3 殺戮回廊

【当日──AM11:00 みまな臨海水族館、上空1000メートル】

 巨大な銀の卵──それがその建物の第一印象だった。全面ガラス張りのドームと銀色のフレームが、陽の光、そして海からの反射光を照り返して煌めくその外観は確かに美しい。ただしその内側に罠が、それも必殺を期した凶悪な罠が間違いなく仕掛けられていると思えば、感心ばかりもしていられない。高塔百合子の命がかかっているともなれば、なおさらだ。

『車が着いた。百合子さんもたった今降りた』

 カメラの映像を望遠に切り替える。画像強調……水色のパンツスーツを着た百合子が水族館の正面玄関に降り立つのを確認。贔屓目でなく、他の客に比べても目立っている──と龍一は思い、思ったところで自分でも緊迫感が足りないんじゃないかと考え直す。

『水族館の人たちも忙しいだろうに、あんなに大挙して出迎えることはないよな。つくづく日本的な光景だぜ……悪い意味で』

『面白くもねえ眺めだ。大名行列なんて、御当主の柄じゃねえだろうに』

 いつになく崇の機嫌が悪い。理由はどうあれ、百合子がこんな馬鹿げたセレモニーに連れ出されるのが気に入らないのだろう。それもよりによってあの三郎伯父にしてやられたともなれば、怒りと苛立ちも倍増しようというものだ。気持ちはわからなくもなかった。

『テシクさん、そっちは?』

『目標を視認。問題なしだ、今のところは』

 テシクは水族館から数百メートルほど離れたレストラン屋上(美観の維持のため、それ以上高い建築物が周囲にないのだ)で、PGM338狙撃用ライフルを伏せ撃ちの姿勢で待機している。海や空からがあったとしても、その位置からなら一望で監視できるだろう。

『悪いなテシク、寒くないか?』

『頭が冷えてちょうどいい。欲を言えば観測手の相棒が欲しいところだが、まあ何とかするさ』少し笑う気配。『お前らもよくやるよ。深夜のスキューバダイビングの次は、空中遊覧か』

『悪くないだろ? ここからならさ』

『言ってろ』笑うしかない様子のテシク。『龍一、夏姫は?』

『中に入った。本人は心配なさそうだ。何しろ、全身の毛穴からアドレナリンが噴き出ているからな』

『あら、あなただって全身から男性ホルモンがいるじゃない?』

 明らかに笑いを噛み殺している夏姫とテシクよりも、遠慮ない馬鹿笑いを始めた崇の方がまず頭に来た。

 いつもの仕事より遥かに不利な防戦一方の展開、政治的に埋められた外堀、必殺の罠が張り巡らされたフィールド、重武装の襲撃チーム、そして暗殺者。だがそれで怖気づいている者は、この場にはいない。

 龍一も、この期に及んで夏姫を危険から遠ざけようとはもう思わなかった。どのみちプロの暗殺者どころか、こちらを本気で殺そうとする者に狙われていて安全もへったくれもないのだ。──たとえ遠ざけたところで、夏姫は百合子が危険に晒されれば一瞬の躊躇いもなく危地に飛び込むだろう、という確信もあったが。

 龍一の視界の中では護衛のSPたちが周囲へ油断なく目を配る中、送迎車から降りた百合子を含む視察陣が水族館へ入ろうとしていた。確かにSPたちはプロではあるが、果たして重火器相手にどこまで対抗できるか。正直、心もとない。

『日野輪警備保障か。あの三郎伯父上が手配した、ってのが気に入らないが……それなりに要人警護の実績はある警備会社だ』

『とは言え、何かを仕込もうと思えば幾らでも仕込めるわけだ……』

 護衛に当たる日野輪警備保障の面々をどこまで信用していいのか、いまいち信頼が持てないでいるのはどうやら龍一だけではなさそうだった。最大のセキュリティホールが「人間」であることを、崇もテシクもこれまでの人生で思い知っているのだろう。

『だから夏姫には、いざとなったらどんな手を使ってでも御当主の身の安全を確保してもらう。そのための装備も渡した──忘れるなよ、俺たちがやるべきことは暗殺の阻止であって、敵の殲滅じゃないんだからな。お前ら、火力至上主義も結構だが、敵もろとも御当主を吹っ飛ばして「すいません」で済ます気か?』

 龍一としてはぐうの音も出ない。崇も痛いところを突かれたのか「けっ」と吐き捨てたきり反論しない。

 初めに生じた異変は、音だった。乗用車のエンジン音にしては大きい。視察陣や護衛のSPたちも、何事かとそちらを見やっている。

『……何か近づいてくる。臨海公園の方からだ。送迎用の……アヒルカーだ』

『あん?』

 真っ黄色に塗られたアヒルを模した、園内観覧用の水陸両用車が二輌。それ自体におかしなところはない──子供を乗せるには大きすぎるエンジンの轟音と、そして客席に誰も座っていない点を除けば。

『自爆車両か?』

『違う、あれは……!』

 ディーゼルエンジンの轟音が一際大きくなった。SPたちの「止まれ!」の怒声に耳を貸す様子もなく、駐車場へ突入したアヒルカーが送迎車の横腹に激突する。対戦車地雷にも耐えうる大型ボディがたやすく横転し、生垣と、そしていくつかの悲鳴を押し潰した。アヒルカーの外装が砕け、獣が身震いするようにディーゼルの振動が張りぼての外装をふるい落とした。

 鈍色の装甲が陽光を跳ね返す。平和な臨海公園にはふさわしくない凶悪なシルエット──即座に戦術コンピュータが龍一の網膜に識別情報を投影する。ロシア製BMP-3。100ミリ低圧砲と30ミリ機関砲、7.62ミリ同軸機銃を装備した、世界各国の歩兵戦闘車と比べても圧倒的な火力を誇る戦闘車輌だ。

