苦痛なき、眠るがごとき死を

アイダカズキ

0 秘匿海流

【未真名市中央区オフィス街、みまなデータセンター入口付近】

「とにかく、安全性です」といかにもやり手のビジネスマンといった風情の体格の良い男は言う。「私どもの業務はお客様の個人情報を直接取り扱う性質上、殊に安全性・秘匿性・信頼性が重視されるわけです」

「その点であればご安心を」この春から採用されましたという風情の、広報担当の男性職員は如才なく応じる。「当施設は地震・津波等の自然災害のみならず、テロや敵対企業のサボタージュといった人的災害にも万全のセキュリティを施しております。必ずやお客様のご要望にお応えできるかと」

「施設の中は見せていただけますの?」ビジネスマンに付き従う、度の強い眼鏡にパンツスタイルの若い女性秘書が質問する。「もちろんリモートアクセスも検討してはおりますが、弊社の性質上、多少の手間は承知でデータのやり取りをする必要がありますので」

「もちろんですとも」若い広報はにこやかに請け負ったが、彼女の薬指で光る指輪をちらりと見てわずかに残念そうな顔をした。「では、こちらへどうぞ。その前にボディチェックが必要とはなりますが……」

 広報の目配せで詰所から出てきた警備員が二人のボディチェックを開始する。秘書の方にも、女性警備員による入念なチェックが行われた。

「腕時計、スマートフォンなどはこちらで一時的にお預かりします。お帰りの際は詰所にお立ち寄りください」

 ビジネスマンとその秘書が差し出されたトレイに貴重品を預けると、広報は頷いて二人を個室に導いた。発光物質を用いて壁全体が淡く光っており、個人用端末の置かれたデスク以外調度らしきものはない。「では、ごゆっくり」

 ドアが閉まると二人は盛大に息を吐いた。ビジネスマンに扮した望月崇は、我慢ももう限界と言わんばかりにネクタイを緩める。「この顔認証マスク、顔が痒くって仕方ねえな……女ってのはいつもこんなもん顔に塗りたくってんのか?」

「そ。塗りたくってんのよ」女性秘書姿の瀬川夏姫は、早くも眼鏡を外して髪をゴムでまとめている。「すっぴんの女を大目に見るほど現代社会は寛容じゃないもの」

 ふん、と崇は鼻から息を吐いたが、反論するつもりはなさそうだった。「カメラは?」

 返事の代わりに、夏姫は壁に向けて指輪をかざした。プラチナの台座に嵌まっていた宝石が微かに発光する。「潰したわ。あなたのちょうど背後。壁の装飾に見えるけど」

 崇はぎょっとして振り向いた。「マジかよ。言われなきゃ絶対わかんねえな。プライバシーがどうのと言っても、どうせ録画してるに違いないとは思ったが」

「バレたらかえって面倒なことになるんじゃないの?」

「後ろ暗い奴らなら何も言いやしねえよ。個室をいいことにラブホ代わりに使われても困るだろうからな」

 理解したくもないといった顔で夏姫は天井を仰ぐ。「ここのセキュリティに関して、望月さんの意見は?」

「行き届いてはいるな。特に通信機器の類を持ち込むのは厳しい。ただし……」

 かたり、と天井付近で小さな音がした。ネジで固定されているはずの通風口のネットが外れて開いている。顔を見合わせた二人は互いに頷き合う。壁に手をついた崇の肩に夏姫が乗り、中から小型のアタッシュケースを引っ張り出す。

が外部から何か運んでこなけりゃ、の話だ。始めるぞ」

「ええ」夏姫はアタッシュケースを開け、中から秘匿通話用の携帯電話を取り出す。「テシクさん、龍一、配置についたわ」


【同刻、未真名港から数キロ沖に浮かぶプレジャーボート】

「夏姫からゴーサインだ」

「行くぞ。連中に『難攻不落』なんてこの世にはないことを教えてやる」

 潜水器具一式に身を包んだ龍一とテシクは鼻抜きを行い、一瞬後、鉛色の海に背から身を投じた。バラストは調整済み。落ちていく、どこまでもどこまでも。

 無線機からテシクの声。骨伝導式のため、ヘッドホン方式とは比較にならないほどクリアな音声だ。『通信機器、生命維持装置、全て問題なし。このまま500まで一気に潜るぞ』

