尚姫の目には、そんなに親し気に映ったのだろうか、喜十郎のような者にまで興味があるのだろうか。


「港まで私を護衛していただいておりました」

「まあ、ではなにかお礼をしなければ」


 娘のように華やいだ声をあげる尚姫を見ていると、とても青海あおみ藩十二万石の奥方とは見えな可憐さである。その美貌も相俟って、女の絵都ですらときめきを覚えずにいられない。


 城下では、奥方を伴って長崎へゆく藩主を捉えて、「殿さまは新しい奥方にだ」と下世話な噂が流れているが、男であればこのような女性を片時もそばから離したくないと考えて無理はないだろう。


「殿さまはまだお見えにならないでしょうし、午後のお茶会に加わっていただきましょうよ」

「いけません、奥方さま」


 喜十郎に対する破格の待遇を口にした尚姫を、背後から霞川が制した。

 

「奥方さまと席を同じくするなど、君臣の分を超えておりまする」

「殿さまがこられるまでは、あの方も非番でしょうに」

「職務の有無ではございません。身分違いでございます」


 絵都が思わず、首を縮めてしまうほど、ぴしゃりと言い放った霞川は、奥御殿のすべてを取り仕切る奥女中総取締おくじょちゅうそうとりしまり。奥御殿の差配については、藩主ですら彼女の意向を無視できないといわれる実力者である。

 先々代藩主の時代から三十年以上にわたり青海藩の奥に仕えた女性で、実務能力に長けた才女である反面、権威主義的で格式張った堅物として知られている。絵都がもっとも苦手とする人種だ。


「まあまあ、霞川さん。そう結論を急がなくてもいいじゃないですか。奥方さまもこういっておられることだし、別室でお茶を差し上げることはできますよ?」


 尚姫たちの向こう側から大柄な男の影が現れて、絵都はぎょっと振り仰いだ。真正面から視線が合った、茶色がかった髪、彫の深い顔立ち。この屋敷の主、トーマス・グラバーだった。


 黒船来航の後、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五カ国に開かれた長崎には、各国の商人が先を争って上陸した。


 グラバー商会を率いるトーマス・ブレーク・グラバーは、イギリス出身の貿易商である。今日の茶会は、グラバーが商談相手である青海藩の尚姫を招いて開かれることになっていた。


「食事は大勢でいただいた方が楽しいですしね」


 笑顔で流暢な日本語を操るグラバーは、人当たりもすこぶる良い。

 商人の仕事はモノを売るばかりではなく、人と人との間を取り持つことも含めて仕事であると語っているらしいグラバーは、ここでもその周旋の能力を発揮しはじめた。霞川がなにか言おうと口を開きかけた先を捉えて、


「それがいい、そうしましょう」


とその場を収めてしまった。


 絵都自身は、人当たりが抜群によいこのグラバーという男の得体の知れなさを気味わるく思っている。長崎へやってきて聞いた噂によると、日本へやってきた当初は、生糸や茶などを商っていたが、時局をみて、武器・弾薬を主に扱う商売をはじめたらしい。それも幕府に味方する藩、距離をおいている藩、反幕府を明確にした長州藩と、商売相手に見境はないと聞いた。


 グラバーの商売は、節義をわきまえぬ金の亡者の所業としか絵都には見えない。

 青海藩が長崎の治安を守ってゆくためには、洋式武装を導入しなければならないという理屈は絵都にもわかるのだが、藩主や尚姫がこのような男と接近するのは、愉快でなかった。


「クラバーどのもこう申されておるのだし、板野とやらもお茶会に。のう霞川」


 さすがの霞川も、自身の主と屋敷の主にそう言われてまで、我を通そうとはせず、「絵都どの、はよう用件を済ませてきなされ」と絵都をその場から追い払うように、言いつけただけだった。絵都はお辞儀をすると、尚姫やグラバーたちを庭において、屋敷の裏手へと向かった。


 裏手に回る前にもう一度庭をうかがうと、西洋の花が咲き乱れる花壇の前で、尚姫が口元を押さえて笑っている。グラバーが得意ジョークでも披露したのだろう。その脇に控えている霞川がじっとその様子を見つめている。


 ――第一の容疑者か。


 絵都は、彼女に気づかれないよう、いそいで屋敷のなかへと入っていった。

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