『よりによって装甲目標かよ……!』

『ほれ見ろ! ありったけの火力がもう必要になったじゃないか!』

『勝ち誇っている場合か!?』

 砲塔が旋回し、低圧砲が火を噴いた。鈍い音とともに別の送迎車が粉々に吹き飛ぶ。歩兵戦闘車の後部ドアが蹴飛ばされたように開き、防弾ヘルメットにボディアーマー、アサルトライフルと機関銃を手にした兵士たちをどっと吐き出した。悲鳴を上げる視察陣と彼ら彼女らを引きずるように避難させるSPたちを館内に追いやるように、兵士たちが次々と突入していく。

 いや、実際に追いやっているのだろう。正面玄関といくつかの非常口さえ押さえてしまえば、館内に逃げ場はない。

『行くぞ龍一、野蛮人の時間だ!』

 どうにでもなれ、と龍一は地獄へ飛び降りる覚悟を決めた。

 爆砕ボルトが龍一と崇の〈鎧〉を切り離した。水族館の数百メートル上空──観測気球プラットフォームに偽装された〈月の裏側〉の偽装移動基地、そこから投下された中国製の重戦闘用メックスーツ〈蚩尤〉二体が、空気を切り裂き石のように落下する。

 スーツのレシーバーから耳障りな警告音。地上からのレーザー照準、早くもBMP-3がこちらに気づいて砲口を持ち上げようとしている。このままでは対空砲火の餌食だ。

『外すなよ……!』

『誰に向かって言ってやがんだ? こんなもんただの……』

 崇の〈蚩尤〉が機体の半分ほどもある長大な砲身を眼下に向ける。赤青のコード類が絡みつき、付随装置が所狭しと取り付けられたそれは、対戦車用の電磁加速砲レールガンを搭載車輌から取り外し、強引に手持ち火器へと改造したものだ。もちろん、生身の人間が扱えるサイズではない。

『……据え物斬りだぜ!』

 レールガンが吠えた。戦闘車輌の構造上、最も脆弱な装甲上面部を一撃で貫かれたBMP-3が内側から膨れ上がり、紅蓮の焔を撒き散らして爆散する。

『ざまあ、鉄屑!』

 崇が大笑する。レールガンの反動が機体を荒海に浮かぶ木の葉のように揺らしたが、ブースターを噴射して強引に耐えた。

 見事というしかない一撃だったが、油断はできなかった。『まだ来るぞ!』

 生き残っているもう一輌のBMP-3が、仲間の仇とばかりに機関砲と同軸機銃による対空砲火を開始した。咄嗟に煙幕弾を射出、電子妨害用の撹乱片チャフもありったけ撒いて逃れる。

 見る見るうちに地上が迫ってきた。逆噴射しながら着地。びりびりと全身を襲う衝撃は凄まじいものだったが、反動吸収機構と気力でどうにか耐え切る。

 スモークが海からの風で吹き散り、歩兵戦闘車の禍々しいシルエットが露わになる。

『今度は俺の番か……!』

 龍一は背面のウェポンラックから〈盾〉を外して構えた。いや──それを〈盾〉と呼んでいいのか。〈蚩尤〉の上半身を覆い隠せるほどの大きさがあるが、前面にソーラーパネル状の放射板が取り付けられ、内側にはグリップとトリガーが伸びているという異様な形状だ。

 BMP-3の砲塔が龍一の方を向くのと、龍一が兵装操作スティックのトリガーに指をかけるのは、ほぼ同時だった。

!』

 崇の怒声に、弾かれたようにトリガーを引き絞る。

 派手な光も発射音もない。ただサーモグラフィーを見れば、BMP-3の内部で高熱が発生しているのが手に取るようにわかる。青からピンク、そして燃えるような真紅へと。

 だが30ミリ機関砲が火を噴き始めたのもその時だった。綺麗に舗装された路面を大口径弾が次々と鋤き返し、粉微塵にしていく。スモークを炊きながら回避行動を取るが、同軸機銃まで加えた猛烈な砲火は街路樹を粉砕しながら着実に龍一の〈蚩尤〉へと迫っていく。

『照準を合わせ続けろ! でないと、お前の方が先に死ぬぞ!』

 やってるよ、と怒鳴り返す余裕もない。コクピット内で歯を食いしばりながらスティックを操作し、〈蚩尤〉を全力で走らせる。もう駄目だ、銃撃に追いつかれる──

 次の瞬間、BMP-3が内側から弾けた。

 照射されたマイクロ波が車内の弾薬を誘爆させたのだ。砲塔が根元から吹き飛び、大音響を上げて車体そのものが炎に包まれた。機銃弾が誘爆しているのか、ポップコーンが弾けるような小爆発が連続して起こる。青々とした芝生の上に、金属と、そして焼けた血と人体の破片が雨のように降り注いだ。

『……よくやった』

 気づくと、レールガンを切り離した崇の〈蚩尤〉が近くまで歩み寄ってきていた。戦術ディスプレイを見ると、マイクロ波照射システムに警告表示が出ていた。バッテリー残量がゼロになっている。

『一発撃っただけでバッテリーがアガるなんて、燃費悪すぎるな。安物の電動シェーバーよりひでえや……』

『まだ使えるなら問題ない。行くぞ』

 バッテリー交換はその場で済ませる。館内に突入しようとする兵士たちから銃撃が始まるが、大盾と〈蚩尤〉の装甲でたやすく弾き返す。ロケット砲を肩に担ごうとした兵士が、頭部から血と頭蓋の一部を撒き散らして棒のように倒れる。テシクの狙撃だ。

『来い。フン族どもを追う。テシク、援護頼むぞ!』

『蛮族は俺たちの方じゃなかったのかよ……』

 二体の〈蚩尤〉は粉々に砕けた正面玄関をさらに粉砕し、館内へ突入する。


【AM11:10 みまな臨海公園内シーフード・レストラン『シプーロス』屋上】

(しかし、崇たちがあのデカブツを始末してくれなければもっと厄介なことになっていたな……あいつの火力至上主義もたまには役に立つってことか)

 PGM338のボルトを引き、初弾を装填しながらテシクは内心でそう思った。認めるのは癪だったが。

 まあ、やることに大差はない。目の前の問題に対処するだけだ。

 息を軽く吸い、一瞬止め、トリガーを引き絞る。数百メートルを一瞬で駆けた338ラプア・マグナム弾が兵士のヘルメットを貫く。まずは一人。が、

(位置が悪い……)

 火と煙を上げて燃える戦闘車輌が、奇しくも格好の遮蔽物になっている。ここからでは突入を阻止できない。第一、数が多すぎる。

 照準を巡らせ、次の標的を探すテシクの目に、

(何だ?)