『ああ』

 龍一は眼下の暗闇を見つめ、身震いした。夜の深海へのダイブは本能的な恐怖が伴う。だが、今まで行ってきた「仕事」の中で取り分け危険というわけでもない。


【数時間前】

「その……データセンターってのが、今回の標的ターゲットなのか?」

「そうだ」龍一の質問に頷いてテシクは端末を操作し、建物の立体画像を回転させた。「最近稼働したばかりのだ──取り分け強固な岩盤の上に建てられている上、建物自体もシェルター構造で、災害にも外部からの攻撃にも強い」

「〈ダヴィデの盾マゲン・ダヴィッド〉ほどじゃないが、警備員もよく訓練されている」崇がその後を受けて説明する。「市の中心部にあるから、何か騒ぎを起こせば市警察も飛んでくる。それなり以上の装備と練度の警備部隊と、市警察の特別急襲部隊SATを同時に相手したくはないな──自殺したいってんなら話は別だが」

「さらに憂鬱な知らせがある。首尾良く押し込み強盗に成功したとしても、目標のデータは地上の建物にはないということだ」テシクはまた端末を操作した。建物の立体画像が消え、代わりにドラム缶のような円筒状の物体が表示される。

「何だこりゃ?」

「それがデータセンターのだ。地上に出ているのはあくまでリモートアクセスのための施設、肝心のデータサーバーは500メートル近い海の底だ」

 しばらくの間、龍一は何を言っていいかわからなくなった。「海の底にデータを沈めて、何か得があるのか?」

「まず熱効率の問題が解決するわね、冷たい冷たい海の水が豊富にあるもの」やはり夏姫はこの分野に関しては龍一以上に詳しい。「地震や台風、部品交換時の振動からも保護される分、故障が少なくなるのも大きいわね。あと単純にセキュリティの問題」

「パソコン担いで海に潜るハッカーもそうそういないだろうしな。つまりはいつもの『ネットから切り離されてるんなら、物理的に押し入りゃいい』が通用しないってこった」と崇。

「大量の海水も電磁波を妨げ、ハッキングがより困難となる。このあたりでもう、大抵の奴は諦めるだろう」とテシク。

「油断ならない目標ってことはわかったわ。それだけの価値があるのね?」

 話が早いな、とテシクは立体画像を切り替える。コンテナが消え、代わりに複数の企業とその間の資金の流れを示した表が現れた。「この『みまなデータセンター』を利用、あるいは資金提供しているのは、いずれもマルスか、その傘下の関連企業ばかりだ」

 犯罪複合体MARSマルス。広告戦略請負会社〈ミーメットワーク〉、監視システムと人工知能を統合したITセキュリティ企業〈AアルゴスRリスクMマネージメントSサービス〉、そして中国系医療複合企業〈蒼星ランシェデーシン医療公司〉の頭文字を並び替えた呼称アナグラムだ。最も重要なのは、この3社が〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスが君臨する〈王国〉、その日本における事実上の窓口であるということだ。

「しばらくお前たちの『仕事』を見てみたが、実際、お前たちはよくやっている」急にテシクが口調を改めたので、龍一と夏姫は思わず顔を見合わせてしまった。この男の口からこうも評価らしき言葉が──それも好意的な評価が出るなど初めてだったからだ。「だからこそ〈インストラクター〉としてはここでお前たちに満足してほしくはない──俺と、崇と、そしてご当主との間で話し合って出た結論だ」

 ご当主とはもちろん百合子のことだ。夏姫が反射的に背筋を伸ばすのが、そちらを見なくとも感じ取れた。

「要はお前らに、今までより数段高い目標をセッティングするべきじゃないかって話になってな」崇が引き継ぐ。「その方がお前らのモチベーションも上がるだろうし、実際、そうする必要も出てきた。いつまでもマルス子飼いの違法企業や下請けマフィアどもの地下銀行を襲ったり、いじましくマンションの一室で栽培してる大麻工場へ押し込み強盗に入ったり……まあ、効果がないとまでは言わないが、それじゃ百年経ってもマルスは倒せねえよ」

