第17話「無理難題でござる」

 板野家を出て少しゆくと、道は上りになりやがて領内をゆったりと流れる青海川の堤の上へでる。ここまでやってくると、青海の城下が見渡せる。喜十郎たちの前後に人影はひとつもない。ふたりきり道をゆくと鈍色の空は広く、川面を渡る風は冷たかった。


 喜十郎は少し前を歩く橘厳慎の様子を伺う。俊英ぞろいの重臣たちの中にあって、きっての切れ者と評判の男だ。

 上背のある男ではない。しかし、若い頃は斎道場で剣術を学び、皆伝を許されたほどの剣士だという。そのためか足の運びには一分の隙もみられない。


「じつは先刻、斎兵庫と会ってな」

「斎先生と……」


 身のすくむ思いがした。喜十郎も先刻まで斎道場にいたのだ。その間、橘も道場とは別棟になるが斎家の屋敷を訪れていたにちがいない。出入り禁止を申し渡されている道場で稽古をしていたこと、見られはしなかっただろうか。


「おぬしの話を聞いた。遣える男だと」

「……剣術は好きでございます……」

「いま藩では腕の立つ男を探している。斎に相談したのもそのことだ。そして、話の中でおぬしの名がでた」

「は」

「ことは藩の大事だ。委細を聞かず、力を貸してほしい」


 理由を教えることもなく藩に力を貸せとは、筆頭家老と下士の身分ちがいがあるとはいえ、無理難題である。


「……しかし」

「ことによっては斬り合いになるかもしれん。剣の手練れが必要だ」


 ますますいけない。万が一のことがあれば、あの内職道具がとり散らかってみじめな屋敷に、病を得た母をひとり残すことになってしまう。


「無論、ただとは言わん。新二郎の不始末で半分になっている板野家の俸禄は元に復する。さらに、働きが良ければ、おぬしには新しい役目と役料を用意しよう」


 家禄の減俸以来、板野家がどれほどみじめな境遇を強いられたか。借財もかさんでおり、これは喜十郎の泣きどころだった。橘の提案を断り、いままでどおりの暮らしを続けていてはなにも変わらない。


「母御をよい医者に診てもらいたいと思わんか」


 とり散らかした屋敷の奥の間で、老いてゆく母。病床が長くなるうちに、小さく痩せてゆく母。かつては美しく優しかった母――。喜十郎に断る選択肢はなかった。


「そのお役目、引き受けさせていただきます」

「そうか」


 すると、橘は堤の道を外れ、どんどん河原の方へと下りてゆく。歩む道のない、草はらである。喜十郎は家老の意図をはかりかねたが、ともかく、ついて行くしかない。


 しばらくゆくと、草むらが切れ、一面に大小の石が広がる河原にでた。やにわに橘が振り向いた。右手が刀の柄を握っている。


「……ご家老?」

「斎の道場でおぬしを見た」


 あっと思った。見られていたのだ。


「わしの目には、決して強いとは見えぬ稽古ぶりであった。しかし、兵庫は『板野以外考えられぬ』というのだ。青海藩剣術指南役の目に狂いはなかろうが、このわしが――」


 橘は鯉口を切ると、すらりと太刀を抜き放った。


「それを直々に確かめてやる。抜け! 板野」


 滅茶苦茶だ。理屈とはいえぬ屁理屈だ――が、橘が斎兵庫の人選に納得していないことは分かる。自ら喜十郎の力を試したがっていることも。


「いや、それは……」

「抜かずとも、こちらから仕掛けるぞ!」


 躊躇する喜十郎に構わず、橘は打ち掛かる。高々と刀を上げると踏み込みながら切り下げる。さすがは新当流免許皆伝、悪くない一撃だったが、ここは足場の悪い河原だ。剣に鋭さがない。飛び退ってかわす。


 追って二撃、三撃と橘の剣が襲いかかってくるところを同じようにかわす。


「どうした抜かんのか!」


 喜十郎は、腰を落として柄を握り、いつでも抜き打ちにでる態勢をとっていながら抜かない。


「遠慮するな」


 かさにかかって攻めたてる橘。喜十郎は腰に手をやったまま、かわしてばかりである。まるで先刻、道場で篠原、大村に攻め立てられた立ち合いの再現をみるかのようだった。


 いつまでも攻めかかってこない喜十郎に焦れたのか、ひときわ大きな声で気合いを込めると、橘の殺気が膨らんだ。大きな踏み込みと剣先の速さ。


 キンッ!

 石を弾いて火花が散る。どうやら本気で斬りかかってきたようだ。


 いつまでも避けてはいられない。橘は闇雲に打ち掛かっているようにみえて、喜十郎を徐々に水際へ追い詰めていた。


 打ち終わり、橘が大きく踏み込んだ足を引きつける拍子に合わせて、喜十郎は強く石を蹴って、橘の懐へ飛び込んだ。


「御免!」


 左手で相手の右拳を抑えると、咄嗟に相手が振り払おうと刀を引きつけるので、その勢いのまま、右手で柄頭を押すように跳ね上げる。両手を上げた形になった相手の身体を、そのまま捻るようにして投げ飛ばした。


 ふわりと橘の身体か浮いたかと思うと、背中からしたたかに河原の石へ打ち付けられた。


 喜十郎は、奪いとった刀を手に飛び退ると、すぐさま河原の上に平伏した。家老である橘に対して、これ以上の戦意はないことを示したのだ。


「ご無礼仕りました」

「見事だ」


 打ち付けた腰をさすりながら立ち上がった橘は、悔しそうにしながらも口元には笑みを浮かべていた。


「結局、刀を抜くまでもなくしてやられた。完敗だ」

「恐れ入りましてございます」

「板野。日時、刻限は改めて示達する。さほど日数がかかることではない。委細はそのときに聞け。斎にはわしの方から伝えておく――。板野喜十郎は、快く引き受けてくれたとな」


 喜十郎が捧げもった刀を鞘に収めながら、陽気にそういうと堤の土手を上っていった。


 喜十郎は、橘の足音が聞こえなくなるまでその場に這いつくばっていたが、やがて顔を上げると腰の太刀の鯉口を切った。鍔元から白木の刀身が姿を表した。鞘の中身は竹光だったのである。


「まさか、竹光を抜いて立ち回るわけにもいかんからなあ」


 師走の空に、ためいきとも自嘲ともとれる喜十郎の声が上っていった。


 さても、厄介な仕事を引き受けてしまったものだが、そのためにはまず、太刀を質屋から請け出すための資金を段取りしなければならない。ここ数年の貧乏暮らしで、無心するあては、ほとんどなくなってしまっている。


「うーむ。頭が痛いのう……」


 河原にへたり込んだ喜十郎は、考え込んだままいつまでも立ち上がれないのだった。

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