 兵士の一人が筒状のものを構え、空中へ発射する。迫撃砲か? いや、

(まずい!)

 反射的に踵を返した。ライフルを捨てて走り、あらかじめ用意していたロープで路上へ滑り降りる。一瞬後、今までいたレストランの屋上付近が大音響とともに吹き飛んだ。対狙撃兵用の自爆ドローンだ。レストランにはとんだとばっちりだが、気にかける暇はない。

『龍一、崇、俺も館内へ入る!』悲鳴を上げ、あるいは立ちすくむ通行人の間を走り抜け、覆面がわりのガスマスクを被りながらテシクは咽頭マイクへ音声を放つ。『フン族の兵隊もろとも俺を撃つなよ!』


【AM11:20 みまな臨海水族館2F スタッフルーム】

 百合子が生き残りの飼育員たちと逃げ込んだスタッフルームは、さながら野戦病院と化していた。ありあわせの救急道具で止血処置が行われているが、何しろ軍用銃による傷である。外部からの助けがなければどうにもならなかった。

 SPは一人もいない。百合子たちを逃がすために、文字通り身を盾にしたのだ。

「私もやるわ。少しは心得があるの」おろおろしている若い女性飼育員を見かね、百合子は腕の貫通傷で呻いている男性に包帯を巻いてやった。

「すみません、ありがとうございます……どうして、どうしてこんなことに……」女性飼育員は涙をこぼさないのがやっとという有様だった。無理もない。世間で何を言われていようと、彼ら彼女にとっては降って湧いたとしか思えない災難には違いなかった。

 三郎伯父様には後で山ほど聞くことがありそうね──百合子が胸中で冷ややかな決意を固めた時、館内放送用のスピーカーが一瞬の雑音の後、音声を流し始めた。


【同時刻 同1F 正面ロビー】

 ロビーに突入した龍一と崇の〈蚩尤〉を待ち構えていたのは、小銃と機銃からなる火力集中区域キルゾーンだった。受付カウンターの陰から、上階へ続く踊り場から、何百発何千発もの銃弾が横殴りの豪雨と化して叩きつけられる。

『まあそうなるよな! 陽動とはいえ、俺たち目立ちすぎたからな!』

『あんたに自覚あった方が驚きだよ……!』

 まさに弾雨と呼ぶにふさわしい、装甲を乱打する轟音はもはやモーター音に近かった。充分な防弾効果があるとはいえ気持ちのいいものではない。

『火器を非致死性ノンリーサルに切り替えろ! 建物を崩しちまう!』

『その通りなんだが俺たちの言える義理じゃないよな……危ない!』

 思考より先に手が動き、スティックを操作する。

 間一髪。兵士が撃ち放したロケット弾を、龍一は大盾で弾き返した。逸らされたロケット弾が大きく進路を外れ、今度こそ受付カウンターを粉々に吹き飛ばす。

!』

 大盾の前面に装着された暴徒鎮圧用の大音響発生装置が叫び出し、それとセットになったマイクロ波照射システムが音も光もなく作動した。戦闘訓練を受けた兵士だろうと、全身がびりびりと震えるほどの大音響で女の金切り声を浴びせられれば浮き足立つ。加えて照射されるマイクロ波は、銃器の金属部分を加熱させ煙が出るほどの高熱を発生させた。たちまち悲鳴がそこら中から上がり始めた。転がり回る兵士たち目がけて、崇の〈蚩尤〉の腕に装着されたリボルバー式グレネードランチャーが放たれた。熊でも一撃で昏倒させる電撃弾を次々と喰らい、完全防弾装備の兵士たちが昏倒する。

『ほれ見ろ。非致死性もたまには役に立つだろ?』

『だから勝ち誇るなって……』


【同時刻 同3F 警備室】

『聞こえているだろう、高塔百合子。5分以内にアクアシアターまで来い。我々の目的はお前の命だ。他の奴らは見逃してやる……だが5分を過ぎたら、1分ごとに一人殺す。交渉には一切応じない。言いたいことがあるなら、直接来て言うことだ』

 マイクに向かってそう告げるなり、リーダーは腰の拳銃を引き抜いて案内役に無理やり連れてこられた警備員の頭部を無造作に撃ち抜いた。銃声に続いて、どこかで悲鳴が聞こえた。

 顔半分を吹き飛ばされた警備員が棒のように倒れるのを一瞥もせず、ホルスターへ拳銃を収めた彼に部下が報告する。

「館内に侵入されました。応戦はしていますが、手持ち火器程度では阻止できそうにありません」

 荒事屋どもめ、とリーダーは苦く吐き捨てた。「〈蝦蛄スクィラ〉を出せ。BMPを二輌とも失った今、こちらの火力で対抗できるのはあれだけだ」


【AM11:40 同1F 正面ロビー】

『……何だ?』〈蚩尤〉のコクピットシェル内で龍一は眉をひそめた。今まで激しく抵抗していた兵士たちが、負傷者を置き去りにして一斉に撤退していく。

『観念した……わけじゃなさそうだな』訝る崇の網膜に、警告音とともに戦術情報が投影された。『何か来る。……天井だと?』

 次の瞬間、天井のパネルが数枚まとめて外れ、爆発したように弾け飛んだ。大きさは小型自動車ほど、黒々とした影が凄まじい勢いで飛び出して天井を這い回る。続いてもう一つ。

