第2話 華麗なる剣士

 稽古をするといってもすでに夕刻である。道場に人の姿はなかった。


「明日のために、形をさらっておきます」


 ひとりで行う剣の形稽古かたけいこだった。


「姉さんが見ていてくれるなら安心だから」


 絵都えとの見守る前で、隼人はやとが形稽古をはじめた。

 木刀を手にした隼人が、濃い影の落ちる道場の中央に立ち、いつき家に伝わる刀法の形を披露するのだ。しなやかな身体の動き、明確な意思をもった足さばき、気迫のこもった打ち込み。本来はふたり一組で行う稽古を隼人ひとりが行っているが、まるで隼人の前にもうひとりの剣士がいるかのような形稽古である。


 本間蓮太郎ほんまれんたろうの話に出てきた藤堂我聞とうどうがもんの太刀筋を思い描きながら、藤堂と戦っているかのようにひとり木刀を振るう隼人。


藤堂の打ち込みを払って、斬る。かわして、斬る。擦り上げて、斬る。夕闇の中から現れる藤堂を隼人はつぎつぎと斬り伏せてゆく。


 ――見事。


 道場の隅で隼人の稽古を見守っている絵都は、心の中で呟いた。


 ――なまなかな剣士では、隼人に太刀打ちはできないでしょう。


 いまは道場を留守にしている兄・斎兵庫いつきひょうごの隼人に対する評価は厳しい。「息子の剣は、まだまだ小僧の剣術だ」と。しかし、ずっとこの道場で師範である兄や門人たちを見てきた絵都は、隼人の剣をこれまで会った剣士のなかで、五本の指に入る腕前だと思っている。


 たしかに隼人は身体が弱く、剣に力強さはないが、ち密で繊細な剣を遣う。相手の勢いに巻き込まれることなく、斬らせずに斬る刀法だ思っていた。竹刀剣術では力負けしてしまうが、真剣をもってその真価を発揮する。実践の剣だ。


 道場に木刀が空気を切り裂く音が響く。

 隼人の足さばきは軽く、息遣いはまったく乱れない。


 ――本来なら、負ける相手ではない。


 絵都の兄で、隼人の父である斎兵庫が当主を務める斎家は、代々藩の剣術指南役を務める家柄で、隼人はそのひとり息子だ。幼いころに母親亡くし、以来、叔母である絵都が面倒を見てきた。可愛い甥っ子は実の弟のようなものである。


 絵都の見るところ、隼人の技量に不足ない。しかし、この胸を蝕んでゆく不安の大きさときたら、どうだ――。


 突然、いままで颯爽としていた隼人の足さばきが乱れた。太刀筋が迷い、身体に不自然な力みがみえた。「あっ」と絵都が腰を浮かせかけたところで、隼人がその場に蹲踞そんきょし、腰に木刀を収めた。稽古が終わったのだ。一瞬、隼人の体に不調が兆したように見えたのだが、気のせいだったのだろうか。


「どうしました、姉さん。そんな顔をして」

「隼人。いま体になにかあったのではないですか?」

「いいえ、元気ですよ。姉さんは心配性だなあ」


 そういってにこにこしている隼人は、額にうっすらと汗を浮かべている以外、息も切らせていない。


「……ならいいのだけれど」


 絵都も胸の内の不安を飲み込んで、そう言わざるを得なかった。ほかにどうすればいいのだ? 行くなと言って、隼人の代わりにだれが明日の戦いに向かうというのか。兄をはじめ、道場の門人である藩士はほぼ全員が公務により出払っているのだ。いったい誰が。


 この年の夏、攘夷派の急先鋒である長州藩が兵を率いて上洛し、御所で騒動を起こした――いわゆる禁門の変は、薩摩藩と会津藩が連合したことによって長州藩の敗北に終わる。その後朝廷より「長州を討て」との勅命を受けた幕府は、大軍を長州藩に差し向けた。世にいう「長州征討」である。幕府軍とはいえ、その実体は西国各藩の連合軍であった。絵都たちの青海あおみ藩も、5000名の兵力を幕府の命令で差し出していた。この間、主だった藩士は長州との戦いに動員され、領内には治安の空白状態が生まれていたのだった。


 ――そうでなければ道場破りなどのさばらなかったものを。


 青海領内に複数ある剣術道場に、他流試合を持ち掛ける道場破りが跋扈ばっこしていた。騒然とした世情のなか、剣の腕を示して一旗揚げようという浪人たちが領内に流れ込んでいると噂だ。それが青海城下にまでやってくるとは。


「姉さん、ありがとうございました。なんとかなりそうです」

「そうね。今日はこれくらいにしておきましょう」


 その日、夕餉をとると屋敷の灯をいつもより早くに落とした。

 明日という日を、万全の状態で迎えたかったからだ。あたりが暗くなると、澄み渡った空に月が美しい夜になった。

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