1 暗殺計画

【〈ホテル・エスタンシア〉最上階、オーナー専用VIPルーム】

 入室した瞬間から、室内の空気は異様な緊張を孕んでいた。〈ホテル・エスタンシア〉VIPルームには数度しか足を踏み入れたことはないが、金と黒で統一された室内の調度も装飾も何もかもが重厚で煌びやかで、龍一にとってあまり居心地のよくない場所ではある(主である百合子への印象はまた別だ)。だが、今はそういう問題ではない。

 望月崇、キム・テシク、そして瀬川夏姫。誰もが押し黙っている。いつもなら崇が愚にもつかない軽口を叩き、それに夏姫がすっとぼけた合いの手を入れ、テシクは黙って「馬鹿臭い」と言わんばかりの顔をしているはずだ。

 早朝だというのに一部の隙もないスーツ姿で現れた百合子が入ってくると全員が立ち上がり、一礼した。百合子自身はそういった大仰さを嫌う人柄ではあったが、誰が言うともなくそうすることになっていた。

「昨日に引き続いて集まっていただき、皆さんにはお礼の言葉もありません。龍一さん、夏姫さん、『抽出』の手際については聞いております。崇さん、テシクさん、若い二人をよくサポートしてくれました」百合子が平生と変わらない口調で言うと室内の空気はやや和んだが、それもわずかな間だった。

「本日集まっていただいたのは他でもありません。件のみまなデータセンターから抽出されたデータは、同センターを利用して犯罪複合体マルス、及び傘下の違法企業が運営していた非合法サービスサイト『Hub』の取引記録と通話ログが大半でした。皆さんに見ていただく前に……愉快な内容ではない、と断っておく必要がありますが」

 全員の目の前のディスプレイが点灯し、黒の背景に白のゴシック体で『Hub』と記されただけのシンプルな画面が表示される。どうやら、これが非合法サービスサイトの玄関らしい。

「『結節点』? ずいぶん素っ気ない名前だな」

「怪しいサイトに怪しい名前を付けてたら目立って仕方ないだろ」

 崇に諭されてしまった。もっともではある。「閲覧もサービス自体の使用も、全てこのサイト専用のブラウザと電子マネーでやり取りしているのか。慎重だな……」

「ブツがブツだけにな。肝心の『サービス』を見ろよ、ちょっとしたもんだぜ」

 閲覧できる『サービス』の内容は、確かに崇が唸るだけのものではあった。

『死体処理:業務用大型レンジによる完全焼却』『軍用致死性レーザー販売』『児童ポルノ動画:東ヨーロッパ』『観賞用眼球。どのような色でもオーダー受け付けます』『12.7ミリ機関銃弾:3万発』『抽出直後の脳内分泌物質:真空パック済み。追加料金により空輸可』『拉致・誘拐・監禁代行。期間は半月から10年単位で調整可』『プラスチック爆薬800キロ。高品質セムテックス。遠隔爆破装置・時限装置サービス』──

『新鮮な人肉:食用飼育、アレルギー物質除去済み』の文字列を見た途端、龍一の喉から勝手に嫌な音が噴き出した。反射的に口を押さえてしまう。

「おいおい……」

「……大丈夫だ」

 呆れる崇の視線を浴びながら口元を拭った時、傍らの白い顔に気づいた。美しいが生気のない、夏姫の顔。

 何も感じていない?

 そんなわけあるか。

 画面に目を走らせる。あった。『拉致・誘拐・監禁代行。期間は半月から10年単位で調整可』。夏姫はこれを見て、表情を殺していたのだ。何も感じていない? そんなわけあるか。

「違法臓器・兵器・薬物、機密情報売買、企業および官公庁へのサイバー攻撃以来……〈月の裏側〉じゃ不可触アンタッチャブルなサービスのオンパレードだな」テシクが呟く通り、百合子は〈月の裏側〉の全員に薬物・人身売買を固く禁じている。資金獲得の名目さえ認めていなかった──むしろ「資金のためと称して理想を裏切る組織は、どのような高い志を掲げようと急速に腐敗していく」が彼女の言い分だった。