 反射的に右腕の機銃を構え、発砲する。だが影は両方ともまるで平地を走るような素早さで天井を這い回り、機銃弾をたやすく回避した。天井に飾ってあったマンボウの風船が次々破裂する。

 龍一の網膜にも戦術情報が投影される──閉所掃討戦用陸戦ドローン〈蝦蛄スクィラ〉。

 節足に擬したアームが突き出され、内装された機銃が遥かな高みから放たれる。無数の12.7ミリ弾が床に無数の弾痕を穿ち、這って逃げようとしていた兵士たちを次々と貫いた。

 崇も左腕のグレネードを通常弾に切り替え、反撃を試みた。だが天井に張りついたままの〈蝦蛄〉にまで届かず、その手前で落下して爆発する。

『くそ、位置が悪い……当たらねえ!』

『望月さん、前に出すぎだ!』

 土産物のガラスケースを踏み砕きながら崇の〈蚩尤〉がなおも照準を合わせようとした時。

〈蝦蛄〉が天井に張りついたまま大きく身を湾曲させ──凄まじい勢いで全身を伸ばした。

 トラック同士が衝突したような打撃音。

 頭部のほぼ半数をえぐり取られた〈蚩尤〉がぐらりと崩れ、尻餅を突く。

『何だ、こいつ……だって!?』

 極度にユニット化された上に伸縮自在のカーボンナノチューブで構成された機体、そして電磁加速を応用した格闘戦用アーム。崖やトンネルなどで敵軍を待ち伏せし、戦闘車輛やメックスーツを上方から、世界初の格闘戦対応ドローン。

 動けなくなった崇の〈蚩尤〉に、もう一機の〈蝦蛄〉が容赦ない銃撃を見舞う。がきん、がきん、と鈍い音が響き、対装甲用の大型徹甲弾が〈蚩尤〉の脚部を完全に破壊した。

『うわ!?』

 気を取られているうちに、龍一の機体にまで打撃が飛んだ。かろうじて回避。巨人の掌で叩き潰されたように、地球儀のオブジェが跡形もなく粉砕される。

 右腕の機銃で応戦、しかし回避される。銃撃で牽制しながら、〈蚩尤〉の股間のウィンチで崇の機体を物陰まで引きずることには成功した。

『望月さん、大丈夫か?』

『ああ、しかしこの機体はもう駄目だ……龍一、あのエビどもの相手、任せていいか?』

『警備室の奪還、だな?』

『何でもかんでもテシク任せにするのは酷だしな。俺の機体の武器、全部使っていいぞ』

 単に身の安全だけで言っているわけではないのはわかっていた。『わかった。ドローン相手だからって、殴り合いで負けるかよ。……行け!』

 銃撃しながら、発煙弾を射出。二機の〈蝦蛄〉を牽制している間に、〈蚩尤〉のハッチが展開して崇が脱出した。素早く階段へ身を躍らせる。

(……とは言ったものの、どうしたもんかね……)

 逡巡したところでどうなるものでもなかった。第一、相手が逃がしてくれそうにない。


【同時刻 同3F バックヤード】

 天窓からワイヤーを用いて侵入したテシクが降り立ったのは、キャットウォークのような狭い通路だった。館内見取り図によれば、ここはポンプや酸素供給装置など、水族館に必要不可欠な機械類が集中する区域らしい。手すり越しではあるが、水槽の中の魚類を上階から見下ろすこともできる。劇場で言えば舞台裏のような場所だろうか。照明は控えめだが、天窓からの光があるため視界に不足はない。

 血の臭いを嗅いだ。それもおびただしい血の臭いを。

(これは……)

 近接戦仕様のM4カービンライフルを構えて索敵したテシクの目に飛び込んできたのは、死体の山だった。銃を手にしたまま事切れている兵士が2人、そして銃弾を浴びせられた飼育員たちが多数。見たかぎり、生きている者は見当たらない。

(惨いもんだ)テシクの顔がわずかに歪んだ。丸腰の素人が、武装した兵士にとってどれだけ脅威というのだろう。

 しかし、おかしい。飼育員たちはこの兵士たちに殺されたとして、ではその兵士を殺したのは誰だ?

 兵士の死体を調べてみる。一人はヘルメットごと鈍器か何かで頭蓋を叩き割られ、もう一人は鋭い何かでボディアーマーを貫かれていた。銃の傷ではない。しかも完全武装の兵士を、たった一撃で?

 床は血の海で、その中におびただしい数の薬莢が転がり落ちている。銃弾を撃ち尽くしているのだ。やはり何かがおかしい。テシクは全身に久しく感じることのなかった寒気を感じる。外気温とは無関係の寒気を。

 一瞬後、テシクの頭部があった空間に鉄塊が振り下ろされた。

 回避できたのは運としか言いようがない。必死に床を転がり逃げるテシクの眼前で、兵士の死体の頭部が果実のように叩き潰された。

 薄暗がりの中、何かが音もなく飛びかかってくる。反射的にM4の銃身で受け止める。凄まじい衝撃が両掌にびりびりと伝わってくる。かろうじて打撃は避けたが、銃身は無惨にも曲がってしまった。これでもう棍棒としてしか使えない。

 狙いも定めず前蹴りを繰り出す。だが渾身の蹴りを、そいつは後方へふわりと退いてかわした。体重を全く感じさせない、風に吹かれたような奇妙な動きだ。

「避けたか」

「やはり、お前か……」

 血にまみれたハンマーが、血を振り飛ばしながら肩にかつがれる。先ほどまで血の海に伏せていた飼育員の死体──正確には元死体が立ち上がっていた。

 髪を黒く染め直し、化粧も大人しめのものにしていたが、間違いなくラスヴェート綜合警備保障未真名支社ビルの前で待ち構えていた、あの女だった。「抜かりはなかったつもりだったが……どうしてわかった?」

