2 抹殺装置

 声に導かれて龍一が足を踏み入れたのは、ブランコを除けば何の遊具も置いていない小さな児童公園──肝心の児童でさえ見向きもしないような小さな公園だった。

 一つだけ置かれた赤いベンチに、灰色の外套を着た青年が腰を下ろしていた。周囲に人影はない。懐にしまった小さなピンマイク状の機械は、龍一に音声を届けた指向性マイクだろうか。鍛え抜かれた体格とまではいかないが、貧弱には見えなかった。身長も、立ち上がれば龍一とそれほど変わらないようだ。

「忙しいところ悪いね。本来なら高塔百合子を通して会うべきなんだろうけど、まあそうも言ってられないからね」青年は気さくに話しかけてきた。腹に一物という顔ではない。どちらかというと、一物足りない顔だ。

 龍一は軽く息を吸ってから、言った。「まず飲み物、買ってきていいか」

「飲み物?」

「殺し屋が人を呼んでおいて、何かと聞いたら話がしたいだと? 何も飲まずに聞いてられるか」

「道理だ」青年は気を悪くした様子もなく、懐から小銭入れを出して硬貨をつまみ出した。「僕の分も頼むよ」

「ああ」何か間違っているような、と龍一は首を捻りながら手近の自販機から缶コーヒーを二本買ってきた。青年には嫌がらせで一番甘い奴を渡したが、彼は快く受け取った。

「俺も座っていいのか?」

「もちろん。公園は皆のものじゃないか」

 龍一はプルタブを引き上げながら、べたべたに甘いはずの缶コーヒーを旨そうに飲んでいる隣の青年を盗み見た。少し癖のある頭髪は暗めの茶色。鉤状の鼻は一度見たら忘れられないほど大きく、口も横に大きい。美男ではないが、人に好かれそうな顔だった。何となく、昔話に出てくる朴訥で善良な農民を連想した。肌の色からするとアジア系のようだが、実際はどうだかわからない。逆に言えばどこの国の人間にも見える。これが彼の素顔なのか、それとも変装なのかも判然とはしない。

 味すらよくわからないような心地でどうにか缶コーヒーを飲み終えた龍一に対し、青年はまだちびちびと飲んでいる。呆れてしまった──こいつ、俺がこの場で「排除」に移ったらどうするつもりなんだろう。

 まず初対面でいきなり高塔百合子の名を口にし、二言目に〈ヒュプノス〉と言う。明らかに堅気でもない──はずだが、一方で手の込んだ冗談に付き合わされている気がしなくもなかった。

「……で、話って何だよ」

 意外そうに青年は缶から口を離す。「疑わないんだね? 僕が〈ヒュプノス〉本人だって」

「その名を騙る奴のところには本人が飛んでいってお仕置きするんだろ? こんなところで缶コーヒー飲んでる暇があるのかは知らんが」

 もちろん嫌味だが、青年は愛嬌たっぷりに肩をすくめてみせる。「僕の把握している限り、〈ヒュプノス〉の名前を勝手に使ったケースは存在しないね」

「商標登録でもしているのか?」

 それは悪くないね、と青年は笑う。本当によく笑う奴だ。心底そう思っているのか、何とも思っていないのか、いずれにせよ龍一の思い描いていたイメージとはかけ離れている。「それとも僕や君が知らないだけで、騙りはしたけど表には出ていないだけなのかも知れないよ。嘘がバレて、人知れず墓にも埋めてもらえないような死に方をしているとか」