 龍一もそれについては大いに同感ではあった。とは言え、あれだけ大小の犯罪組織と違法企業を襲いそれなりの成果を上げてきたつもりが、その足元でこのように未真名市の暗黒面が猖獗を極めていたのは正直、衝撃ではあった。

「皆さんに見ていただきたいのはここです。『殺人代行』。値段は一億、支払いは全てドル」

「相場としてはなかなかですね」崇がぼそりと呟く。さすがのこの男も、話がこと百合子の問題となるといつもより歯切れが悪いようだ。

 画面が切り替わり、〈依頼人〉と〈仲介人〉のチャットルーム内で行われた通話ログが表示された。

『代行を頼む。相手は一人。資産家。女。期限は最大半年まで延長可能』

〈依頼人〉と〈仲介人〉は過去既に商売上のやり取りがあったのか、挨拶もそこそこに本題へと入っている。

『見せしめが目的であれば、その種の嗜好を持つ者を送ることも可能です』

『無意味なサディズムで本業を疎かにする素人は願い下げだ。まず本人が用心深く、周囲の護衛も手強い。資金・人員・装備はこちらで可能な限り用意する。信頼できる〈業者〉を』

『承知いたしました。〈ヒュプノス〉が適任かと』

〈ヒュプノス〉か。検討する。資料送れ』

 ログ上では数分の時間が経過している。〈依頼人〉は送られた資料に満足したらしい。『申し分ない。手配頼む』

『かしこまりました。必ずやご要望にお応えできるかと』

『結構。

 顔を上げた──口元を歪めている崇、いろいろなものを飲み下して沈黙を保っている態のテシク、そして白い顔をより白くしている夏姫が見えた。たぶん自分も似たような顔をしているのだろう、と龍一は思った。

「不思議なものですね」沈黙を破り、百合子がぽつりと呟いた。「私に一度も会ったことのない人たちが、私以外誰も知らないはずの私の傷について話している。私が祖父に背から撃たれた傷のことを」

 百合子が自分の凄惨な過去について話すのは初めてだった。内容より、語る口調のその静けさに龍一の肌が総毛立った。この人は、怒っている。文字通り、古傷をえぐられて怒っているのだ。

「テシクさん。〈ヒュプノス〉とは有名な暗殺者なのですか?」

「有名も何も」あまり気は進まないが、という顔でテシク。「陳腐な言い方になりますが、狙った獲物は逃さない、とか……失礼」

「へえ? お前はその手のを嫌うか真に受けないか、どっちかだと思ってたけどな」

「〈ヒュプノス〉は別だ。奴が請け負うのは国家要人や国際的大企業のトップクラスばかりだからな」

 崇もテシクもややいつもの口調に戻ってきたが、これは彼らが空気を変えるために意図してのようだ。

「崇さん。マルスのその後の動向に変化はありますか?」

「虎の子のシステムを直接爆撃されたのが相当こたえたらしく、今は『顧客』のクレーム対応で精一杯のようですね。本格的な犯人探しは当分先にするしかないはずです」

「わかりました。ありがとう。……夏姫さん、何か気づいたことはありますか?」

「……私見ですが、マルスは〈月の裏側〉に対抗するためのネットワークを立ち上げつつあるのではないでしょうか」夏姫はまだ完全に立ち直ってはいないようだったが、それでも自分の専門分野に及んではそうも言っていられない、というところだろうか。「〈Hub〉はそのテストケースなのかも知れません」

「抗原抗体反応みたいなもんか」と崇。彼自身思うところがあったのかも知れない。「奴らの頭に詰まってるのがオガクズよりマシな代物なら、当然対抗手段も模索するわな」

「それ自体も興味深いが、今はご当主への暗殺計画の方が急務だ」とテシク。この場にいる全員がわかっていた──百合子を喪失すれば、彼女のリーダーシップと資金力にほぼ依存している〈月の裏側〉という組織とすら言えないグループは、見る影もなく瓦解する。

