第4話 助太刀はまだか

 いつき道場の師範代、本間蓮太郎ほんまれんたろうはひとり屈辱に耐えていた。

 果し合いの時刻であるの刻がやってきても、約定やくじょうの場所である青海原あおみがはら隼人はやとの助太刀となる剣士が姿を見せなかったからだ。


「斎道場の主は、臆病風に吹かれたようだ」


 騒動の張本人で道場破りでもある浪人、藤堂我聞とうどうがもんはそう言って下卑た笑い声をあげた。


「いつまでも来ぬようであれば……この看板、いかように処分しても文句なかろうな」

「ま、まて」

「それともなにか、おぬしがわしの相手をしてくれるのか? 昨日のように」


 にやにやした笑いが、藤堂の顔全体に広がっていく。ほんとうに心根の卑しい、嫌なやつだ。本間は口の中に湧いてくる、やけに粘ついた唾を足元に吐きつけて踏みにじった。


 ――隼人さんが無事でさえいれば……。いや、あのときおれが油断しさえしなければ、こんな減らず口を聞かされずに済んだものを!


 本間は歯噛みして悔しがったが、覆水盆ふくすいぼんに返らず――過ぎた時間はもとに戻りはしない。

 昼過ぎ、道場を出て青海原に向かう道中、斎道場の後継者である隼人が倒れた。もともと身体は丈夫ではなく、道場に立つ日よりも自室で横になっている日の方が多いような若者だった。しかし、今朝は元気に見えたのだ。いつも以上に。


 それが青海原まであと少しというところまで来て、急にふらつき始め、どうと土ぼこりをあげて道端に倒れ伏した。隼人の顔色は蒼白で、全身が熱く火照って汗みずくになっていた。この寒空の下で。


 とても戦わせられない。本間の指示で、意識を失った隼人はすぐさま道場に戻された。


「助太刀を頼む」


 道場へ戻る門人たちにそう託してから一刻あまり。本間蓮太郎はひとり、藤堂我聞と近在からやってきた物見高いやじ馬たちの待つ青海原へやってきていたのだった。


「約束の未の刻も、なかばを過ぎようとしているぞ。来ないということは逃げたということだな」

「なにを!」


 思わず腰の刀に手をかける。しかし、木刀であれ、真剣であれ、藤堂と立ち会って本間に勝てる見込みはまったくなかった。なぜなら、昨日の立ち合いで本間の足は骨を砕かれていたからだ。副木そえぎに支えられようやく立っているのが精いっぱいという状態だった。


「青海藩の剣術指南役の道場と聞いてきたのに拍子抜けだ。さては斎道場とは、腰抜けぞろいの道場だったらしいな」


 これはあきらかに、負傷した本間を果し合いにおびき出そうとする挑発だったが、そう分かっていながらも彼は我慢できなかった。このような辱めを受け、これをすすがずにいて何が武士か、侍か!


「貴様!」


 本間が一歩足を踏み出した、ちょうどその時、青海原に現れたひとりの若侍に、その場にいた者すべての視線が集まった。紺地に白刺し子の道着と柿色の野袴。右手に木刀を捧げ持っている。隼人が道場を出発したときのだ。しかし――やってきた若侍は隼人ではなかった。


 だれだ?

 異様な風体だ。ねずみ色の頭巾で覆面をしている。小柄で華奢といって身体つきだった。頭巾の奥から目だけがきらきらと光っている。まっすぐにこちらへ向かってきた。この少年のような剣士が果し合いの助太刀なのだろうか。


「奇妙なやつだな。なんだその頭巾は。おまえが斎道場の助太刀か?」


 藤堂の声にはこの小さな挑戦者を侮る響きがあった。


「怖気づいて声も出せないのか、小僧。いいだろう。たっぷり可愛がってやろうじゃないか」


 覆面の剣士は、なおも言い募る藤堂を黙殺し、本間に歩み寄ってきた。近くで見ると、ほんとうに小柄だ。白くてきめ細かな首筋、小さく細い手。これは――。


「本間さん。遅くなってごめんなさい。ほんとうにご苦労さまでした」

「――絵……」


 ぐっと絵都えとが袖を引いたので、本間は口をつぐんだ。これから果し合いというときに、わざわざこちらの剣士が女であることを敵に悟らせる愚はない。


 助太刀は間に合った。しかし、思いもよらぬことに助太刀の剣士は絵都だったのである。


「隼人は無事、道場に着きました。いまは眠っています」

「しかし、あなたが……やってくるなどと」

「門人たちは篠原や大村――板野喜十郎いたのきじゅうろうもいなかったの。いざというとき、男って頼りにならないのね」


 頭巾から覗いている絵都の目が笑った。


「なんだ小僧、師範代と額を突き合わせてこそこそと。逃げだし方の相談か。こい! はじめようじゃないか」


 藤堂が苛ついた声を張り上げた。冷静さを欠いて勝負に勝てると思っているのか。やはり、絵都のことを少年と見て侮っている。しかし――。


「狂犬は我慢が利かなくなってきたようね。そろそろ行くわ」

「しかし、あなたに行かせるわけには」


 相手となる藤堂は人かどの剣客である。それに対し、いくら剣の心得があるとはいえ絵都は女なのだ。勝ち目があるとは思えなかった。


「やはり、わたしが――」


 絵都が、足を踏み出そうとした本間の袖を取ってぐっと引いた。動けない! どういう工夫があるのか、手の力一つで本間の動きは制されてしまった。


「まだか!」


 藤堂がえた。同時に、絵都がすっと本間から身体を離し、くるりとこちらに背を向けて藤堂と対峙した。


「ありがとう本間さん。でも、大丈夫――わたしは負けませんから」


 絵都は、果たし合いの舞台へ向けて一歩、足を踏み出した。

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