第7話

 問題はこんな時間までウロウロしていて、職場の人達に目撃されやしないかということだった。

 正直にそう言うと、凪は

「じゃあ、すぐ近くのお店にしましょう。学生がよく行くお店だから、社会人の人とか少ないし」

 そう言って、歩き出した。

「というか、あたしもいろんなお店知ってるわけじゃないけど…」

 独り言に近いトーンでそう付け加える。


 あまり表情は変わらないが、無愛想な感じも冷たい印象も与えない。淡々とした凪の口調も、むしろ愛凪の心を落ち着けた。

 しばらく黙って、凪と歩いているうちに、少しパニックになっていたかも、と気付く。


「愛凪ちゃん!」

 ふいに凪が振り向いた。

「はい」

 反射的に答えてから、名前は言ってなかったはずだと気付いて驚いた。


 微かに凪の口元に笑みが浮かぶ。

「思い出した。あたしの名前、凪って言うんだけど、同じ漢字使ってるでしょ。うちの妹の名前も同じ字を使ってるんだって、お兄さんが言ってたんですよ」

 ああ、兄ならそんな話もしそうだな、と思う。海人は男女関わらず、誰にでも気さくに話しかける子供だった。


「多分、5年生で初めて一緒のクラスになって、最初の会話がそれ。俺が妹の名前決めたんだって、自慢そうに言ってて…んと…印象的でしたね」

 最後の言い方に、小学生の凪がドン引きしている姿が浮かぶ。

 初めて喋る女の子相手に、妹の名前の話を滔々とする小学生の海人が容易に想像できて、愛凪は気恥ずかしくなった。


 愛凪がまだ母のお腹にいる頃から

「ここにいるの、あいなちゃんなの!」

 3歳の海人は、妹の名前は『あいな』だと言ってきかず、押し切られる形で両親は漢字だけを考えた…というのは高野家では何度も聞かされてきた話だが、学校でもネタにしていたとは。


「あ、ここ」

 5分ほど歩いた先のビルに、凪は足を踏み入れた。

 バーや居酒屋を中心とした、飲食店が入るビルだ。

 凪は何度か来ているらしく、エレベーターではなく、奥まったところにある階段へ向かう。2階に上がると、すぐ目の前のドアが目的の店だった。


 金曜の夜の割に店はあまり混んでいなかった。

 100人近く入れるであろう広い店内は青みがかった照明で満たされているが、それほど暗くはない。

 学生や若者グループが多く、静かにグラスを傾ける雰囲気、というよりは、ほどよくざわついている。


 案内された隣のテーブルの客はちょうど帰り支度をしていた。ほかのテーブルは少し離れているから、デリケートな内容の話には丁度いい場所だ。


「あぁ、ここ、あったかい・・」

 席に着くと、不意に気がついて、愛凪は大きく息を吐き、椅子に深くもたれた。

 緊張で寒さなんて忘れてきたけれど。肩や首筋の筋肉が緩んでいくのが分かる。

 ここへ来るまでほんのわすかな時間だったが、凪と話すうちに少し緊張はほぐれてきた。

(いい人そうだ…)

 と、思う。


 2人ともホットの烏龍茶を頼み、ツマミにポテトとチーズの盛り合わせを注文した。

 烏龍茶のグラスを両手で包み込むように、持ちながら、凪がチラリと視線をよこしたた。

「あの、それで、あたしの名前、どこで聞いたんです?」

 もちろん、答えなければならない質問だとは思っていた。

 愛凪が差し出した水色の付箋紙を、凪は不思議そうに覗き込む。

「実は…お兄ちゃん、1週間前から連絡が取れなくて」

 愛凪は意を決して話し始めた。


「お兄ちゃん、ウィンガーになって、トレーニングセンターに行くじゃないですか。その後からずっと向こうの学校通って、就職も東京でしたんです」

 凪は視線を付箋紙と愛凪の間で往復させながら聞いていた。

「区役所だったから…公務員になれて、よかったね〜って…言ってたんですけど、実は結構いろいろあったみたいで。体調崩して、1月にこっちに戻ってきたんです。それからはあんまり家からも出なくなっちゃって」


 間違いなく引き籠り状態だったけれど、そこまでハッキリ言いたくなくて、愛凪は言葉を濁した。

 凪は黙って烏龍茶を口へ運ぶ。

「でも、うちでは普通に話したり、たまに外食に行ったりもしてたんです。調子良くなったら、仕事も探さなきゃって、ホント普通に…」

 また、なにを言いたいのか分からなくなって、愛凪は一旦口をつぐんだ。


「なんにも言わないでいなくなっちゃったの?」

 凪がそう聞いてくれたので、愛凪は深く頷いた。

「私、今月から働き始めたんです。その…知り合いの人の紹介で。その仕事が決まったあたりから、なんだかちょっと…様子は変だったんですけど。1週間前に急に仕事見つかりそうだから、落ち着いたら連絡するって置き手紙残して…そこから連絡つかないんです」

 スマホも、パソコンも初期化された状態で部屋に残されていたこと、友人や知人の連絡先も、全て海人が廃棄してしまっていたことを付け足すと、さすがに凪も驚きを隠せないようだった。