「夏姫さんは引き続きアーカイブの解析を。龍一さんと崇さんは〈ヒュプノス〉の対処とその準備に当たってください。テシクさんは〈ヒュプノス〉に関する情報収集を。必要な資金は〈ハリウッド・クレムリン〉の口座から都度引き出してください」

「はい。……失礼します」夏姫は百合子の前で礼を失しないのが精一杯、という態度で立ち上がった。スカートの裾を振り回すような勢いで踵を返す。

「行ってやれ」躊躇していた龍一に、崇が処置なし、という顔で言った。それでもまだ躊躇っていると、今度は百合子からも言われた。

「大丈夫です、龍一さん。行ってください。必要事項はまた後で伝えます」

「……はい」

 二人の態度から、自分も相当に危うい様子で見られていることが感じ取れた。情けなかった。


「うちのけだもの坊っちゃんは、意外に豆腐メンタルであらせられる」二人の退室を確かめてから、崇は百合子に向き直った。「動揺するなとは言いませんが、顔に出してほしくはありませんな──あなたが揺らげばあの小僧も小娘も、もっと落ち着かなくなる。そうなれば、勝てるものも勝てない」

「……はい。心得ています」

「何にせよ、〈ヒュプノス〉を縊り殺すのは俺の役目です」早くもその、縊り殺す相手の顔を宙に思い描いているような目つきで崇は言った。「罪悪感に夜通し眠れなくなるのは、あの坊っちゃん嬢ちゃんには荷が重すぎる」

「その意見自体には同感だが、容易なことじゃないぞ」テシクが静かに諭す。「忘れるなよ、各国の要人クラスが〈ヒュプノス〉の餌食になっているのは事実なんだ。お前の言う通りなら、奴は今頃生きていないよ」

「それだ」崇は何か思いついたように、「生まれつき銀の匙を咥えた方々の首を片っ端から刈って回るなんて自殺への最短手段のはずだが、奴がとっ捕まったとも八つ裂きになったとも聞かない。何かでかい後ろ盾バックでもあるんじゃないのか? 一匹狼の殺し屋なんて映画か漫画の中の話だけだしな」

「それなりの合法組織が手を貸している、と?」

「あるいはどっかの国の政府とかな」

「わかりました。それに関しては、私の方からも探りを入れてみます」

 百合子の言葉に二人は立ち上がり、一礼する。


 夏姫はスカートでそれはどうなのかと言いたくなるほどの早足で廊下を歩いていて、龍一は追いつくのに一苦労した。「待てよ。話を聞いてくれ」

「聞いてるわ」夏姫はやや足を緩めたが、振り向こうともしなかった。「好きに話せばいいでしょ。誰も邪魔しないんだから」

「君がしてる」

 夏姫はやっと足を止めたが、何かをこらえるような表情は変わらなかった。母親にこっぴどく叱られた女の子みたいだ、と思った。「どうして自分から解析を引き受けた? 〈月の裏側〉だってそこまで人手が払底しているわけじゃない」

「あれを『抽出』したのは私よ。他の人じゃ癖を掴むまでに時間がかかる」

「それでも君一人がやる必要はない」

「また龍一の悪い癖が出たわね」夏姫は冷ややかに言った。「私を宝石箱に閉じ込めようとしている。好きな時に取り出して、にたにた笑いながら眺めるために」

「君に!」

 つい大声が出た。夏姫の肩がびくりと跳ね上がるのを見て、努力して声を抑えなければならなかった。「……君にあんなものを見せたくなかった、というのが俺の正直な気持ちだ」

「心配してくれているのね。嬉しいわ」言葉とは裏腹に、寂しげな口調だった。「でも、龍一はもうわかっているでしょう? 私がやめられない、やめたくないその理由も」

 昨日のテシクの言葉を思い出す。こうも早く、自分自身が棚上げにしていたことに直面するとは思わなかった。

「わかっている。でも俺たちはこれから職業犯罪者の潜伏先を見つけて、場合によっては直接殴り込むんだぞ。俺にもちろんこんなことを言う資格はないが、それでもやっぱり、尋常な手段じゃない。先祖返りした蛮人の所業だ」

