第11話 夜逃げと脅迫状
真夜中の荷出しがあってから数日、
「馬鹿馬鹿しい。うじうじと迷っているくらいなら、用心棒を辞めると女将に言ってくればよいではないか」
鷲尾はそう言うが、簡単に割り切れるものであれば悩んだりはしない。家には一日として枕の上げられぬ母と、積み上がっていくばかりの借金が待っているのだ。金は喉から手が出るほど欲しい。
そんな煩悶を弄びながら、枯れてゆく中庭の風景を眺めているところへ、あわてた様子の番頭が、紙片を持ってやってきた。珍しく女将の
「お騒がせして申し訳ありません、先生方。じつは今朝、店に投げ文がありまして、これなのですが」
「拝見しよう」
喜十郎が手にとると、石を包んで店の敷地に投げ込んだものだろう。しわの寄った掌大の紙片である。そこには細かい文字で、三國屋と女将の藤の悪行について、有る事無い事がさまざまに書き付けられていた。中には抜け荷、御法度などという文字も見える。
「投げ文自体は、これまでもありましたし、珍しくもなんともございませんが」
平気な顔で藤がいう。決してなんともないことではないはずだし、美人の口から淡々とそう言うのを聞くと、殊更凄まじく感じる。
「脅迫めいたことが書かれているな」
「左様でございます」
紙片には、悪行について悔い改めるならば、その罪状を並べて奉行に出頭せよとあった。
「さもなくば天誅あるものと心得よ――か」
「馬鹿馬鹿しい」
藤は吐き捨てるように言った。藤に言わせると、三國屋に認めるべき罪状の一つもない。投げ文は三國屋の商売を妬んでいる同業からの嫌がらせに違いない。ただ、「天誅」という言葉は気になる。数年前、上方で流行し、反攘夷派とみられた公家や武士、商人が暗殺された事件を示す言葉だったからだ。
――三國屋にも後ろ暗いところはある、というわけだ。
念のため、ここ数日の寝ずの番はしっかりやっていただきたい。
どうやら藤と番頭は、念押しにやってきたようだった。喜十郎はともかく、夜も昼間と同様眠りこけている用心棒のことが気に掛かっているらしい。鷲尾が夜の間じゅう眠っていたことは、すでにばれていたようだ。
その鷲尾がどうなのか様子を見てみると、髭に覆われた顎のなかで口をへの字に結び、眉間には皺を寄せて神妙な表情である。藤と番頭が部屋を退くまで、一言も口をきかなかった。用心棒としての不始末を指摘され、腹を立てているのか。それとも恥ずかしがっているのか。しかし、喜十郎にはそのどちらでもないように思われた。髭に覆われていてよく分からないが、鷲尾の顔を青ざめているように見えたからだ。
その日の不寝番は、喜十郎が早番で宵から夜中まで、鷲尾が夜中から朝までの遅番に当たっていた。店中の灯を落とし、皆が寝静まってから二刻。そろそろ交代に来るはずの鷲尾がやってこない。胸騒ぎを感じた喜十郎が部屋に戻ってみると、夜具は延られていたが、いつもはそこで眠り込んでいるはずの鷲尾の姿が見えない。夜具に触れるとまだ温かさが残っていた。
――小便か?
便所に鷲尾の姿はなかった。喜十郎の脳裏に、昼間投げ文を読んで青ざめた鷲尾の顔が蘇る。まさか――。
離れを出て、真っ暗な中庭を横切るとぐるっと店の建物を回って勝手口に出た。星明かりが差すことのない戸口の暗がりで何か
「鷲尾」
喜十郎が押し殺した声を掛けると、鷲尾は目に見えてびくりと身体を震わせた。ゆっくりとこちらを振り返る。
「……喜十郎」
「おぬしまさか、昼間の投げ文に怖気づいて逃げようとしているのではないだろうな」
「……」
「だとすれば、用心棒として雇われていながら、肝心なときに投げだそうとするなど卑怯だと思わんのか!」
知らぬうちに、喜十郎は腰の刀に手を伸ばしていた。それを見て鷲尾は文字どおり震え上がった。
「そうは言うが、わしはおぬしと違って剣の達者というわけではないのだ。わしには家族もある。家では妻とふたりの子どもがわしの帰りを待っておるのだ」
「家族を言い逃れに使うなど、武士らしくないぞ」
「家族のないおぬしに何が分かる。なんども言うが、武士だからという理由で何かに縛られつづける時代ではないんだ。武士の意地は食えんのだ!」
――このわからずやめ!
喜十郎が首根っこを掴んででも、鷲尾を離れへ連れ戻そうと腕を捲ったそのときだった。
ざあっと、夕立でも降り出したかのような音が、店の裏庭に響いて、目の前に次々と黒ずくめの格好をした男たちが現れた。三國屋を取り囲む塀の上から、庭へ飛び降りてきたのだ。
――賊か!
喜十郎は驚いたが、飛び降りてきた黒ずくめの男たちの方が更に驚いていた。まさか、勝手口の内側で店の用心棒たちが揉めていたとは。機はこちらにある。逃してはならない。
「やっ!」
喜十郎は腰を沈めると腰の刀に手を滑らせ、抜き打ち一閃、黒ずくめの男のひとりを有無を言わせず正面から斬り下げたのだった!
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