「それ、警察には?」

「うちの親が…騒ぎ大きくすると、かえってお兄ちゃんが見つかった時、大変になるから、様子みようって言うんです」

 手のひらの中のグラスが、ぼやけそうになって、愛凪は慌てて目を瞬いた。

「そんな…もの、なのかな…ウィンガーって…よく…わかんないけど」

 凪の呟きは店内のざわめきと音楽に紛れた。


 そっと伸びた凪の指が、付箋の自分の名前を指す。

「で…これは?」

「あ、これは…部屋に落ちてたんです。昨日の夜見つけて。この付箋紙、私があげたんです。お兄ちゃんがいなくなる2、3日前に。だから、最近書いたメモだと思って…だから、もしかしたら、この人たちに何か連絡とってたんじゃないかって…」

 凪は怪訝そうな顔で自分の名前を見つめた。全く心当たりがないらしい。

 愛凪が言葉を続けられないでいると、

「この、他の人たちには連絡したの?この2人はー」

 凪が、下に書かれた2人の名前を指した。

2ー知ってるよね…?」


 その言葉に、愛凪はゴクリと唾を飲んでから頷く。

 最初の2人ー

 寺元信樹てらもとのぶきと、真壁和久まかべかずひさ


   **********

 今から9年前。絵州市内の小学校、5年生の同じクラスの男子2人が、同時に翼を発現した。それが、寺元信樹と真壁和久だった。

 もちろん報道では、絵州市内の小学生2人、と報じられただけだが、小学校内では全校生徒が、すぐに誰が発現したのか知ることとなった。なにしろ2人は校庭で、体育の授業の最中に翼を現してしまったのだ。

 同じクラスの子供たちはもちろんのこと、騒ぎに気がついた教室の子供たちも一斉に窓に駆け寄った。愛凪もその1人だったからよく覚えている。

「すごいぜ!!キラキラ〜ってしたら、フワーッてなって、バァーって!!」

 家に帰ってきた海人は興奮して、いつにも増しておしゃべりだったが、言ってること自体はよく分からなかった。


 結局、2人はすぐにトレーニングセンターに送られたが、何ヶ月かして戻ってきたらしい。クラスの子供たちも何事もなく受け入れたという。

 騒ぎはそれでいったん治ったのだが、その2年後、4年生になっていた愛凪の同級生の男の子がウィンガーとして保護された。彼は海人たちの小学校時代の同級生の弟だった。

 そしてその半年後、今度は海人たちの同級生だった女の子がウィンガーになった、とこれもまた海人が大興奮で帰宅した。

 マスコミが、絵州市内で立て続けにウィンガー現れ、その子供たちが同じクラスに縁があると書き立てたものだから、当時、学区内は騒然としていたものだ。

 その頃からだろう。寺元と真壁が『最初の2人』と呼ばれ始めたのは。

   **********



 愛凪はもちろん仕事柄、研修でも、それにまつわる話は聞かされていたし、この2人については海人にもよく話を聞いていた。

 2人が今も絵州市内に住んでいることも把握している。県内在住のウィンガーの名前と顔は覚えておくようにも言われていたから。

 そう、この2人に関しては連絡を取る手段がある。だが、新米の愛凪が、勝手に資料を見ることは躊躇われたし、誰かに知られた時に説明が必要になる。そのためにも、須藤に話を聞いて欲しかったのだ。ただ、凪にはそんなことはもちろん伝えられない。


「いえ、まだ…連絡先も分からなくて」

 グラスを握り締めながらそう言って、相手の様子を伺った。

 爪を短く切りそろえた、華奢な指先が名前をなぞる。

「3人とも市内にいますよ。連絡先は、本郷のしか知らないけど」

「え…」

「本郷って、ホンゴウソラヒコのことでしょ?」

 凪の指先が『本郷』と書かれた文字を叩く。

 愛凪は、今朝の母との会話を思い出した。



 もちろん、母も最初の2人の名前は覚えていた。女の子の同級生の名前はあまり覚えていない、と言いつつ

「…水沢さんは…うん、同じクラスにこういう名前の子、いたと思う。本郷…くん、そう、ほら頭のいい子で…」

 ほら、と言われても、愛凪は覚えてはいなかった。


「小学校から下ってきたところの、ガソリンスタンドからちょっと入ったところに、本郷医院ってあったでしょ。あそこのご親戚筋の子だって。お父さんも大学病院のお医者さんだって言ってたわ。親御さんとは喋ったこともないけど、教育熱心な方だったわよ」

 要するに、全くの庶民の愛凪の家とは違う家庭の子だ、と言いたいらしい。

「海人から、本郷くんの話なんてほとんど聞いたことないけど。あとの人たちも、親しくしていたお友達じゃないわ」

 それでも、メモの字は兄のものだ。

 これ以外に、手がかりがない以上、愛凪はこの水色の付箋紙にすがることにしたのだった。



「大学、同じだから…たまたま会って…」

 凪はあまり浮かない顔つきながらも、

「何か連絡ないか、聞いてみることもできるけど…」

「お願いします!」

 即答する愛凪に、仕方ないと思ったのか、あまり乗り気でない様子ながらも、凪はスマホを取り出した。

「返事、いつ来るかわからないから、愛凪ちゃんの連絡先、教えてもらっても?」

 電話をかける気はないらしく、メールを送った後、凪がそう聞いてくる。だが、愛凪が答える前に、バイブ音が鳴った。


 画面を見た凪は、なぜか眉を寄せて首を傾げる。

 どんなやりとりをしているのか、送受信を繰り返すたびに、凪の眉はどんどん寄って行った。


 一段落して、愛凪の方を見た顔はなんとも言えない表情をしていた。

「なんか…来るって」

「え…?」

「いや、お兄さんからはなにも連絡きたりしてないらしいんだけど、話聞いてみたいから来るって」

 意外な展開に、愛凪もしばし、どう応じていいか分からなかった。

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