 夏姫は何も言わなかったが、やったじゃない、と言わんばかりにこちらを見る目元が笑っていた。かえって龍一の方がどぎまぎしてしまう。

「わかったよ。それで……地上と海底、どっちに集中するんだ?」

 崇は声を出さず笑った。「両方同時に襲うんだよ」


【現在、みまなデータセンター内】

 夏姫の指は間断なく端末のキーパッドを叩き続ける。「取り付いたわ! ……駄目ね。いつもならここで精緻テクニカルにも粗雑クルードにも好きな方法で料理できるんだけど、当のサーバーが海の底じゃどうにもならない」

「じゃ、これからどうにかしよう」崇は咽頭マイクに囁く。「龍一、テシク、コンテナは見えたか?」


【同刻、未真名港沖合数キロの海中】

『いや、まだだ。少し流されたらしい……方向を修正する』

『潮の流れが速い……気を抜くと持ってかれそうだ……』

『勘に頼るな。計器を信じろ』

 ゴーグル内蔵の暗視装置を通してさえ、周囲の光景は薄ぼんやりとしか見えない。酸素濃度に問題はないのに、ひどく息苦しい。ウェットスーツが冷たい海水から全身を遮断しているはずだが、それでも物理的にぶつかってくる水の塊はどうしようもない。ひたすら足のフィンを動かして泳ぐしかなかった。

『コンテナはまだ先なのか? 俺からは何も見えない……』

『方角は間違ってない。焦るな。……どうするつもりだ?』

『え?』

『夏姫のことだ。お前は彼女が加わることについて一時はかなり思うところがあったようだし、実際本人にも周囲にも抗議していたが、最近は何も言わなくなった。いいことだと言いたいが……実際は棚上げしているだけじゃないのか』

 危うく龍一は水中で目を回すところだった。テシクがそこまで夏姫と自分を見ていたとは知らなかったのが一つ、もう一つはテシクの指摘がまさに図星だったからだ。

『……でかい口を叩くだけのことはあったからな。望月さんが認めて、あんたが認めて、百合子さんまで認めたら、もう俺の意見なんて二の次だろう』

『それについては俺にも責任の一旦はある。〈月の裏側〉はまだまだ人材不足で、数少ないメンバーの中でも彼女の腕はずば抜けているからな。だが、能力だけがここにいていい理由にはならない──犯罪行為に加担する理由にはならない。そうだろう』

 テシクの言い分はもっとも、どころかまさに龍一の痛いところを突いていた。だがそれだけに、そんなこと俺だって考えてるんだよ、とも言いたくなる。『能力だけでなく本人がやる気満々なんだ。俺だってあいつを遠ざけられればそうしたいよ。正直〈ホテル・エスタンシア〉の玄関から首根っこを掴んで放り出す夢を見たくらいだ』

『お前が納得しているんならいい。だがお前は、どちらとも決めかねているんじゃないのか』ハンドサインで龍一を招き、テシクはさらに深くへと潜っていく。その動きに淀みはない。『本人が、周囲が、じゃなく、お前自身が納得行く答えを探し続けろ。それが見つかったら、最後まで押し通せ。でないと……俺のようになる』

 テシクが過去の自分を龍一に重ねる気持ちは痛いほどよくわかった。わかったが、そう簡単に答えが出る問題でもないことも確かではある。

『……喋りすぎたな』テシクが務めて口調を変えたのがわかった。『見えたぞ』

 海の底に、青灰色の長大な円筒が横たわっている。思った以上に大きい。幅は5メートル、長さは百メートル前後だろうか。まるで軟体動物のように両端から太く長大な海底ケーブルが伸びている。

『でかいな……この中から目当てのブツを探すのか?』

『本当に中へ入るわけじゃない。そのための陸海両面作戦だ。……夏姫、目標に着いた。これから〈クラープ〉を侵入させる』


【同刻、みまなデータセンター内】

「了解。タグ付けタギングはこちらに任せて。一度侵入できればこちらのものよ」

「さて、湧き出てくるのは泥やら糞やら」


【同刻、未真名港沖合数キロの海底、データセンターコンテナ直上】

『〈蟹〉を侵入させてデータを抽出して、俺たちの仕事は終わりか? いや別に不満はないけど』コンテナの表面に張り付き、水中用レーザーを照射して外壁を焼き切っているロシア軍払い下げの破壊工作用ドローン〈蟹〉を見ながら龍一は言った。不満はないどころか、深夜の潜水活動がこうも心身ともに消耗するとは思っていなかった。