「簡単だ。

「なるほど」女は優しげでさえある微笑みを浮かべた。と言っても、返り血を浴びた凄惨な顔でだ。「プロとしてのお前を警戒しすぎたか。それもまた、今後の教訓としておこう」

「一つだけ聞く」テシクは銃を、正確には銃の残骸を構えた。「お前は〈ヒュプノス〉なのか? それとも奴の仲間なのか?」

「そうとも言えるし、違うとも言える」

 謎めいた言葉にテシクは眉をひそめる。「どういう意味だ?」

「私に言えるのは、それだけだ。それ以上を話しても、お前は信じない」

 言葉の残響が消えるか否かの刹那に、女は跳躍した。

 テシクは容赦なく銃床を振るった。だがそれは呆気なく空を切る。女はかわしただけでなくテシクの頭部を軽々と飛び越え、その背後をたやすく取った。

「……!」

 必死で身をよじった──はずが、背中をざっくりと切り裂かれた。

「ぐあ……!」

「この近接戦用ハンマーは便利だな」女は鈍器を一振りし、先端のスパイク部分に付着した鮮血を振り飛ばす。「殴ってよし、えぐってよしとは」


【AM11:45 同1F 正面ロビー】

(くそっ、一発ぐらい当たらないのかよ……!)

 今や龍一の〈蚩尤〉は右手に重機関銃、左手に崇の機体から取り外した対物ライフルを構えてひたすら天井へ乱射している。だがそれにも関わらず、天井を自在に這い回る〈蝦蛄〉には至近弾すら命中していない。

 弾道回避プログラムか──何か決定打はないものか、焦る龍一の耳にけたたましい警告音。レーザーの照射を感知──ミサイル警報だ。

(まずい……!)

〈蝦蛄〉の背面が展開、複雑な内部機構とともに対戦車ミサイルが露出する。瞬時にロケットモーターへ点火、射出。

『うおおおお!』

 煙幕とチャフを連射し、最大戦速で逃がれる。背後で大爆発。直撃こそ避けたが、直前まで身を隠していた大柱が真っ二つにへし折れた。飛び散る瓦礫がごんごんと〈蚩尤〉の装甲を殴りつける。

 安堵する間もなく、また警報。

『……!』

 今度は打撃が来た。嵐の海の木の葉のように、コクピットシェル自体ががくがくと揺さぶられる。右肩の装甲がひしゃげ、装甲板そのものが剥落して内部機構が露出してしまった。自動安定装置で体勢を立て直し、銃撃。だが〈蝦蛄〉はたちまち身を縮め、銃弾を残らず避けてしまう。しかも、心なしか先ほどより敵の銃撃が正確になってきたような気がする。

 いや、気のせいではない。おそらくこちらの回避パターンが解析されつつあるのだ。煙幕やチャフも底を尽いている。次に誘導兵器を撃たれたら、避けようがない。

 何か、もっと有効な武器はないのか──兵装選択メニューに目を走らせるが、どれも〈蝦蛄〉への有効打にはなれそうにない。それにどれほど強力な火器だろうと、当たらなければ意味はない……相手は無人の戦闘用ドローンだ、一発や二発銃弾が当たったところで大したダメージはないだろう。あの大盾のマイクロ波なら内部機構に確実な効果があるだろうが、それはとっくに捨てていた。大人しくマイクロ波の照射をのんびり待っているような相手なら苦労はしない。

 火炎放射器、ナックルダスター、ロケット弾ポッド、吸着爆雷……駄目だ、どれも奴の動きに追随できない。ふと目に留まる。──機体標準装備のワイヤーアンカー?

 難しく考えすぎたな、龍一は苦笑する。相手がマシンでも操作するのが人間なら、勝ち目はある。


〈蚩尤〉の右腕の機銃を固定していたアダプターのロックを解除。左腕の対物ライフルも同様にして取り外す。

〈蝦蛄〉の操作員オペレーターはさぞかし面食らっているに違いない。今まで必死で物陰に隠れて発砲しながら逃げ回っていた目標が、急に逃げ回るのをやめて銃を放り投げたのだから。

 なら、もっと度肝を抜いてやる──射撃モードから格闘モードに移行。プリセットに従い、龍一の〈蚩尤〉が姿勢を変える。左拳を前に、右拳をわずかに引いたファイティングポーズ。

 これで挑発されていることはわかるはずだ。馬鹿でもわかるはずだ。さあ、どうする?

 一機の〈蝦蛄〉が龍一の頭上まで移動する。背をたわめ、運動エネルギーを蓄積している──間違いなく、殴りかかってくる。

 ただし……龍一は視線を転じる。もう一機の〈蝦蛄〉が、龍一の背面を取る形で天井を移動する。対物ライフルか、対戦車ミサイルか。敵はこちらが煙幕もチャフも使い果たしたことを知っている。とどめを刺すならミサイルだろう。

 思った通りだ──ドローン制御は軍の中でもかなり特殊な技能だ。こんな安い挑発に乗るような単細胞には勤まらないだろうし、第一、そんな単細胞へ玩具として与えるには高価すぎるだろう。

 もっとも、それも含めて計算通りだ。

 一瞬だが……銃声も悲鳴も途絶えたような沈黙が、ホール全体を包んだ。

 背をたわめた〈蝦蛄〉が、爆発したように全運動エネルギーを解放して飛びかかってくる。龍一もそれに応じて拳を繰り出……さない。

 代わりに右拳に握り込んだワイヤーアンカーを投じる。鉄塊を打ちつけても切れも曲がりもしない強靭なワイヤーが、新体操のリボンのように〈蝦蛄〉のアームに絡みつく。

(勝負!)

