傘張哀歌篇

第7話 傘張侍

彦右衛門ひこえもんから聞かされたときは驚いたぞ。道場破りとはな」


 青海藩剣術指南役、斎兵庫いつきひょうごは眉間にしわを寄せてそう言った。彼の前には妹の絵都が小さくなって座っている。藩の家老、橘厳慎たちばなげんしんが屋敷を辞したあと、彼女は兄の居室に呼びつけられていた。


「城下では、が藤堂某とかいう浪人と立ち合ったという噂があるようだが」

「だって……ほかに方法がなかったんですもの」

「噂はほんとうなんだな?」


 腕組んだ兵庫は大きなため息をついた。しばらく道場を留守にしている間にそんなこととなったいたとは。


「隼人の体調が悪かったのは致し方ないとして、他に門人はいなかったのか」

「篠崎さんや大村さんは、お城に詰めてしまっていて――」

「なぜ、板野を呼ばなかった」


 兵庫の脳裏に風采の上がらぬ小柄な男の姿が浮かんだ。主だった藩士は出陣したとは言え板野はここに残ったはず。やつがいて、どうしてこのような仕儀となったのか。


「屋敷にいなかったんですもの」


 そういって絵都は、拗ねたように唇をとがらせて見せた。まったく、いつまで経っても娘の気分が抜けきれない妹だ。


「いなかった?」

「内職の納品とかいろいろ忙しいんでしょうよ。それに――あの方を道場への出入り禁止にしたのは、兄様じゃありませんか」

「む?」

「それなのに、道場に急な事が起これば『来てくれ』とは、虫がよすぎませんか」


「むむ」と言ったなり、二の句が継げなくなった。たしかにそうだ。あの男には家のこと以外に心を煩わせないよう道場には来るなと言いつけてある。そうか。内職か。はて、それも武士としていかがなものかと思うが。


 斎兵庫は、母屋のひさしと道場の屋根に区切られた青い空へと目を遊ばせた。師走に入り、空を渡る風は日に日に冷たくなってゆく。しばらく見ないが、あの男――板野喜十郎いたのきじゅうろうはどうしているだろうか。


☆☆☆


「お約束の傘、十五張り。たしかにお預かり致します」


 三國屋みくにやの番頭は、手際良く傘をふたつの風呂敷に傘をまとめると、ひとつを背に負い、もうひとつを手に持つとぺこりと頭を下げた。そして、足早に屋敷を出てゆこうとする。


「まてまて」


 下級藩士の屋敷によく見られる狭い庭を横切って、いままさに門を出ようとする番頭を追って、煤ぼけた屋敷からひとりの武士が転がるように出てきた。手に先ほど番頭から受け取った銭を握っている。


「なにか」


 まだ若いその番頭がとぼけた風を装って振り返った。


「もう少しその……。傘張り代にな。その……色をつけてくれんか」


 番頭を呼び止めた武士は、内職の手当を弾んで欲しいというのだ。番頭は少し困った顔を作ってみせたが、その実、情け容赦はなかった。


「さあて、まだ傘の入用な季節には早うございますし。板野さまの仕上げでは傘に高値を付けるわけにもいきませんで」

「つぎはもっときれいに仕上げてみせる。約束する。だから今回の手間賃に少し上乗せしてくれんか」


 番頭の言い様は武家に対してかなり無礼なものだったが、ここにいるふたり共まったくそのことに頓着していない。


「……はあ。いつもお世話になっている板野さまですし……明後日までにあと五張り。仕上げていただけましたなら」

「恩に着る」


 武士は、まだ若い番頭に頭を下げた。まだ屋敷の内とはいえ、恥も外聞もないとはこのことだ。


「ただ、年の瀬も押し迫って参りまして、手前どもも商いの都合が」

「無論。おれの方で店まで持って行こう」

「左様でございますか。それなら――」


 話はまとまった。門を出てゆくの番頭を見送った武士は、背中を丸めて屋敷の内へ引き返す。無精髭が目立ち、顔にかかるびんのほつれも甚だしい三十男だ。戸口をくぐる前に大きなため息を一つついた。


 屋敷の中は暗い。土間に接する六畳は本来、客間である座敷なのだが、いまは内職である傘張りの作業場となってしまっている。


「喜十郎」


 座敷に上がろうと草履を脱いだところで、奥から武士を呼ぶか細い声がした。


「なんでしょう。母上」

「さきほど、だれか見えられたですか」


 奥の間に床を延べて横になっているのは、喜十郎の母親だった。彼の母はここ数年寝たきりとなっている。


「三國屋です。番傘を引き取りに来てもらいました」

「そう」


 母の声に元気がない。彼女としては、喜十郎が内職をしていることが気に入らないのである。歴とした青海藩士であるのに内職に励むなどと、武士らしくもないと。もちろん、喜十郎もそう思う。しかし、いまの板野家は藩から減俸の処分を受けており、家計は甚だ苦しい。


 ――武士らしく……も食い扶持あってこそだ。


「明後日までに五張りか――きついな」


 無精髭に覆われた頬をぼりぼり掻きながら、喜十郎は傘張りの材料に埋め尽くされた座敷に踏み込んだ。ただ一箇所、いつも彼が座って作業する場所だけがぽっかりと空いている。そこに座ると、早速喜十郎はそばにあった竹を一本手に取って、目の高さに掲げた。


 御徒組おかかちぐみ三十石、板野喜十郎は、すっかり職人の目となっていた――。

 

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