第20話「じれったいな」

 喜十郎たちが海を望む丘の屋敷へ踏み入ってから七日後の青海城下、斎兵庫の屋敷を橘厳慎が訪れていた。一段と冬の気配が濃くなった庭を望む座敷に向かい合って、昼日中から酒を酌み交わしている。


「先日の捕物では世話になった」


 切り出したのは橘だった。


「板野は役に立ったか」

「うむ。じつは後の調べで分かったのだが、あの屋敷に集められていた連中は、京で暗躍していた不逞浪士の一派でな。首魁の土佐某は、あの新撰組も手を焼いていた札付きらしい」

「ほう」

「神道無念流免許皆伝とあう触れ込みの男で、よく板野は生きて帰って来れた。大したものだ」

「しかし、決断は鈍く、判断も甘い。二度も樅木に助けられたそうではないか」


 斎兵庫は、喜十郎に手厳しい。


「その樅木に聞いたのだが、板野は凄まじいまでの抜き打ちを見せるそうだな。拳銃を撃った男の首は、次の瞬間天井まで跳ね飛ばされたそうだぞ」

「たまが当たっておれば、逆に板野の首が離れていたであろうよ」


 橘は、苦笑いしながら盃の酒を口に含む。旨い酒だ。斎兵庫はこういうが、じっさい板野はよく働いてくれた。板野家の家禄はすぐにも元に戻してやらねばなるまい。


「で、問題のあの方だが――」


 斎兵庫のいうあの方とは、事件の発端であり、元凶でもある藩主の伯父、奇妙公のことである。


「さすがに大人しくなった。藩公の逆鱗に触れたわけだからな。しばらくは音沙汰もあるまいよ。しかし……」

「しかし?」

「うむ、あの方と事件の浪士共、どこに接点があったのか……調べが進むのを待つとするかな。ところで、最前から絵都どのの姿が見えぬようだが」

「絵都か、あの跳ね返りはな――」


 盃を片手に持ったまま、斎兵庫が向けた視線の先には、今日もいつものように竹刀を打ち合わせる音が響いてくる道場があった。




 絵都は、屋敷から道場へ通じる通用口の脇からなかの様子を伺っていた。今日も十数人の門人が道場に集まり、師範代の指導のもと剣術の鍛錬に汗を流している。その中に、道場への出入り禁止が解かれた小柄な板野喜十郎の姿があった。


「板野さん、一本やろう!」


 いましも長身の篠崎祐馬から名指しされて、道場の真ん中に出てきて稽古が始まった。


「それそれ!」


 伸び伸びとした打突を次々と繰り出す篠崎とは対照的に、喜十郎は手を縮こめて、視線を低くし、嵐のような篠崎の攻撃に耐えている。絵都にとっては、お馴染みの姿勢だった。


 喜十郎は、いまの門人たちの中にあっては古参のひとりである。いま道場で師範代を務めている本間蓮太郎より以前から道場に通ってきていた。まだ、絵都が娘だった頃だ。


 その頃から、いまのように重心を低くとる男だった。ただ、いまとは正反対に攻撃的で「待つ」ということを知らぬ剣士でもあった。いまの篠崎祐馬に似て、天衣無縫というか、無邪気な剣を遣って疑うことがなかった。


 その剣は、ずっと道場で育ってきた絵都も見たこともない速度の踏み込みから繰り出される、抜き打ちを主体に組み上げられていて、当時の師範代ですら歯が立たず、手のつけられない強さだった。


 そんなある日、人払いされた道場で、兄の兵庫が喜十郎と二人きりで立ち合った。門人に奥伝を伝える流派の儀式と知っていたが、絵都はこっそり覗いていたのである。そのとき兄は、いまの喜十郎そっくりに彼の攻撃をいなし続けながら、その動きを見極め、最後には喜十郎そっくりの抜き打ちで勝負を決めてみせたのであった。


 その日を境に喜十郎は人が変わったように「攻めない」剣士に変わってしまった。貝のように守りを固めて攻めることをせず、じっと相手の動きを伺う戦法をとるようになったのである。


「迷う? いや、あやつは漸く成長しはじめたのだろう」


 兄は、そのまま喜十郎の剣を認め、変えさせようとはしなかった――。


 あれから何年も経つ。

 はたして喜十郎の剣は成長したのだろうか。


「やあ!」


 連続攻撃から、長身の篠崎が上段から繰り出した渾身の一撃が喜十郎の頭上に襲いかかる。一瞬身体を沈めた喜十郎が竹刀を強く弾くと、篠崎の身体が大きく泳いだ。


 ――隙あり いまよ!


 しかし喜十郎は踏み込まない。距離とってまだ篠崎の動きを見ている。

 体勢を立て直した篠崎が、かさにかかって攻めたてる。若さに任せて打ちよせる。ついに、受けきれなくなったところを、強烈な面を決められて勝負がついた。


 ――なにやってるの!


 明らかに喜十郎は、自信をつけさせようと攻め手を加減している。篠崎にそれと気づかれては、稽古にならないと分かっているので巧妙に偽装しているが、手を抜いている。決して自分の評価に繋がらないと分かっていながら……。


「じれったいなあ」


 息を詰めて稽古を見守っていた絵都は、門人たちに気づかれないよう、大きく息をつくと道場に背を向けた。


 空を見上げると鈍色の空から白いものが舞い降りてきているのに気づいた。

 この冬はじめて城下に舞い降りてきた雪ある。絵都が、手でうけるとすっと溶けて消えていった。


「仕方がない……のかな」


 屋根が、庭木が、玉石が、みるみるはふりしきる雪に覆われていく。絵都は小走りに勝手口へ駆け込んでいった。早く戻ったほうがよさそうだ。この分なら兄たちが、雪を見ながらもう一杯と言いだすに違いない。


 雪に煙る道場から、再び竹刀を打ち合わせる音が響きはじめた。


[師走風花篇 終]

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