 青空の下、にこやかな笑顔で口にする話題ではない。

「そろそろ本題に入ってくれないかな。どう見えているかは知りたくもないが、忙しいんでね」

「まあそう焦らないでくれよ」青年は目を細めて笑い、今度こそ缶コーヒーを残らず飲み干した。「君の役割は僕の居場所を探すことだし、それはもう果たしているじゃないか」

 お前が言うなと言いたくなる。「あんたが〈ヒュプノス〉本人だという保証は?」

 青年は空の缶を片手で弄ぶ。「ないね。できたらよかったのにと思うよ。そうすれば、君もさぞかし喜ぶだろうからね」

「用件は」断ち切るつもりで龍一は言った。どうもこいつの他人を煙に巻く喋り方は癇に障る。なぜだろうと考えてすぐ思い当たった──俺の喋り方だ。

 青年は奇妙なほどの真顔を向けてきた。「君に会いたかったんだよ」

「〈ヒュプノス〉ってのはやっぱり暇なんだな。寄り道せずに真っ直ぐ標的のところへ向かえばいいものを。その時は俺も容赦しないが」

 青年がまるでなぜ空は明るくなったり暗くなったりするのか、と聞かれたような顔になる。「君は僕に会いたくなかったのかい?」

「殺し屋に好んで会いたがる人間がいるわけないだろう」

「そうか……僕は君に会うまで、君のことをあれこれ想像したんだけどな」

 まるで本当にそうしていたかのような口ぶりだ。いや、そもそも嘘なのだろうか。それを否定する材料はまるでないことに龍一は気づく。

「予想とはまるで違ったね。血に飢えた、狂った復讐者リベンジャーと聞いていたけど」

「……その『誰』については聞かないでおこうか。俺をそんな呼び方する奴にどうとも思われたくないしな」

「ありがとう」

「礼を言うんじゃない」どうも調子が狂う。「俺は相良龍一、18歳。それ以外の要素は、全部だ」

 それだけの人間が、何て遠いところへ来てしまったんだろう。ちらりとそう思った。

「やっぱり君は面白いね。僕が〈ヒュプノス〉だと聞いてもいきなり襲いかかってこないし、それどころかコーヒーまで買ってきてくれた」

「あのなあ。……そりゃあんたに頼まれたからだろ」

「頼まれたって、普通は聞かないよ」

 おかしいのは自分なのではないのか、と龍一は密かに疑い始めた。「俺はつまらない人間だよ。高塔百合子に雇われて金で動く、人を殴るしか能のないごろつきさ」

「そう卑下することもない。復讐鬼なんて、今までうんざりするほど見てきたよ。本当にうんざりするほどにね」心なしか、青年はわずかに目を細めた。「でも誰一人として、僕には勝てなかった」

 にこやかな笑顔の裏で、何かがような錯覚を覚えた。まるで人の皮を頭からかぶった人間大の昆虫が、その皮の下で触覚を蠢かせたような。

「それに君は、実に興味深い経歴を持っているじゃないか。祖父を刺した通り魔を、殴り殺したそうだね」

 表情を動かさないよう努力したが、成功しているとは思えなかった。何より青年の目を逃れた自信がなかった。「世界トップクラスの殺し屋様は、転がしてきた死体の数を競いたいのか?」

「怒ったなら謝るよ。ただ聞いてみたくてね。もしあの時殺していなかったら──どうだろう? 全く別の人生が待ってはいなかったのかと、そんなことを考えたことはあるかい?」

「どう答えたらあんたのお気に召すんだろうな」自分の声に冷ややかな怒気が混じるのを抑え切れなかった。生命維持装置を切ることを望んだのは、龍一の祖父を刺した男の家族だったのだが──それを話す気にはなれなかったし、何の言い訳にもならなかった。

「僕は物心ついた瞬間から〈ヒュプノス〉だった。僕にとって職業暗殺者は、不可避の生き様だった。だから僕は、君に興味を持った。少なくない興味をね」一転、静かな、深みさえある声で青年は語り始める。「僕は報酬と引き換えに何の恨みもない人間を殺す。神でも死刑執行人でもない僕が、殺す相手に対して最上の敬意を払う方法はただ一つ──その恐怖と苦痛を可能な限り最小限にすることだ。そう、自分が死んだことさえわからないほどに」

「そっちの方がよほど残酷な死に方じゃないのか?」

「笑ってくれて構わない。他の方法が思いつかないだけだからね。……なぜ僕が〈ヒュプノス〉と呼ばれるかわかるかい?」

 象のように穏やかな瞳が、静かに龍一を見上げる。龍一がたじろぐほどに真っ直ぐに。

「死とは人に与えられる最後の眠りであり、〈ヒュプノス〉とは現世の苦しみに身悶える人々へ安らかな眠りを与える、慈悲の神だからだ。。高塔百合子にも、そして君にも。苦痛なき、眠るがごとき死を」