『そういう心暖まる想像も嫌いじゃないがな。もっと心の冷える想像をするのが俺たちの仕事だ』テシクはドローンの操作に集中してはいるが、龍一の質問も疎かにしなかった。つくづくマルチタスクの男だ。『考えてもみろ。顧客から預かったデータの安全性のために、わざわざサーバーを海底に沈める奴らが、それで安心すると思うか?』

『早くも嫌な予感がしてきたな……』

『その予感はたぶん正しいぞ。データセンターが稼働する半月前、つまりこのコンテナが沈められた直後だが、付近で潜水していたダイバーが二人ばかり消息を絶っている。どうもただ潜っていただけじゃなく、密猟もしていたらしいから、警察の捜査も通り一辺だったがな』

 深夜に海の底で聞きたい話ではない。『カタログにはないセキュリティがあるってことか』

『それも致命的な奴がな。……万が一に備えて、用心はしてきたが』

 龍一は腰にぶら下げた「万が一」を確かめる。『役に立たなければ、それに越したことはないよな……』

 テシクの操作がより慎重さを増した。『夏姫、内部に侵入した。始めてくれ』


【同刻、みまなデータセンター内】

「待ってました。……では紳士淑女の皆様、お待たせしました。メインディッシュは仔羊のローストでございます」

 夏姫の眼前で端末の画面が、明らかに非正規のものへと切り替わった。

「ちょ……何これ!」

「あー……国防省大臣補佐と、統一朝鮮連邦訪日大使付き秘書の密会映像だってよ。別に美男美女だけが愛を語らっていいとは言わんが、50過ぎたおっさんおばさんの組んずほぐれつはなかなかキツいもんがあるなあ……」

「別に目当てはこれじゃないんでしょ」夏姫は耳まで真っ赤にして動画を消す。「絶対に表に出せない代物ではあるけど」

 崇が眉をひそめる。「……この領域、他と比べても圧倒的に占めるスペースが多いな。通信量も桁違いだ」

「これが本命らしいわね……解析してる時間が惜しい、丸ごと吸い出しましょ。龍一、テシクさん、何があってもコンテナと可愛い蟹ちゃんを離さないで。


【同刻、未真名港沖合数キロの海底、データセンターコンテナ直上】

『そう言われるとかえって何かが起きそうなんだがな……抽出は順調だから、何か手を出す必要もないんだが……』

 不意に、端末へ目を走らせたテシクが緊迫した声を発する。『気をつけろ。何か高速で来る……!』

 何かってなんだよ、と問おうとした瞬間に衝撃が来た。目の前を巨大な影がよぎり、一瞬遅れて、掻き乱された水流がぶつかってくる。龍一の身体はまるで木の葉のようにコンテナからもぎ取られ、めちゃくちゃにかき回された。必死で足をばたつかせ、どうにか体勢を立て直す。

『龍一!』

『何だ今の……!』

 ごうっ、と青黒い巨体を旋回させたのは、ある意味では映画の中で見慣れた存在であり──同時に、今最も見たくなかった存在でもあった。

『サメだ……』

 見えるはずもないのに、剥き出した歯がぎらりと光った気がした。

『こんな近海に鮫がいるはずがない……培養筋肉と生体アクチュエーターで形成された、生きたドローンだ!』

『ダイバーたちを殺ったのもこいつか……!』

 なるほど密猟は犯罪には違いない(そもそも龍一からして、他人を咎められる立場にない)が、悲鳴すら誰も聞いてくれない深海で怪物じみた鮫ドローンに五体を噛み砕かれるほどの罪科があるのかどうかはまた微妙なところではないか。

『〈蟹〉を引き剥がされたら終わりだ、注意を引け!』

 テシクが「万が一」に備えた装備──水中銃スピアガンを構えようとする。だが水中戦用に特化した鮫の方が遥かに速かった。長く太く強靭な尾鰭が一旋され、テシクの身体が巨人の手で薙ぎ払われたように吹き飛ばされる。

『くそ……!』

 マスクの中で歯噛みしながら、龍一は自分の腰の「万が一」を取り外す。こいつの扱いは正直慣れていないのだが、そうも言っていられない。

 鮫が大きく口を開く。まるでその距離から、龍一を一飲みできると言わんばかりに。

(何だ?)戸惑った龍一は、全身に違和感を覚えた。凄まじい勢いで身体が引っ張られる。それもあの鮫の方へ!