 我ながら本当にこんなこと言う資格はないな、と思わずにいられなかった。公権力を当てにできない時点で、百合子も崇もテシクも、そして自分も、半ば以上に彼岸の住人なのだ。

「そんなことわかってるわ。でも私、知っちゃったのよ!」今度は夏姫の方が大声を上げた。百合子の前で我慢していたのを全て吐き出したような爆発の仕方だった。「どこかの誰かが殺し屋を雇って百合子さんを殺そうとしているのよ。それを知った後で全部忘れて家で寝てろって言うの!? それとも殺し屋を差し向けるのは自己責任ってわけ!?」

 龍一を見上げる瞳にうっすらと涙まで滲んでいるのを見て、龍一は自分の敗北を悟った。そもそもこの手の言い合いで彼女に勝てた試しはないのだ。

「わかったよ……わかった。君は指示通りアーカイブ分析を続けてくれ。頼むから勝手にやばい場所へのこのこ出かけていって、人質に取られたりすんなよ」

「……話、勝手に作んないでよ」やや落ち着きを取り戻して、夏姫が目元を拭う。

「手伝ってくれる? 百合子さんを助けるの」

「少し違う」

「え?」

「一緒に戦うんだ」

 言った後で、ああ言ってしまった、と思った。目の前で夏姫が満面の笑顔になったのを見て、さらにああやってしまった、と思った。

「……うん!」

 結局この娘に甘いのは百合子さんだけじゃないんだろう、と思いはしたが、不思議と後悔はなかった。追いついてきた崇が聞こえよがしに「今泣いてたカラスどもがもう笑いやがった」と吐き捨てた。

「ちょっと待て。カラス『ども』って俺もか?」

「お前だよ」


【未真名市港湾区、倉庫街の見える中華料理店】

「〈ヒュプノス〉に関する情報、ですか」ジャスミン茶の入ったコップを前に、崇の向かいに座る男は苦笑した。中肉中背の肢体を包む仕立ての良いスーツ。やや浅黒い肌に鰓の張った、美男とは言い難いが不思議と愛嬌のある顔立ち。ただ、どこか光を欠いているように見える右目が男の容貌をやや損ねていた。義眼かも知れない。「確かに、持っていないとは言えませんね。軍や党の幹部にも、彼の者の刃に倒れたものは少なからずいますから。しかし──なぜ私どもに? あなたが高塔の意を受けて動いているなら、よほど頼りになりそうな情報屋はすぐ見つかるでしょう」

 崇は不機嫌そうにジャスミン茶を飲み干した。テーブルの上のポットから勝手に注ぎ足す。「かてえこと言うなよ。中国きってのスパイマスター、リム永生エンセンさんよ」

「スパイマスターなんて、そんな」今度こそ林は可笑しそうに笑い出した。「上からは小突かれ下からは突き上げられる、悲しき中間管理職ですよ」

「じゃ、上からは小突かれ下からは突き上げられる、悲しき中間管理職の林さんに聞くぜ。知ってることを洗いざらい話しな。金なら言い値で払ってやる」

 林は笑うのをやめたが、まだ口元が笑っていた。「望月先生さん、先ほども申しましたが、私どもは情報屋ではないのです。あなたがご要望の情報なら、友愛の証としてただで差し上げますよ。それで気が咎めるというのなら、次に私どもに対してささやかな便宜を計っていただけたら、それでよいのです」

「それがおっかないからカネ払うっつってんだよ。スパイマスターから頼まれる『ささやかな便宜』なんて何頼まれるかわかったもんじゃない」

「やれやれ、用心深いことですね……あなたがそのような方だからこそ、こうしてお付き合いが続いているのですが」

 そこまで言うと林はカウンターに向かって手を上げた。忙しそうに手を動かしている──だが料理しているようにも見えなかった男が、黙って店の奥へ消え、しばらくして一通の書類用封筒を持って現れた。足音は一切ない。