 ワイヤーを力一杯引き、同時に股間のウィンチを全力で巻き取る。アームの狙いがわずかに逸れ、〈蚩尤〉の頭部センサーの一部をもぎ取ったが、龍一の操作は止まらない。遠心力を借りて〈蝦蛄〉の機体そのものを振り子のように振り回す。

 もう一機の〈蝦蛄〉があわてたように照準を合わせ……られない。敵味方識別機能が災いし、ミサイルを放てないのだ。

 振り回したワイヤーを、放した。

 ほとんど石のようにまっすぐ飛んだ〈蝦蛄〉が同族を巻き込み、天井から二体まとめて落下して休憩用スペースを真っ平に押し潰した。

 絡みついたワイヤーのせいで一つの塊としてもがいている〈蝦蛄〉に、龍一は大盾の表面を向けた。動きの邪魔になるから今まで放置していた、プラズマ照射システム装備の大盾だ。何発か機銃弾を受けてへこんでいたが、機構そのものは無事作動する。

『じゃあな。さすがに本日のロボットバトルは腹一杯だよ』

 バッテリーの残量がゼロになるまでトリガーを引き続けた。


【同時刻 同3F 警備室】

 ドローンを操作していたオペレーターが、罵声を上げてHMDを顔面からむしり取った。「リーダー……申し訳ありません。迎撃に失敗しました」

 リーダーは鷹揚に首を振った。「時間は稼げた。上出来だ。それより、主賓を迎える準備をしろ」


【AM11:50 同1F 正面ロビー】

〈蚩尤〉から降り、コクピットシェル内の物入れから使い慣れた一対のトンファーを取り出す。

 さすがに完全武装の兵士相手にトンファーで立ち向かいたくはない。さらにもう一つ、「専用装備」を取り出し、身につける。首元のスイッチを入れると、あらかじめ記憶しておいた形状に従い、龍一の全身にフィットした。黒いラバースーツの背面に薄型の動力源、さらに掌や肘膝など全身の各所から電極を露出させたそれこそ、テシクの苦心作でもある通称スタンスーツだった。装着者の全身の筋肉に微弱な電流を流すことでパワーアシスト効果をもたらし、さらに接触した敵対者への放電攻撃を行うテシクの苦心作だ。テストの効果も上々であり、拳銃などよりはよほど龍一のコンバットスタイルに馴染む。飛び道具相手が命懸けであることに変わりはしないが……。

「さてと……夏姫、そっちの方はどうだ?」

『問題ないと言いたいところだけど、ちょっと……ううん、かなりまずいかも知れない』

「どうした?」遊びのない夏姫の声に緊張が高まる。直感した──彼女がこんな声になるのは、百合子に関して以外にない。


【同時刻 同3F 警備室前廊下】

(まずったな……)館内放送を聞きながら走っていた崇は歯噛みする。百合子の性格からして、ああ言われたら出てくるしかない。

(警備室を奪還できれば、ワンチャンあるか)

 館内の空調や照明を制御しているのもあそこだ。奪い取れば確実なアドバンテージとなる。問題は、襲撃チームの方もそう思っていることなのだが……。

 今の崇は〈蚩尤〉搭乗のため装着していた簡易戦闘スーツ姿。ある程度の防弾・防刃・耐衝撃効果はあるが、それだけだ。武装も9ミリ口径の護身用拳銃が一丁のみ。完全武装の兵士相手にはいささか心もとない。

 しかし、それでもやるしかない。(なあに、相手は切れば血の出る人間様よ。不意さえ突ければ、やりようはある……)

 警備室の前まで来た崇は眉をひそめた。逃げようとして背後から撃たれたのか、龍一とさほど変わらない年格好の警備員が頭部を粉砕されてうつ伏せに横たわっている。

(ヒヨコの群れに野良犬をけしかけるようなもんだな……)

 さすがの崇も手を合わせそうになった。幾ら貰っているかは知らないが、水族館に突入してきた重武装のテロリストに命を賭けて立ち向かえるほど高額ではないだろう。

 不意に、室内から銃声が響いた。それも一発や二発ではない。紛れもなくアサルトライフルの連続発砲音だ。それよりはくぐもった、ショットガンらしき銃声も数発。

 龍一やテシクではない。では誰だ?

 ドアは微かに開いている。拳銃を構え、一息に蹴破った。

 最初に崇の視界へ飛び込んできたのは、胴を両断されて滑り落ちる兵士の上半身だった。一瞬遅れて鮮血と、はみ出した臓物が床にこぼれ落ちる。

「……お待ちしておりました」

 状況にそぐわない静かな声が、絶句する崇の名を呼んだ。

 中肉中背。くすんだ色のスーツ、洒落ているとは言いがたいデザインの眼鏡。どこにでもいそうな平凡な容姿のサラリーマンの手には、しかし剣呑な輝きを放つ長大な軍刀サーベルが握られている。剣の先端で血の球が膨れ上がり、ぽつりと落ちてカーペットを汚した。

 さほど広くない警備室は、端的に言って血と臓物の海だった。付け根から寸断された腕がダストボックスに引っかかり、戦闘用ブーツを履いたまま膝から切断された足がデスクの上の書類を押し潰し、しぶいた血の跡は天井の照明にまで飛び散っている。

「てめえ……」

「疑問はいくつもありましょうが、私からあなたに伝える言葉は一つです」サラリーマンの眼差しが、今度こそ正面から崇を見据える。「苦痛なき、眠るがごとき死を」


【AM11:55 同1F マリンシアター前廊下】

「夏姫、もう待てないぞ……百合子さんがマリンシアターに入っちまう!」

『駄目よ、龍一! 望月さんからはまだ連絡がない。警備室を奪還できてないのよ!』

 歯を噛み締める。敵にとっても最重要拠点であろう、警備室の奪還がどれほど危険な役目なのかは崇も充分承知で向かったはずだ。今だ奪還できてないからと言って責められはしない。だが百合子の命を考えれば、これ以上は待てない……。

