第10話 汚れた商売
「いい女だろう。妙な気を起こすんじゃないぞ」
「馬鹿を言え」
その上、彼女は頭の切れる女でもあるらしい。三國屋から商売を任され、この新港で何人もの奉公人を雇う店を張っているのだ。並々な才覚ではない。喜十郎に「妙な気」を起こさせるような隙のあろうはずもなかった。
藤が外出する時、用心棒の片割れが丁稚と共について行く。用事が済めば、ふたたび一緒に店へ戻る。それだけである。後は、喜十郎と鷲尾にあてがわれた部屋で昼寝をするか、読み本を読むかしかすることがない。非常に退屈である。
時折り、表の店から声が掛かることがある。新港の好景気に吸い寄せられるように集まる
あとは、店の夜番である。店のすべての金は、毎晩、帳面と共に藤の寝室にある金庫の中に仕舞われるのだが、ふたりはこれの寝ずの番をしなければならない。早番と遅番を決めて、夜通し起きていなければならないのだが、これが一番辛い。もっとも、鷲尾は自分の番になっても眠りかけていることが多いのだが。
「おい、起きろ。交代だ」
「おお、なんだもう交代の時間か」
「何を言ってるんだ、おぬし。寝ずの番のはずが高いびきだったぞ」
「やあ、すまんすまん。夕飯の酒が過ぎたみたいだ」
すでに深夜である。そう言って鷲尾は、大あくびをしながら背を伸ばした。
「まったく。寝酒を一杯というわけか。気楽な商売だな用心棒というのは」
「皮肉はよせ。そういうおぬしだって、同じ穴のむじなだ。この稼業をむやみに卑下するなよ。いい思いをするばかりじゃない。ときには大変なこともあるさ」
あとはよろしくと手を振って部屋を後にしようとする、その鷲尾の手をがしっと喜十郎が掴んだ。
「なんだ?」
「しっ、なにか聞こえないか」
「なんだと」
真っ暗な部屋の中、ふたりが耳を澄ませると、喜十郎のいう通りなにか聞こえる。幾人もの人が荷物を運んでいるような気配だ。
「こっちだ」
「おいおい……」
部屋のある離れを出ると、ほの明るい夜空を背に三國屋の蔵が立ち並んでいる。物音はその蔵の運河に面した側から聞こえてくる。喜十郎と鷲尾は、足音を忍ばせて蔵に近づいていった。
近づくと蔵の戸が開いていた。数人の男たちが出入りしている。暗くてよく見えないが、蔵の前に横付けにされた小舟に木箱を積み込んでいるようだ。盗賊か――喜十郎は緊張したが、よく見ると荷物を運ぶ男たちは三國屋のお仕着せを身につけている。そして、蔵の戸口に立ってあれこれ指図しているのは、女将の藤らしい。
「店の者たちは、何をしてるんだ」
「荷出しだな」
「それは分かる。しかし、いったいなんだってこんな真夜中に」
「抜け荷なのさ」
「抜け荷?」
アメリカのペリー提督来航に始まる一連の諸外国との交渉によって鎖国の禁は解かれたとはいえ、外国貿易に開かれた港はわずかに五港。ほとんどの港では外国との貿易は禁じられている。しかし、中途半端な幕府の政策は、商人たちに外国貿易との抜け荷=密貿易を助長する面もあったのである。
「なにしろ抜け荷は利鞘が大きい上に、そもそも藩役人の目が届かないところで、行われる交易だ。その売り上げに税はかからない」
「なに?」
「三國屋は長崎のグラバーとかいう英国商人を介して抜け荷を捌いているらしい。絹糸を売って、
「三國屋は、密貿易を行っている上に、御禁制の阿片を商っているというのか。……おぬし、それを知っていて知らぬふりを?」
これだから頭の固い藩士はやりにくいと、鷲尾は頭を振った。
「いいか喜十郎。おぬしは知らんかもしれんが、大なり小なり、新港の商家ならどこでもやっていることだ」
「しかし、武士たるもの――」
「たとえ武士であっても、きれいごとだけでは生きていけんのだよ、板野喜十郎。たしかに三國屋の商売は汚い。鞘当ての激しいこの商売では潰された商家も多く、恨みを買っている。だが、武士の意地や矜持で米は買えん。汚い金であっても生きていくためには掴まなくてはならんのだ」
何か言い返さなくてはならないと思ったが、そこで鷲尾の境遇を思い出した。僅かとはいえ主家から俸禄が支給されている喜十郎とは違い、十年来の浪人暮らしである。武士ではあっても主家を持たぬ以上、食い扶持は自分の才覚で稼ぎ出さなくてはならない。
果たして、自分が鷲尾の立場であったらどうだろう。百姓のように田畑を持っているわけではなく、商人のように算盤ができるわけでもない。刀を振るしか能がなくしてどうやって生きていけばいい? 金を稼げはいいのだ? なにも言い返すことができずに喜十郎は口をつぐんだ。
星明りの下で行われた荷出しは、ひっそりと終わった。女将の藤が蔵の錠前に鍵を掛けると、店の男たちが音もなく運河に小舟を漕ぎだして闇の中へ消えていった。
「わしらも行こう」
喜十郎は藤が戻ってくる前に、離れへ戻った。
いつもは眠くて堪らなくなる不寝番も、この日ばかりはまったく眠くならないうちに夜が明けた。
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