 林が頷いて封筒を受け取ると、男は黙って今度こそ店の奥に消える。

「どうぞ。ある党幹部が殺害された時の現場写真です。場所は被害者の自宅の書斎、護衛は全員、元軍人です」

 崇は封筒を開けて中を見──すぐに咳き込むような奇妙な声を漏らした。「こりゃひでえな。ここまでやる必要がどこにあるんだ?」

「ここまである必要はもちろんありませんよ。どういう殺し方をしたらそうなるんでしょうね?」

「俺に聞くな」崇は茶を飲み干したが、足りないとばかりにもう一杯分注いだ。「ガスや毒物の類は?」

「一切検出されませんでした。全員が同一の死因──鋭利な刃物で頸部を切断されての即死あるいは失血死です」

 崇は一枚の写真を目の前にかざして顔をしかめた。高価なカーペットの上に転がる前衛彫刻のようなそれは、拳銃を握り締めたままの毛深い男の右手首だった。皮膚と、それに包まれた肉と、その中心部の骨までもが断面図のように見て取れる。

「物凄い切り口だな……ただ切れ味の良い刃物でぶった斬ったからって、こうはならねえぞ」

「上泉信綱か、塚原卜伝……御国の剣術の達人が十人ばかり、一度に突入してくればそのような所業が可能かも知れませんがね」

 妙なところで妙な分野に詳しい男だ。「その冗談は笑えないよ、林さん」

「これは失礼……ですが、拳銃で武装した大の男が一チーム、反撃もならないまま不明の手口で鏖殺されたのは、冗談でも手品でもありませんよ。それをお忘れなく」

「誰が忘れるもんかよ。忘れたくったって忘れられねえ」うんざりした様子で崇は封筒を返す。「で、それだけかい?」

「それだけ、とは?」

 崇は口元を拭い、静かに林を見据えた。「そろそろ腹割って話そうや、林さん。中国共産党はただ身内を殺されたから〈ヒュプノス〉を追っているんじゃないんだろ? を中国きってのスパイマスターが本業放ったらかしで追っかけるなんて、誰も信じねえよ。件の幹部は、〈ヒュプノス〉からの警告として殺されたんじゃないのか? ──あんたら、んだな」

 林は微笑んだが、その微笑みは先程までの笑みとは違う何かを含んでいた。「何のことやら、と一応は申し上げておきましょうか。繰り返しになりますが、私どもは情報屋ではありませんからね──そうだ、ではこうしましょう。あなたがたが〈ヒュプノス〉の刃を生きて逃がれられたら、というのはいかがですか? あなたからどう見えているかは存じませんが、私はこれでもあなたがたのバイタリティに期待しているのですよ」

「へっ……それだけでいいのか? あんたも欲がないな」崇は立ち上がる。「生きて逃がれるどころか、当の〈ヒュプノス〉を血袋にしてあんたの前に転がしてやるよ。俺と──俺の愉快な仲間たちがな」


 一方その頃、龍一は夏姫のマンションを訪れていた。

【未真名市中央区高級住宅街、夏姫のマンション】

 百合子さんのVIPルームほどじゃないけどここもどこもかしこもピッカピカだな、と龍一は廊下を歩きながら半ば呆れていた。こんなところで暮らすというのは一体どんな気分なのだろう。まあ、こういうところで暮らすような気分なのだろうが。

 付き人兼専属運転手である滝川の丁重すぎるほど丁重な出迎えに閉口しながら(何しろ彼は『様付けで呼ぶのはやめてくれ』と頼んでも、頑として受け入れないのだ)龍一は夏姫の部屋のドアを叩いた。手には途中で買ってきたケーキの箱。ちなみに様子を見に行くよう言ったのは崇だった。様子見に依存はなかったが大真面目な顔で「お嬢様がお前を押し倒してきた時に備えて、ゴムは用意しとけよ」と言われた時は心底この馬鹿野郎と思った。馬鹿野郎というか最悪の種類の男根野郎だ。

「あ、な、何よ龍一? ど、どうしたの?」夏姫は驚いていたが、それ以上に喜んでもいた。ヘアバンドで強引にまとめたぼさぼさの髪に、色気の欠片もない蛍光ピンクのジャージという100年の恋も冷めそうな姿ではあったが。黙っていれば週替わりでボーイフレンドを獲得できそうな娘だけに、そのやつれ具合も壮絶ではあった。だが、何しろこちらから押しかけたのだから文句を言う資格はない。

