真・青海剣客伝

藤光

第一部

秀花峻霜篇

第1話 道場破り

 ――お母さま、お義姉さま。どうかこの道場をお守りください。


 胸の前で合わせていた両手をほどくと目を開けた。ゆらめくロウソクの炎と線香の香り。仏壇のなかにふたつ並んだ位牌は、子どもの頃亡くなった母とほんとうの姉とも慕っていた義姉のものである。絵都は用意していた木刀を身体に引き寄せて立ち上がった。


「いって参ります」


 深々と一礼すると畳を蹴る音を残して座敷を後にした。晩秋の日に庭木の影が伸び始めた午後のことだった。


☆☆☆


 いつき道場がどこのだれとも知れぬ浪人によって道場破りにあった。折から道場主であり藩の剣術指南役でもある斎兵庫いつきひょうごが長期間留守にしている間の出来事だった。朝から稽古の様子をちらちらと伺っていたその浪人が道場に乗り込んできたのは、主人の不在を見越してのことだと思われた。


「一手ご教示願いたい」


 言うまでもなく主の許可のない他流試合は、道場の厳しく戒めるところである。道場の師範代、本間蓮太郎ほんまれんたろうは「主の許可なくして勝手はできませぬゆえ」と断ったが、浪人は納得しない。難癖のような理由をつけては本間に食い下がり、相手にしてもらえぬと分かると、稽古に通ってきている年若い門人たちに絡みはじめた。


 斎道場の門人には武士ばかりでなく、町人も多い。浪人とはいえ武士の身分にある者が年若い町人たちに絡んで平気でいるような無法をこの道場の師範代は許すことができなかった。もとの気性がまっすぐな男なのである。


「名は」

藤堂我聞とうどうがもん

「藤堂、こっちへこい」


 木刀を手に取り、ひとつふたつ殴りつけて道場から放り出すつもりだったが、本間の目は相手の歪んだ気性を見誤っていた。のっそりと道場に上がり込んだ藤堂は、木刀を抜き合わせることなく本間に打ちかかってきたのである。


「卑怯!」

「ほざけ!」


 顔をのけぞらせて直撃は防いだものの、右面を打たれた本間の身体は大きく泳いだ。大きな隙を作ってしまった本間は、つぎつぎと藤堂の打ち込みを受けてしまう。木刀で防ぎ、足を使って回り込もうとするのだが、相手は容易にそれを許さない。本間の足が止まったところをかさにかかって打ち込まれ、木刀が弾き飛ばされて勝負は決まった。


 それでも藤堂は、木刀を振るうのをやめなかった。さんざんに打ち据えたあげく、無抵抗となった本間を足蹴にして床に転がすと、「参ったといえ!」と強要した。武士である本間にとっては大変な不名誉であり、屈辱である。


 藤堂は狂犬のような男だった。挙句、「看板は預かる。返して欲しければ今日は不在の道場主に取りにこさせることだ」と言い捨てて去っていったのである。


 加えて、城下、徳應寺とくおうじ前の辻に高札を立てて、


 ――明日未の刻、城下、青海原あおみがはらにて預かった看板を賭けて決闘する。


とまで喧伝したものだから、「斎道場が敗れた!」という噂が、またたく間に城下を駆け巡ったのである。





「申し訳ございません!」

「いや、本間さんは悪くないよ。ただ、相手が悪かった」


 片腕を首から吊り、頭には赤く血の滲んだ白布を巻いた痛々しい姿の師範代が、斎兵庫のひとり息子で道場の留守を預かる隼人はやとの前に平伏していた。


「わたしが短気を起こしたばかりに、このような醜態をお見せることになってしまい、お詫びの言葉もありません。ましてや、斎道場の看板まで強奪される不始末。わたしの腹一つで済みますものなら……」

「やめてください本間さん。そんなの嫌ですよ――。そもそも、父が留守のあいだ道場の跡取である僕がこんな風でなくて……もっとしっかりしていれば、本間さんが矢面に立つことはなかったんですからね」


 そういう隼人は、屋敷の奥の間に述べられた布団の上に身体を起こしているものの、その顔貌に血の気はなく、時折激しく咳き込みながら本間の話を聞いている。


 斎隼人は十九歳の若者である。この道場の跡取は幼いころから体が弱く、季節の変わり目には体調を崩して寝込んでしまうのが常だった。今回もこのことが起こるまで三日間、枕を上げられないでいた。


「申し訳ありません」

「だから、申し訳ないのは僕のほうです。僕のせいで本間さんまでひどいめにあってしまって。大丈夫。明日は僕が青海原へ出向きます」

「しかし……」

「その身体じゃ本間さんは無理です。平気です、勝てますよ」


 たぶん――と言いかけて隼人は言葉を飲み込んだ。これ以上この気の毒な師範代を追い詰めてはいけないと思ったのだ。

 

 肩を落とした本間が、足を引きずりながら引き取るのとほぼ同時に、外から部屋の様子をうかがっていた女性が入ってきた。手にしたお盆に薬湯の入った湯呑を載せている。


「隼人。まだ横になっていなくては――」

「姉さんは聞いてたんでしょう。明日は僕がいかないと」


 女性は斎兵庫の妹――隼人にとっては叔母に当たる絵都えとである。若くて美しい叔母は、隼人から「姉さん」と呼ばれている。絵都は素早く隼人の側に近づくと、そっと手で甥の背中を支えた。


「そんなこと言ったって、あなたはまだ……」

「平気です。気分もいいし、三日も寝ていたのでずいぶんと良くなりました」


 隼人は受け取った湯呑ゆっくりと口に運ぶ。絵都の支える隼人の背中は小さく、のど仏が上下するその首は痛々しいほどに細い。


「明日に備えて、道場で肩慣らしをしたいんです。姉さん、着替えるので手伝ってもらえませんか」


 そう言って微笑む仕草まで儚げに見せてしまう甥の姿に、絵都の不安は大きくなってゆくばかりだった。

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