第16話「穴があったら入りたい」
「つっ……!」
土間に据えられた
――篠崎のやつ、手加減もなく打ち据えおって。
しかし、腹が立つというよりは、むしろ情けない思いが勝った。なぜおれには、こうも無様な境遇がついて回るのだろう。熱を持った傷に手拭いを当てながら、
そもそものけちのつきはじめは、兄・
慌てたのは国許に残っていた喜十郎ら家族だった。ほうぼうに頭を下げて回って当主の不始末を謝し、当然の如く新二郎は板野家から籍を抜かれ、喜十郎を新家督として届け出るにあたっては、俸禄の半分を藩に返上した。
苦労の甲斐あって、喜十郎の家督は藩に認められたが、その後も不幸は続いた。新二郎脱藩の後始末に心労を重ねてきた父が急死。前後して、母も病を得て床に就いた。以来、一日と枕をあげることができないでいる。いまも、奥の間で寝ている気配がする。
「喜十郎。戻ったのですか」
「ただいま、戻りました」
「どうかしたのですか。水などつかって」
母親はずっと寝たきりでいるぶん、余計に耳ざといのであろう。水をつかう気配に喜十郎の異変を感じたのかもしれない。
まさか、立ち入り禁止を言い渡されていた道場を覗きに行った上、したたかに殴られて帰ってきましたとは言えない。
「風が――、風強かったものですから、
そうですかと母は一応納得したようだ。情けない。
土間から続く座敷には、内職の傘張りの材料が散らばり、足の踏み場もない。続きの間には、いくつもの傘が広げられたまま干してあり、まるで職人の家のようだ。兄の不始末の尻拭いに藩から支給される俸禄は半分となってしまった上に、母の薬代もかさむため、板野家の家計はみるみる悪化した。給金が払えないので下女には暇を出し、傘張りの内職をはじめた。
傘張りの内職は手間を食う割に身入りが少ない仕事だが、仮にも喜十郎は歴とした武士である。家計が苦しいからといって、お役目をおろそかにし、傘張りより賃金のよい副業に精を出すというわけにもいかない。喜十郎は鬱屈を深めていた。
道場を覗いてみようと考えたのは、ふとした思いつきだった。くさくさした気分も変わるかもしれないと。元来、剣術は好きなたちである。久しぶりに城下へ赴き、竹刀を打ち合わす音を聞くと、たまらなくなって道場での稽古を見続けてしまったのだった。まさか、篠崎と大村にみつかって、恥をかかされる始末になろうとは思いもしなかったが。
――先生の言いつけを守って、道場には近づかねばよかった。
後悔先に立たずというが、重ね重ね情けない話である。
さて、傘張りの続きにでも取り掛かるかと、沓脱に腰を下ろして草履をぬごうとしたそのときである。板野家の門前に訪う声を聞いた。
だれだろう。
内職の傘は先日引き取りにきてもらったばかりだが――。
「たのもう!」
武士である。
不審に思いながら、喜十郎が戸口を出ると手入れの行き届いていない狭い庭を物珍しげに見まわしながら入ってくる武士を認めた。これまで数度、城中の年賀式で遠くから見かけたことがある。青海藩筆頭家老、
「おぬしが……板野喜十郎か」
庭へ現れたのが下男下女ではなく、喜十郎本人だったのが意外だったのか、一瞬橘はきょとんとした顔を見せたが、すぐに笑顔を作ると親しげに話しかけてきた。
「やあ、喜十郎。近ごろはどうだ」
「……ご家老」
もちろん、面識はない。喜十郎は肩を抱かんばかりの橘の様子に目を白黒させた。慌てて
「いや、いかんいかん。武士が軽々しく膝など付いたりしては。さよう、じつはおぬしに話があってな。落ち着いて話ができるところは――」
言いさしたところで、屋敷のなかから「喜十郎、どなたか来られたのですか」と母の
すると橘は、とたんに口をつぐんでみせて、
「母御が寝付いているのだったな」
声をひそめた。
「わしの短慮だった。歩きながら話そう」
橘がそう気を遣ったのは、母の声のせいばかりではないだろう、傘張りの内職のありさまも玄関から筒抜けに見えていたし、庭は幾月も手入れしておらず、草が伸び放題である。
喜十郎は情けなく思うのはもちろん、顔から火が出るほど恥ずかしかった。筆頭家老に板野家の落ちぶれたありさまを晒してしまったのだ。亡くなった父親が生きていたらどれだけ叱言を重ねられたか知れない。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだった。
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