「どうしたも何も、差し入れだよ。一息入れたらどうだ?」

「わ、ありがとう!」夏姫は即座にキッチンへ飛んでいった。ちらりと見えた部屋の荒れ様から、作業が相当に難航していることが見て取れた。

「座って……お茶入れるね」

「悪いな。ああ……君はモンブランだったっけ」

「あ、覚えててくれたんだ……ふん、龍一はレアチーズケーキ? お洒落臭くって嫌味なチョイスね」

「ほっとけ」

「そうだ、百合子さんもレアチーズケーキ好きだって言ってたっけ。……ははあ」

「何が『ははあ』だよ。黙って食っちまえ」嫌な笑い方しやがって。

 ふふ、と笑いながら夏姫はケーキを食べ始めた。心底嬉しそうな様子に、だいぶ鬱屈してたんだな、と想像できた。崇の気遣いもお節介とは言えなかったようだ。ゴム云々は馬鹿野郎と思うが。

「ありがとね。実は少し煮詰まってたの」

「そりゃそうだろうよ。犯罪者どもの裏サイト解析なんて、真っ昼間からやるもんじゃない。……やらせてるのは俺たちだけどな」

「ごめんね。龍一の心配はわかってる。でもこれは私にとっても必要なの」

「前に言っていた『犯罪工学』って奴か?」

「うん。百合子さんには悪いけど、私も一時はどうしようって思ったけど……でも同時に、これはチャンスなんじゃないかって思った」

「これから起こる犯罪全てを予測あるいは予防する、だっけか? 俺にはまだ信じられないよ。空の雲をアイスクリームにできるって言われた方が、まだ信じられる」

「どうしてできないって思うの?」

「どうしてって……」

 静かな声と真摯な眼差しに、龍一は反論しようとして──反論のしようがないことに気づいた。

「既に『金融工学』がある以上、『犯罪工学』がこれから生まれ出ずるとしてもおかしくないと思わない? 一定の規模を越えた犯罪組織は否応なく疑似企業形態を取らざるを得ず、またその金融システムは合法と非合法の境を限りなく融解させていく。だから思うの……もしそこに、組織犯罪にとって致命的な『毒』を仕込むことができれば……」

 うわ言か、それとも託宣か、側にいる龍一を忘れ去ったかのように呟く夏姫を見て龍一は思う。俺はこの娘について何を知っているのだろう、と。

「……あ、そうだ、ちょっと気になるもの見つけたの」唐突に我へ返った夏姫が端末のキーパッドを叩き始め、龍一はもう少しで膝を折るところだった。何だったんだよ。

「例の〈依頼人〉だけど、どんなに調べても身元はわからなかったの。ううん、それ自体は重要じゃなくて……」

「わかったとしても、当の〈依頼人〉も代理人プロキシを噛ませていたらそれまでだしな。それで?」

「うん、〈依頼人〉のアカウントだけど、同一のものからあの『暗殺代行』以外に、別のサービスを発注しているらしいの」

「何だって?」

 夏姫の白い指が画面を示す。「これじゃないかしら。『戦闘員訓練及び派遣』──偽装パスポートの用意後、フィリピンの訓練施設で銃器・爆発物の戦闘訓練を受けた上、潜伏先の手配までパッケージ化。傭兵、元軍人・元自衛官など実戦経験のある者を優先的に採用……ですって。どう思う?」

「こんな物騒なメンツ、まさか観光旅行でもないだろうな……〈ヒュプノス〉の他に、もう一つ暗殺チームが動いてるってことか?」


【数時間後──テシクの〈工房〉にて】

「いきなり大金星かよ。やっぱり俺の目に狂いはなかったね」勿体をつけて頷きながらチョコレートを食っている崇を見ていると腹が立ってきたが、腹が立つのもその通りだからである。「で、お前はまだ童貞を奪われてねえのか?」

