第18話「打ち倒すことのみ考えろ」

 その日の夜、大目付配下の何某という侍が人目を忍んで板野家を訪れ、二日後の亥の刻(午後10時ごろ)城下の外れ八幡宮の境内に集まるよう告げた。橘家老の言っていたような事情の説明はなかった。


 ――きっと来ていただけるのでしょうな。


 そう怖い顔で念押しされただけだった。


「無論です」


 使いの侍は、喜十郎の返事を気難しい顔をして聞き届けると、夜の闇に溶けるように消えていった。


 夜があけてそのことを思い返した喜十郎は、「あれは、もののけではなかったか」と訝しんだほど現実味のない出来事だった。


 結局、なにが起こって、なんのために、どこへ赴くのか、さっぱり要領を得なかったが、大目付が配下を動かしているとなれば、相手は百姓・町人ではなく武家なのだろうと見当をつけることができた。


「いよいよ竹光というわけにはいくまい」


 二日間、喜十郎は金策に奔走し、ようやく刻限までに刀を質請けして、亥の刻までに八幡宮へたどり着くことができた。喜十郎は自分でも不思議なくらい、気負いも、怯えもなく、朱塗の鳥居をくぐったのだった。ただ、病床の母になにも告げずにやってきたことだけが喜十郎の心残りだった。


 八幡宮の境内には十人余りの武装した男たちが集まっていた。籠手、脛当に鉢金で身を固め、刺股さすまた袖絡そでがらみなど捕物道具を手にした者たちは、目付配下の足軽だろう。陣笠を被った目付と見られる武士が二人。そして、上着を襷掛けに引き絞り、きりりと鉢巻を締めた長身の男がひとり――。


 ――樅木もみき新平ではないか。


 喜十郎はおどろいた。


 御先手組、樅木新平は、年齢二十九。新陰流、柳井道場の高弟で、ここ数年の御前試合で負け知らずの遣い手である。喜十郎は討手の人選に藩重臣たちの本気をみた気がした。同時に、まだ見ぬ敵が予想以上に手強いであろうことも見当がついた。


「貴公は」

「御徒組、板野喜十郎です」

「御先手組、樅木新平だ。討ち入りとなったときは、よろしく頼む」


 板野の名を聞いた時に、樅木の顔をよぎった人を侮ったような表情は、板野新二郎の不始末を知っているからだろう。狭い家中のことだ。知らない者の方が少ない。だからといって不愉快な思いが消えるわけではないが――。


「いったい、今夜はどこへ向かうのでしょう」

「知らぬ……。たとえ知ったとしても、口に上らせぬ方がよかろう」


 喜十郎が身支度するうちに、出発の刻限となった。喜十郎たちは一団の黒い塊となって八幡宮の鳥居を出た。口を開く者は誰もない。雲のない夜、満月に照らされて白く輝く道を西へ西へと一行は進んでいった。


 暗がりのなか、道は続く。浅瀬を選び、月明かりを反射してきらきらと光る青海川を渡った。川向こうは田畑が広がり、人家が格段に少なくなる。黒い森を縫うように続く道。喜十郎たちは、無言のまま夜を貫いて先を急いだ。


 月が中天を過ぎてしばらくした頃、一行の足が止まった。南方遠くに海を望む小高い丘にその屋敷は建てられていた。周囲に塀を巡らしたその屋敷は、身分ある武家の別荘といった趣だった。高く上った月に照らされて屋根瓦が光っている。


 目付の指示で、足軽たちが音もなく屋敷を取り囲む。


「合図があるまで、貴公らはここで」


 目付のひとりに言われて、喜十郎と樅木は少し離れた木の陰から屋敷を見守る形になった。


 たっぷり時間をかけて屋敷を取り囲むと、目付二人は数人の足軽を伴って、屋敷の門に近づいていった。夜のしじまに門を叩く音が響く。しばらくは音沙汰なかったが、やがて屋敷から人が出てきたのだろう。低く言い交わす声が聞こえてきた。


「おとなしく出てくるでしょうか」

「ふん。そんな心配は無用。われらは踏み入って敵を打ち倒すことのみ、考えておればよいのだからな」


 なるほど、それもそうだ。討手としてここにいる喜十郎は、相手が抵抗した時のことのみ気にかけていればいいはずだった。無抵抗で投降する相手に喜十郎の剣は不必要である。


 月明かりをすかして見ていると、足軽に伴われ、幾人かの人影が屋敷から出てくる様子がうかがえた。ひとり、ふたり、三人……。


「どうやら出番はなさそうですね」

「ふん……、いや、待て」


 そういうが早いか、隣にいた樅木が刀の柄を押さえたまま走り出した。喜十郎も釣られたように駆けだす。異変が起こっていた。目の前の門内では怒号が飛び、騒然としはじめていた。


「目付どの!」

「樅木どの! 三人捕らえたが、縄を打とうとして……ふたり斬られた! 邸内に逃げ込んだ!」

「下がって……屋敷の周囲を固めてくれ。ここからは、わたしと板野でゆく!」

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