 龍一は動けない。頭の芯が痺れたようになっている──目の前のは危険極まる存在だ。理解しているのに、身体が動かない。

「僕の標的は高塔百合子だ。だが、君が現世の苦しみから解放されることを心のどこかで望んでいたら──何もかも忘れて眠りたかったら、拒む理由はない」

 青年は静かに立ち上がった。「また会おう。コーヒー、ごちそうさま」

 自然な仕草で空の缶を手渡された。反射的に受け取り──顔を上げた時には、青年の姿はかき消えていた。まるで夢魔のように。

 空の缶を二つ両手にぶら下げたまま、龍一は悪夢から覚めたような非現実感に襲われた。


【同じ頃──未真名市中央区オフィス街、ラスヴェート総合警備保障・未真名支社応接室】

 過度に煌びやかではない、世辞抜きでセンスの良い応接間だなと思った。環境音だろう、どこかからせせらぎのような流水音が微かに流れる以外余計なBGMもない。ここに来たのが崇でなくてよかった、とテシクは密かに思った。あいつなら「ロシア人ならそれっぽくヒグマの敷き物でも敷いとけ」とでも言いそうだ。

 お待たせした、とテシクの向かいに腰を下ろしたのは龍一を遥かに凌ぐ体格の男だった。ラスヴェート総合警備保障・未真名支社長セルゲイ・メルクロフ。丁寧に整えられた顎髭と頬髭、イタリア製のオーダーメイドスーツを見事に着こなしたその姿からは、元ロシア軍特殊部隊の教官という経歴は微塵も窺えない。「〈ヒュプノス〉の情報提供だったね。その名は聞いた。我が社の『顧客』も少なくない数が犠牲になっている。〈月の裏側〉が自らそれを追っているのであれば、喜んで提供させていただこう」

「助かります」テシクは軽く頭を下げる。「これもビジネスの一環ですので、しかるべき金額をお支払い致します。〈ハリウッド・クレムリン〉から」

「結構。……スヴェトラーナ」

 はい、と返事をしてテシクにビジネス用の大判封筒を渡したのは、金髪の若い女性だった。彼女、スヴェトラーナ・ヴォロシロヴァもまたセルゲイの元教え子で、民間のエンジニアからロシア軍のサイバー戦部隊に引き抜かれたという異例の経歴の持ち主だったはずだ。「どうぞ。今まで〈ヒュプノス〉に殺害された可能性の高い被害者の鑑定結果です」

「可能性?」

「〈ヒュプノス〉に殺された者の遺族はこういった死を公にしたがりませんから」

 確かに、と頷いてテシクは資料をめくる。そのような資料の入手方法については聞かないだけの分別はあるつもりだ。

 ざっと見ても、実に多彩な殺し方のオンパレードだ。刺殺。絞殺。撲殺。高所からの転落。入浴中の感電死。しかし──

 テシクの表情が動く。セルゲイとスヴェトラーナは礼を失しない程度に軽く目配せし合った。「お気づきになられましたか」

「……

 銃、爆発物、そして毒。専門の知識を必要とはするが、そのハードルさえ越えられればいずれもありふれてさえいる暗殺の手段である。しかし、それを使わない──どころか、一切使用せずにほぼ完璧に近い暗殺を成功させているのは、特異どころか異常でさえある。

「……支社長。御社で保管している〈ヒュプノス〉の、全ての暗殺とそれに関わった者のリストを提供願えますか」

「全てを?」

「ええ、まさしく全てを。被害者とその周辺人物、セキュリティ担当者全員の情報を」

 セルゲイとスヴェトラーナの間に一瞬、言葉を介さない遣り取りがあったのを感じた。セルゲイは鷹揚に頷く。「いいとも。私はかねてより君たち〈月の裏側〉の……ああ……可能性ヴァズモーズナスチに大いに期待している」

「ありがとうございます」


 ラスヴェート未真名支社ビルを後にしたテシクは何とはなしに軽く溜め息を吐いた。少しでも〈ヒュプノス〉に繋がる情報をと思ったのだが、謎が深まっただけだった。夏姫の〈Hub〉アーカイブ解析から得られる情報にも限りがある。龍一の方もだいぶ苦戦しているようだったし、一番成果を上げていそうなのが崇の『尋常な火力』らしいのは皮肉なものだ。地味で孤独で、報われない可能性大の作業になることは確実だが、セルゲイから供給されたデータの検証は自分で行うしかないだろう。これ以上ガキどもに負担はかけられない。