「そろそろこのプレッツェル、あんたの鼻の穴に突っ込んでいいか?」

 食い物を粗末にするな、と言いながらテシクが二階から降りてきた。ついでに崇の貪り食っていたチョコレートの袋を引ったくる。「お前はお前で、俺の楽しみに取っておいたナッツ入りの奴ばかり食うんじゃない」

「楽しみだったのかよ? 可愛い好みだな」

「それ以上言うとお前の尻穴にねじ込むぞ」テシクは残り少なくなったチョコレートを口に放り込む。この住居兼工房は持ち主の性格そのままに何もかも整然としていて、崇や龍一の部屋とは大した違いだ。「繊細な器材や危険な薬物もあるのに散らかしてられるか」が本人の言い分ではあったが。

「しかし、殺し屋の世界のことはよくわからないんだが、同じ依頼人が別々の殺し屋に依頼するなんてことあるのか?」

「言ってみれば二重契約だからな……ビジネスの観点からすれば契約違反だ。最悪、依頼を果たした後で依頼人が次の標的になりかねない。プロだの一流だの呼ばれるような殺し屋なら、なおさらだ」

「依頼人のタマなんて俺たちが心配してやる謂れはねえが、単純に厄介事が倍になると見た方がいいんじゃないか」

「そうだな。いつどこからどんな方法で襲ってくるか不明の暗殺者と、銃器と爆発物の扱いに長けたそれなり以上の訓練を受けた襲撃チームか……連携が取れていないだけに、かえって厄介かも知れん」

「火力が必要だな」口中のチョコレートを飲み下し、崇が大真面目な顔で呟く。「それも尋常じゃない火力が」

 龍一は思わずテシクと顔を見合わせた。こいつまた始めやがった、と言わんばかりだった。崇の表情は確かに真剣ではあったが──同時に、ひどく楽しそうにも見えたのである。


【数日後──未真名市西区、住宅街】

『どうだった?』

「一足遅かったらしい。オーナーにも聞いてみたが、数日前に引き払われた後だそうだ」自分の声に落胆が滲むのを、龍一は認めずにはいられなかった。

『そうか、連中さすがに用心深いな』崇はある程度予想していたのか、さほど残念そうではない。『考えてみれば〈依頼人〉が手を打たないはずもないな。わかった、一度戻ってこい』

「ああ」

 龍一は通話を切り、予算を大幅に切り詰めたためか盛大に軋むアパートの階段を降り始めた。素晴らしい青空の下のくすんだ街並みは、見ていると気が滅入ってくる。

 対〈ヒュプノス〉戦への準備が着々と整いつつある一方、〈ヒュプノス〉及び襲撃チームの動きを掴む試みはまるで芳しくなかった。アーカイブ解析から割り出された拠点へ乗り込み、場合によっては先手を打って襲撃チームを無力化する──ようやく俺に向いた仕事が回ってきたと意気込んだ龍一は、大いに失望することとなった。

 つくづく龍一は、自分たちのアドバンテージが不意打ちにあることを思い知らされていた。警備や護衛といった防戦一方の展開については街のチンピラ以下であり、一般の警備員やボディガードの方がまだ有用に振る舞えるかも知れない。だからこそ先手を打つことの重要さが増してくるのだったが……。

 崇はコネを総動員して「尋常じゃない火力」をかき集めるために走り回り、テシクは職業犯罪者のネットワークから〈ヒュプノス〉の動向を分析している。夏姫も膨大なアーカイブ解析に取り組んでいる。丸一日棒に振った後だと何となく帰りづらいな、と思い始めた時、


『──成果を上げずには帰りづらい、という顔だね?』


 突然耳元で囁かれ、龍一はぎょっとして身構えた。不審な人影は見当たらない。通行人たちが怪訝な顔で傍らを通り過ぎていく。

『驚かせて済まない。指向性の強い音波で話しかけている。振り向く必要はないよ』

 若い声だ。龍一とそれほど変わらない男性の、やや悪戯っぽい笑い声。

「誰だ?」

『名乗りたいけど、僕はずっと昔に本名を捨てたんだ。通り名でよければ……』

 青年の声は邪気のない口調で囁く。『〈ヒュプノス〉と呼ばれている。少し話をしないかい、相良龍一くん?』

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