(まさか……!)

 鮫の暗い口の中で、水流を作り出すファンが高速回転している。しかもその周囲には、ぎらりと光るおそらくは金属製の歯。噛み砕かれるか、ファンに巻き込まれてずたずたにされるか、どちらにしても試したくはない。

 一瞬、死ぬのかな、と思った。奇妙なほど怖くはなかった。ただ先ほどテシクに問われた、あの答えを出さずに死ぬのかな、と思っただけだった。

 あいつ怒るだろうな。いや泣くのかな。……どっちにしても、嫌に決まっている!

『龍一、負けるな!』

 閃光と、鈍い衝撃波が海中を貫いた。必死で泳いできたテシクが投げた閃光手榴弾だ。自律行動か、それともオペレーターによる操作か、いずれにせよ鮫ドローンは確実に怯んだ。

 ここでは死ねない。まだ、死ねない!

『くたばれ……!』

 マスクの中で声にならない叫びを上げながら、龍一は手にした槍の柄のスイッチ──指向性爆薬の起爆スイッチを押し込んだ。


【同刻、みまなデータセンター玄関付近】

「いや、素晴らしいものを見せていただきました。社内で前向きに検討させていただきます」

「恐縮です。ご用命の際はぜひ当施設を」

 崇と広報、ビジネスマン同士の当たり障りのない会話を聞きながら、秘書然として済ましている夏姫は声を出さずに唇だけ動かす。──ゲームセット。

 不意に、ホール全体でざわめきが生じた。受付の女性まで、カウンター内の端末を見て口元に手を当てている。

「……失礼いたします」なぜか広報まで慌てたように、挨拶もそこそこにして引き返していった。

 歩きながら夏姫は横目になる。「何をしたの、望月さん?」

「さあな。施設内の全モニターに国防省大臣補佐と、統一朝鮮連邦訪日大使付き秘書の密会映像でも流れたんじゃねえのか?」

「オープン直後に災難ね……」夏姫は溜め息を吐く。信用第一の施設が、それも裏社会の情報を一手に扱う施設が一度毀損された信用を取り戻すには、少なくない時間と労力を──もしかしたら人命も──費やす必要があるだろう。


【同刻、未真名港沖合数キロの海面付近】

『龍一。龍一、聞こえるか?』

 テシクの声で龍一は目を覚ます。わずかな間だが気絶していたらしい。バラストは外されており、彼の身体はテシクとともにゆっくりと浮上していた。急速浮上しないのは潜水病対策だろう。

『……あいつは?』

『跡形もなく吹っ飛んだよ。よくやったな』

 笑おうとしたが、それもできないほど疲れ果てていた。緊張で感じていなかった寒気が耐えがたくなってきた。『なあ、テシクさん』

『何だ?』

『上がったら、あったかいもの飲んでいいかな……? コーヒーでも紅茶でも、甘酒でも……あったかいものなら何でもいい……』

 テシクは少し笑ったようだった。『いいぞ。マッコリでもウォッカでも、好きなだけたらふく飲ませてやる』


【翌日】

 翌朝、龍一は全身の痛みとともに目を覚ました。幸い、崇からは「今日は休んでいいぞ」と言われていた。どのみち、大して動きたくもなかったが……。

 さすがに何か食おうかと思い始めた時、枕元のスマートフォンが振動した。崇からだった。

『予定変更だ。今すぐ出る準備をしろ。十分後にお前を拾いに行く』

『第三次大戦でも起こりそうな勢いだな』

『考えようによっては、もっと悪い』崇の声にいつもの余裕がない。『例の抽出したデータ、一部だが解析に成功した。通話ログだ──だ』

 崇が「ご当主」と呼ぶ人間など、この世に一人しかいない。

 龍一の眠気と倦怠感は一瞬で吹き飛んだ。


(続く)

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