 そこまで考えて、に気づいた。

 風体自体がおかしいわけではない。半分だけ青に染めた髪に、鼻ピアス。鋲やチェーンをこれみよがしにぶら下げたジャケットと破れたジーンズという服装は、日雇いのバイトをしながらメジャーを目指す売れないパンクロッカーといった風情だ。顔つきも若い。龍一や夏姫と大して変わらないくらいだろう。

 そのような風体の娘が白昼、ガードレールに腰かけながらこちらを眺めていたっておかしなことは何もない。茫洋とした、捉えどころのない視線でテシクを見つめていたとしても、若い娘ならそういうこともあるだろう(『女に興味がないなんて勿体ないな。お前なら俺みてえにツラはまずくもないし、龍一みてえにでかすぎもしないし、その気になれば一流のナンパ師になれるのにな』崇に以前そんなことを言われたのを思い出し、テシクは顔をしかめたくなった。褒め言葉のつもりなんだろうか?)。

 しかしその娘が、気づけば息がかかるほど近くまで接近していたとなれば話は別だ。気づかれることなく息がかかるほど近くまで接近するのは、自分の得意技であったのに。

 茫洋とした眼差しは、しかし確かにテシクを見つめていた。口が開く。

?」

「お前は……誰だ!?」

 気がつけば、周囲の通行人がぎょっとして立ち止まるほどの大声を上げていた。娘の口の両端がわずかに吊り上がり──自然な仕草で踵を返し、手近な路地に消えた。

「待て……!」

 テシクは走った。突然走り出した長身の男に、周囲から罵声と悲鳴が上がる。娘の消えた路地に走り込んだ彼を、埃とゴミ箱以外何もない、誰もいない空間が迎えた。

 気づけば、全身から汗が噴き出していた。まるで悪い夢から覚めた直後のように。

 悪い夢……本当にそうだろうか、とテシクは自問する。


【同じ頃──〈のらくらの国〉、武器商人・趙安国の未真名出張事務所兼住居】

の購入履歴が見たいだって? てめえ本気で言ってるのか?」忙しいから話は食いながら聞かせてもらうぜ、そう断った趙は崇の話を聞くなり、食べていた麻婆豆腐を残らず吐き出しかねない顔になった──実際、やたら高そうな黒檀のデスクの上にご飯粒と麻婆の欠片が数切れほど飛んでへばりついた。

「やっぱり駄目か?」断られても崇は大して残念そうでもなく、へらへら笑っている。

「駄目に決まってんだろ! 常識で考えてくれよ! 武器商人が客の情報を売るなんて、そこらへんの野良犬とより非道だってことがわからねえのか!?」

「じゃ、せめてどんな品物が動いたのかだけ教えてくれよ」

「それだって駄目だよ! その情報を元にお前らが動こうもんなら、真っ先に俺が疑われるじゃねえか! 寝ぼけたこと言いに来たんだったら、商売の邪魔だからもう帰れよ!」

 それもそうだな、と崇は急に態度を改める。「じゃ、得物売ってくれ。戦争カチコミになるかも知れないんでな。いや、十中八九なる」

「そういう話があるんなら、初めっからそっちをしてくれよ……」疲れ果てたように趙はがっくりと首を前に倒す。

「いやあ、サプライズは後に取っといた方が喜ぶと思ってさ」崇は嬉しそうに指先の紙片をひらひら泳がせる。

「いらねえよそんなサプライズ! そろそろ黙らねえと口に豆板醤詰めて縫うからな!」

 よこせ、と趙は崇の手から紙片をひったくり、すぐ渋面になる。「いつもながらすげえ量だな……てめえの火力至上主義者っぷり、いっそ砲兵にでもなりゃいいのにって思うよ」

「155ミリ榴弾砲なんて、俺のお部屋のインテリアとしちゃでかすぎるだろ」

「よくわからん注文もあるな……象かヒグマでもとっ捕まえるのか?」

「あれば便利だと思ってさ。火力は必要だが、今回はそれ以外も必要そうなんでな。使わずに済んだなら笑い話のネタにでもするさ……いけそうか?」

 そりゃまあ商売だからな、と渋面のまま趙は麻婆豆腐を口に運ぶ。「荷はいつもの場所でいいんだな?」

「あいよ。ところで、奥さんと娘さんは?」

 だからここでは仕事の話だけしてくれよ、とまたも趙はがっくりと項垂れる。「……女房なら娘を連れてに帰ったよ。俺の近くに置いとくととんでもない我が儘娘になっちまうっつってな」