 ふと、思いついて龍一は顔を上げた。「夏姫。『妖精さん』のストックはあるな? マリンシアターには入れられるか?」

『あるわ。セキュリティにはそううるさくないから、侵入自体は容易よ』

「よし……ここからでもマリンシアターの照明と、スピーカーは操作できるか?」

『できるけど、何か考えがあるの? 相手もプロよ。小手先の技が通用する相手じゃない』

「どうかな? 案外、プロほど引っかかるかも知れない」


【AM12:00 同1F マリンシアター】

 その空間に広がるのは深海の光景だった。比喩ではない──青黒い水のカーテンを透かし、海面から差し込むわずかな陽光が揺らめく水底からの景色。極彩色の名も知れぬ小魚が優雅に尾鰭を揺らめかせ、岩陰では鮮やかな色の蟹が足を蠢かせる。

 頭上を巨大な塊が通過した。青みがかった表皮と、ゴムタイヤに入れた切れ目のような口がぱっくり開く様と、滑らかな白い肌が百合子の目に焼きついた。

 尾鰭を振って泳ぐ巨大なジンベイザメが、深淵の神を思わせる巨躯を見せつけて、ゆっくりと泳ぎ去っていった。

 マリンシアター──みまな臨海水族館の目玉、360度を水に囲まれた半球型大水槽。

 深海の光景を背に、生き残りの招待客や飼育員たちが頭の後ろで手を組まされて膝まづき、さらにその背後で兵士たちがこちらへ銃口を向けている。リーダーを含めて、5人。これが襲撃チームの残存戦力の全てらしい。ただし、巡らせる銃口に油断は微塵もなく、丸腰の百合子には充分すぎる脅威だった。まして傷つき、怯えきった人質たちには言うまでもない。

「たった3人程度で、よくもまあ殺し尽くしてくれたものだ。女一人殺すのに歩兵戦闘車はやりすぎだと思っていたら、メックスーツが空から降ってくるとは」

 中央の男が低く呟く。それほど屈強な体格でもないのに、他の兵士と比べてもまるで劣らない凄みがある。この男がリーダーで間違いないだろう。「あいつらがまともに銃を撃てるようになるまで、俺がどれだけ苦労したか説明しても無駄だろうな」

「まるで自分たちの方が攻撃を受けたような口ぶりですね」百合子は口を開く。「あなたたちが暴力に訴えさえしなければ、それで済む話です」

 かも知れん、とリーダーは肩をすくめる。「だが暴力に頼っているのはお互い様だろう、〈月の裏側〉」

 癒えたはずの背の傷が疼いている。祖父に撃たれた傷が。

 奥歯を噛み締める。──この傷も、ここで殺されかけていることも、全て自分の選択の積み重ねとその結果だ。

「必要悪と言い訳しつつ、社会に暴力の毒を垂れ流すという意味なら、確かに私たちは似た者同士ですね」

「聞いたふうなことを」リーダーは吐き捨てたが、怒りではなくむしろ倦んだような口調だった。「スポンサーはシンプルで明快な結果を求めている。俺は号令を下し、お前の子分どもを殺し、〈ヒュプノス〉とかいう得体の知れない殺し屋も殺し、お前も殺す。今日起こった不愉快なあれこれは、それで終わりにするさ」

 そこでリーダーはわずかに訝しんだようだった。「しかし、思ったよりあっさり投降したな。人質がそんなに効いたか?」

 百合子は微笑んでみせた。「ええ、万事休すでしょうね。……あなたの部下なら」

「何?」百合子の言葉より先に自分の皮膚で何かを感じたのか、リーダーが聞き返した時。

 耳をつんざく大音量でスピーカーから音楽が流れ出した。子供連れの水族館では絶対にかからない類の曲──ローリング・ストーンズの『Paint it,Black』。

 何事かと周囲を見回す人質たちとは違い、リーダーと兵士たちは別の意味に気づいて愕然となった。「馬鹿な……警備室が奪還されたのか!?」

 次の瞬間、まるで黒い旋風のように。

 相良龍一が躍り込んだ。


【同時刻 同3F バックヤード】

 一撃、二撃、暗闇の中で金属音とともに火花が散る。

 縦横無尽、女の自在に駆るハンマーを既に曲がったM4の銃身で受け止めるのにテシクは必死だ。使い物にならなくなったM4を投げ捨て、ホルスターの拳銃を引き抜き撃つ。大して難しくないはずの動作を、しかし女の攻撃はそのための隙を与えてくれない。背の傷は致命傷でこそないが、血の流れる感触からしてそろそろ止血しないと危険な頃合いだ。しかも、まずいことに連続で衝撃を受け止めすぎて手が痺れてきた。

 どうにか流れを変えなくては──焦り始めたテシクの足は、転がる死体の腕を踏みつけてしまった。

(しまっ……!)

