第3話 砕かれた希望

 翌日は、道場の中庭一面に霜が降りた。雲一つない晴天を渡る風が冷たい。冬の走り――底冷えのする朝となった。まだその霜の解けぬうちから、午後の果し合いを気に掛けた門人がぽつりぽつりと道場に集まりはじめていた。隼人はやとの体調は思わしくなく、彼を取り巻く空気は重かった。


 昨夜からの微熱がとれず、顔色が悪かった。一気に季節の進んだ冷え込みに隼人の体調が追い付いていないのは明らかだった。口では「平気です」とは言っている気丈さが、絵都えとにとっては痛々しい。少しでも長いあいだ横になっているよう言いつけると、隼人は大人しく頷いた。午後の試合は木刀をもって行われる。しかし、打ちどころが悪ければ大けがを負うし、ときには死ぬことさえあるのだ。若い隼人は、その胸の内に期すものがあるのだろう。


 道場に集まった門人には、身分の低い者――下士の次男、三男や町人の若者たちが多い。刻限にはまだ間があるというのに、気の立った彼らのなかには、偵察と称して青海原あおみがはらまで駆けていく者が現れた。


藤堂とうどうの姿は見えませんでした」


 当たり前である。しかし――


「まだ、午前のうちだというのに、物見高い町人、百姓が集まってました」

「もう? 何人?」

「まだ七、八人といったところでしょうか」


 高札を掲げた効果だろう。一日のうちに城下はもちろん近郷にまで果たし合いの噂は広まっているようだった。まだ昼前だというのに人が集まりはじめている。道場破りの藤堂にとっては狙いどおり、いつき道場から見ると苦々しい限りだった。


 ――逃げも隠れもできませんよというわけか。


 斎道場に人材なしと、見透かされているようだ。いや、じっさい藤堂我聞からそう見透かされたからこその果たし合いだろう。狡猾こうかつな男だと絵都は思った。


 昼前には、師範代の本間蓮太郎ほんまれんたろうが現れた。昨日より幾分か血色が戻ったとはいえ、まだ辛そうに足を引きずっていた。絵都から隼人がまだ横になっていると聞かされ、表情を曇らせた。


「隼人さんの具合はそんなに悪いのですか」


 本間の声音は苦渋に満ちていた。彼は自身の迂闊うかつがこの災いを道場に招き入れてしまったと考えていたからだ。


「朝から微熱が続いてて――」

「そんなことはありませんよ、元気です」


 絵都と本間が暗い顔を突き合わせている座敷に、当の隼人が現れた。すでに身支度を整え、紺地に白の刺し子が施された道着に野袴といったいでたちである。


「隼人」

「大丈夫ですか」

「平気だよ、ふたりとも心配性だな」


 顔色はあまり良くなかったが声には張りがある。


「姉さん、ちょっと早いけれど腹拵はらごしらえをいいかい。湯漬けが食べたいんだ」


 なにより、果たし合いを前にして食欲があるというのはいいことだ。

 湯漬けを二杯、腹に収めると「腹ごなしに」と道場に出て、若い門人を相手に昨日と同じ形稽古を繰り返した。稽古とはいえ、人と相対して繰り出す打ち込みは、昨日にも増して研ぎ澄まされた切れ味で、道場に居並ぶ門人たちは皆、固唾を飲んで隼人の稽古を見守った。


「すごい」

「さすが隼人さん」

「負けるわけがない」


 道場を支配していた沈んだ空気が、隼人に見せられた稽古ですべて入れ替わった。


 ――隼人さんは強い。

 ――必ず勝つ。


 張り詰めていた本間蓮太郎の表情も幾分か緩んできた。絶対絶命の斎道場に希望の光が差して見えたのかもしれない。


 昼過ぎ、隼人は本間以下数名の門人と共に道場を出発した。


「いってきます」


 その穏やかな顔には微笑みさえ浮かんでいて、生まれて初めての果し合いに向かうにしては、驚くほど気負ったところがなかった。絵都はその背中を見送りながら、およそ剣術家らしくないけれど、隼人らしい――と考えていた。


 隼人たちを見送ってしまうと、絵都は、時間をかけて門前をきれいに掃き清め、奥の間の仏壇の明りを取り換えると、斎家の先祖に隼人の無事を祈った。

 いま、仏壇のなかに並んでいる位牌はふたつ。ひとつは絵都がまだ幼いころに亡くなった母のもの。もうひとつは兄の妻、実の姉のように慕ってきた義姉のものである。


 ――無事、隼人が戻りますように。


 絵都が、仏前に手を合わせている正にそのとき、屋敷の門前が急に騒がしくなかった。門人たちが大きな声を上げている。


「どうしたのですか」


 絵都は道場を覗き込んで、息を呑んだ。門人たちに囲まれた戸板の上に隼人が横たわっていた。紙のように真っ白な顔をして目を閉じている。


「青海原へ向かう途中、隼人さんが倒れてしまって」

「いったいなにがあったのです!」

「わかりません。ふらつき始めたと思ったら急に……」


 門人たちも困惑していた。やはり、無理をしていたのだ。隼人の体調はとても果たし合いに臨む状態ではなかった。なのに、皆を心配させまいとして、殊更気丈に振る舞って見せたのに違いない。


 絵都は、こぶしが白くなるほど強く手を握りしめた。


 ――わたしのせいだ。わたしに迷いがあったため、隼人に辛い思いをさせてしまった。


 医師を呼びに行くよう言いつけて、隼人は奥に運び込ませた。さあ、藤堂との果たし合いには、代役を立てなければならない。いったいだれを?


「本間――本間さんは、どうしたのです」


 戻ってきた門人たちのなかに師範代、本間蓮太郎の姿が見えなかった。


「師範代は、われわれに隼人さんを送り届けるよう言いつけて……。ひとり、青海原へ向かわれました」


 ここにもひとりで責任を背負い込もうとしている男がいる――絵都は心の中で歯噛みをした。あの身体では勝負ならないというのに。助太刀が必要だ。今すぐに!


篠崎祐馬しのざきゆうまや、大村圭介おおむらけいすけは?」


 門人の篠崎祐馬と大村圭介。ふたりはまだ十代の若い藩士だが、腕は立つ。道場の看板に泥を塗るようなことはないだろう。


「ふたりとも、ご当主の名代としてお城に詰めています」

 

 そうだった。いま藩の上士たちとその子息は、長州へ出兵に伴って非常事態なのだ。しかし、下士である藩士ならば――。

 

「喜十郎どの、板野喜十郎いたのきじゅうろうは?」

「さっき屋敷に伺ったのですが……不在でした」

「ああ」


 この肝心な時に、は。まもなく藤堂と約束の刻限だ。いまから板野喜十郎を探し出していたのでは間に合わない。


 ――どうすればいい。どうすれば?

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