「気の毒にな」

「なんでこういう時だけ本当に気の毒そうな顔するんだよ! 俺は……てめえの……そういう優しくない優しさが一番嫌いなんだよ!」

「え、じゃそれ以外は全部好きってこと?」

「死ね!」


 まずいな、と趙の事務所を出た後で崇は舌打ちする。奴らめ、確実に趙か、趙と繋がりのある商人から購入してやがる。奴らの実力はまだ未知数だが、得物への目利きだけは大したもんらしいな……。

「面白くねえな、ただ襲撃を指折り待つしかないってのは……」

 龍一も夏姫もそれぞれができることを精一杯やっている。責められないし、これ以上を期待するのは酷だ。

 まあ買い物は済ませたんだ、小僧と小娘に何か土産でも買ってやるか。とそこまで考えて、数メートル先の視線に気づいた。

 鼈甲のあまり洒落てはいない眼鏡に、灰色の安物の背広。手には飾り気のない黒のスーツケース。中肉中背の、何一つ目を引くところのない中年男。売れない営業マンといったところか。怪しい風体には見えない。だが、何だってそんな男が、崇の方を真っ直ぐに見つめているのか。仕事の最中でもない限り、は極力消しているはずだが。

 瞬きをする間に──男は消えた。

「な……!?」

 信じられなかった。忍者でもあるまいし、大の男が一瞬にして煙のように姿を消すなどありえない。

 だが、確かにそこにいたはずの男は消えていた。崇とて素人ではない。何かの見間違いやトリック、目の錯覚とそうでないものの区別ぐらい付かないはずがない。

 しかし、じゃあたった今、俺が目にしたのは何だったんだ。

 懐の振動で我に返った。百合子からの通話を受けたスマートフォンだった。

『お疲れ様です。お忙しいところ申し訳ありません、すぐにあの部屋へ集まっていただけますか。それも、全員に』

 百合子の声は落ち着いていたが、その奥に潜むものを崇は聞き逃さなかった。焦りだ。


【数時間後──〈ホテル・エスタンシア〉最上階VIPルーム】

「問題が発生しました」

 と、高塔百合子その人に開口一番言われたら、身を強張らせる以外に何をすればいいのかと龍一は思う。夏姫もテシクも、崇までが神妙な顔になっている。

「伯父の代理として、近日オープン予定の施設を視察する必要が出てきました。忙しい、だけでは断り切れそうにありません」

「伯父、とおっしゃいましたか」崇の顔はできれば聞き違いであってほしいと言わんばかりだった。

「ええ、三郎伯父さんです」

 百合子以外の全員が天を仰いだ。

 高塔三郎は百合子の伯父に当たる。悪い意味でのお坊ちゃん育ちと言うべきか──とにかく周囲のお追従に乗せられやすい性質で、怪しげな知己にかつがれてクーデターまがいのお家騒動を起こしたり、怪しげな投資話を真に受けて身ぐるみ剥がされそうになったりと、いい歳をして実に落ち着きのない人物であった。

 これで百合子を蹴落として自分が高塔の実権を握ろうなどという悪辣さがあればまだ感心するのだが──むしろその悪辣さの欠如が、彼を高塔の中でも実に微妙な立ち位置にしている原因なのだが──彼に関してはやることなすことが全て「中途半端な善意の傍迷惑」であり、この場にいる全員にとってろくな思い出がないのだった。

「それで、その視察する施設とは?」

「皆さんの方がお詳しいかも知れません。みまな臨海水族館です」

 あー、と崇が頷く。「『こんな地方都市でハコ維持できんのか』とか『そもそも市の犯罪対策をほっぽって作るもんか』とか『新手の税金対策じゃないのか』とか、オープン前からやたらと評判の悪いアレか」

「そうなの? 私は行ってみたかったけど」と夏姫。「こんな形じゃなくて」

「しかし、実際問題として厄介ですね」とテシク。「このホテル内ならいくらでも対処のしようはありますが、ご当主が外へ出るとなると警備の難易度は格段に跳ね上がります」

 テシクが難色を示すのも無理はない。オープン前で一般客を気にする必要こそないものの、視察陣に加えて警備員、施設のスタッフを数えるだけでも結構な数になる。仕込もうと思えば幾らでも付け入る余地はあるだろう。