 バランスを崩した瞬間に、横凪に振るわれるハンマーの一撃が来る。避けられない。

 反射的に前へ出た。背後ではなく前へ。

 衝撃。痛みというより腹の中で小型の爆弾が破裂したのかと思った。

「が……!」

 かろうじて後方へ後退りして距離は取れたが、足が崩れる。防弾チョッキでは貫通を防げても、衝撃を殺し切れない。口から唾液と少量の吐瀉物が勝手にこぼれ落ちる。痛みのあまり気絶さえできない。

「自分から突っ込んで勢いを殺したのか……」女の目に明らかな驚嘆が宿る。「見事なものだ。ただの業師ではなかったか」

 逆手の握りから振るわれたハンマーが、今度こそM4をテシクの手から弾き飛ばす。キャットウォークの真下で転がる金属音。

 テシクも負けてはいなかった。吐瀉物も拭かず、全力で女に掴みかかる。相手はこちらより遥かに華奢だ、接近戦に持ち込みさえすれば、

「だからと言って同じ手が通じると思われても困る」

 二度目の衝撃が腹で炸裂した。

 ハンマーの柄がテシクの腹に力一杯突き込まれていた。耐え切れず、前のめりになったテシクの顎がさらに柄で跳ね上げられる。のけぞりながら、金臭い味が口の中で弾けたのを感じた。奥歯が折れたかも知れない。

 銃や徒手だけでなく、武器を使った近接戦闘にも長けている自信があった。それが、ここまで一方的に……。

 背後の機械に叩きつけられた身体がずるずると崩れ落ちる。KOを喰らったボクサーのように足が痙攣する。立ち上がれない。

「……私もまだまだだな。これだけの手数を繰り出し、なおも殺せないとは」ハンマーで掌を軽く叩きながら呟く女の口調に、微かに自嘲が混じる。「せめて最後はお前への敬意と慈悲を以て一撃で終わらせよう……苦痛なき、眠るがごとき死を」

 来るとわかっているのに、身体が動かない。女がハンマーを振り上げるのが、歪んだ視界に映った。

 刹那の間、何もかもが馬鹿げている、と思った。上官を殺し、上官の娘を殺し、死んだと思っていた上官の娘の、その姉まで殺した。いま命を賭して戦うのは、たまたま利害が一致しただけの異国の実力者のためだ。どこに俺の尊厳がある? どこに俺の自由がある? どこに俺の──幸福がある?

 死ねば全てから解放されるのに。答えの出ない問いに、のたうつほど苦しむこともなくなるのに。

 。ウェストポーチの中に一発だけ忍ばせた、赤の塗料でマーキングした特製の強装弾を。

 突きつけられる全てに、答えがあるわけではない。それでもなお答えを追い求めるつもりなら──今は死ねない。

 銃身がスライドし、装填された弾丸が薬室に送り込まれる鮮烈な音とともに、嘘のように意識が澄み切った。何千回何万回と練習した動きが身体を動かす。銃口を持ち上げ、撃った。

 薄暗がりが真昼の明るさに転じるほどの閃光が銃口から噴き出る。銃火器には慣れているはずのテシクでさえ、耳を覆いたくなる轟音が響いた。

 耳が痛くなるほどの沈黙。

 一瞬遅れて、ごっ、と鈍い音が響く。──折れたハンマーの頭が、床に落ちる音だ。

 信じられない、という顔の女と目が合う。テシクの強装弾はハンマーの柄をへし折り、その直線上にある女の胸を貫通していた。

「二度と撃ちたくないな……一発撃つだけで銃が半壊する特製弾なんて」

 拳銃のフレームは内圧に耐えかねて歪み、銃身自体がうっすらと煙を吐いている。暴発しなかったのが不思議なほどだ。

 何かを言おうと唇が震えたが、果たせなかった。口と胸からおびただしい血をこぼしながら女が崩れ落ちる。

「あいつらの火力至上主義を笑えない、か……」テシクもまた限界だった。ポーチから止血剤を取り出そうとして、その場にうずくまった。

(……見事な技量だ。あの劣勢から勝ちを拾うとは。同化できないのが惜しいくらいだ)

(躊躇う理由はないんじゃないのか? こいつを取り込めば、我々にさらなる進化をもたらすだろうに)

(悩ましいところだな。同化はむしろ簡単だろうが、この男の才能は我々の元では花開かないのではないのか)

(ふむ……こいつに殺された奴が自分で言うと説得力があるな)

(焦る必要がないだけだ。第一、私たちは言ってしまえば〈A〉の露払いに過ぎない)

(……〈A〉か。確かに〈師匠マイスター〉自らが調整しただけあって個人での戦闘能力は大したものだが、その分ときどきおかしな挙動を見せるな。あの『特別個体』への度の過ぎたこだわりといい、どうも気に入らない)

(嫉妬か?)

(からかうな。我々全体のためにならんと言っているだけだ、長い目で見ればな)

(長い目で見るつもりなら、奴のこだわりも大目に見てやれ。あの『特別個体』にはそれだけの価値がある……マルスの馬鹿げた陰謀に便乗するだけの価値が)

 ──倒れ伏したテシクを囲み、大勢の誰かが喋っている。テシクは薄目を開けた。

 ヘルメットごと頭を砕かれた兵士、銃弾に胸を穿たれた飼育員、そしてたった今テシクが殺した女。

 見ろ、やっぱり俺が行き着く先には地獄しかないじゃないか──笑おうとして、意識が途切れた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「不思議なんだ」

「何がだ?」

「彼のことだよ、〈師匠マイスター〉。彼は今まであったどんな強敵とも違う」

「あの『特別個体』か。違いはしない。死は美醜貴賤を問わず平等なものだ。あの者もまた『いずれ死すべき者』であることには変わりはしない」

「そういうことじゃないんだ。彼より力の強い者はこの世に幾らでもいるだろう。彼より素早く動ける者はこの世にいくらでもいるだろう。彼より賢い者はこの世に幾らでもいるだろう。なのに、どうしてだろう……確実に彼に勝てるという自信が、そのためのヴィジョンが、先日彼に会ってからまるで湧いてこない。こんな感覚は初めてだ……僕が〈ヒュプノス〉になってから」

「ならばどうする? やめるか?」

「いや。彼がどれほど強かろうと、僕のやるべきことに変わりはない。だってあなたはそのために僕を調整したんだろう、〈師匠〉?」

 青年は微笑みながら、静かに目を開ける。「時が来た、相良龍一。君に敬意と慈悲を以て、僕が与えられる唯一のものを差し出そう──苦痛なき、眠るがごとき死を」


(次回、ラストバトル)

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