「何となくだが陰謀くさいよな……このタイミングだと余計に」

「どうにか理由をつけて断れないんですか?」

 溜め息を堪えるような百合子の返答があった。「伯父は私が命を狙われていることを知りません。知ったら知ったで、また別の問題が発生することでしょう。あの通りの人ですから」

「誰かの秘密を隠しておくことのできない人ですからね……」龍一は唸った。外堀を確実に埋められている感触がある。

 幼い頃の百合子は三郎に殊の外可愛がられていた、とは聞く。誰にでも苦手なものはある。高塔百合子にすら。

「伯父にとって古くからの知己の頼みらしく、私も断り切れませんでした。申し訳ありません」

「百合子さんが謝る必要はないでしょ。……とは言え、実際どうしたものかしらね」

「炙り出すにしろ迎え撃つにしろ、人手が足りなすぎる。何とか俺たち以外の『暴力装置』は動かせないのか?」

 崇が虫歯でも痛むような顔になる。「難しいな。もうわかっているだろうが、御当主が動かしている『半合法あるいは非合法』の案件は俺たちだけじゃない。〈ヒュプノス〉対処のためだけにそれを動かすのは、命を狙われる以上に厄介な問題を引き起こしかねないんだ」

「増援は当てにするなってことか……」

 わかってはいたが厳しい結論だ。百合子以外の全員が、自分も含めて「いい考えがあれば言ってくれ」と言いたげな顔をしている。だが、いつまでも悩んではいられない……。

 百合子はわずかな逡巡の末、顔を上げた。「崇さん、夏姫さん、テシクさん。龍一さんと話があります。少しだけ、席を外していただけますか」

 夏姫もテシクも面食らったが、崇の「行くぞ」の一言に黙って従った。龍一は──自分でも不思議なことに、驚いていなかった。薄々こうなることを予測していたのかも知れない。

 考えれば、百合子と二人きりになるのは久しぶりだった。〈月の裏側〉に身を投じて以降、傍にはいつも崇か、テシクか、夏姫の誰かがいた。話したいことが幾らでもあるはずなのに、言葉が見つからない。

「私がいなくなったら、あなたはどうしますか?」

「どうもしませんね」自分の声に動揺がまるでないのが不思議でさえあった。おそらくそれは、常に自分の奥底にあった疑問なのだ。「たぶん、俺のやることは変わらないでしょう」

 どころか、ほぼ不可能になるだろうと思った。百合子の財力によるバックアップを受けてどうにかというものが、高塔と切れた後でできるとはとても思えない。

 そしてそれでも、そうだ、自分のやることは変わらないだろう──と思った。顔さえ今日知ったばかりの相手に容赦なく暴力を振るい、死なないためだけにあらゆる知恵を絞り、勝つためならどんな汚い手でも平然と使う。恥とさえ思わなくなった。それは崇の〈犯罪者のレッスン〉から会得したものではない。相良龍一の中に最初からあったものが、剥き出しになったに過ぎないのだろう。

 後悔などない。自分が正気で、目を見開いたまま積み重ねてきた選択の結果だ。しかしそれを成長と呼ぶべきなのか、だとしたら何と寒々しい代物なんだろう、と思わずにいられなかった。

 百合子は龍一を見た。龍一の葛藤を全て見透かすような眼差し。「万が一のために──それがあってほしいとは思いませんが、〈ハリウッド・クレムリン〉の匿名口座に入金しておきます。高塔のどの事業にも関わっていないお金です」

 つまりは百合子のポケットマネーということだ。「あなたの今までの働きに報いるに相応しい額とはとても言えませんが、助けにはなるでしょう」

 それが百合子の精一杯の好意であることはわかっていた。そして龍一の答えも決まっていた。

「ありがとうございます。でも俺は、あなたのいない高塔からは何一つ受け取りたくないんです」

「私ではなく夏姫さんからでも、ですか」

「はい」

「……そうですか」

 龍一の言葉に、百合子が深く失望したことがわかった。だが一度言ったことを取り消すつもりも、またなかった。


 そして当日。

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