第3話

 淡いピンクのシャツに黒のパンツ。

 これにジャケットを着ればいいかな。あ、でも今日の夜は歓迎会でいつもより遅くなる。コートを着て行った方がいいだろうか…


 愛凪の朝は仕事に着ていく服を考えるところから始まる。

 高校に通っていた頃は、制服を着ればそれでよかったし、バイトに行くときは普段着で済んでいた。

 お洒落に興味がないわけじゃなかったけど、高校を中退したことが母親に申し訳なくて、バイト代はほとんど母に渡していた。


「自分で働いたお金なんだから、必要なもの買って、残りを渡してくれれば十分」

 そうは言われたものの、今のところ何か買い物したい気分でもなかった。


 だが、就職して事情は変わった。

 表向きは警備会社の事務職、ということになっているが、実際は公務員だ。

 便宜上、年齢も実年齢より2歳上の18歳、ということになっている。

 子供っぽい格好で出勤するわけにはいかない。仕事が決まってから、何着か急いで買った服を着回してはいるけれど、未だにどういう服装で通勤したらいいのか悩んでいる。


 化粧だってそう。

 学校帰りにキチンとメイクをして帰る子もいたけれど、愛凪は大して興味がなく、就職してから母に教えてもらった。

 その母にしても、

「とりあえず、ファンデ塗って、眉毛描いておけば大丈夫」

 なんて感じの人なので、大人っぽい雰囲気にしたいなんて、娘に言われてもアドバイスのしようもないらしい。


 着替えを済ませ、化粧をする。今日はいつもより時間に余裕を持って支度ができた。

 机の上の水色の紙切れを手に取って、もう一度、自分の気持ちに念を押す。

 書かれた文字を、昨日から何度眺めただろう。


 階下からいつも通りの物音が聞こえる。

 台所では案の定、母が朝食の準備をしていた。


「おはよう。愛凪あいな、テレビつけて。今日の天気どうかな?」

 夜勤明けで、夜中に帰って来たとは思えない、爽やかな母の様子には、いつものことながら感心する。


「おはよ。ごはんくらい、自分で適当に食べるからいいのに…」

 リモコンに手を伸ばしながら、ちょっと不満そうな口調で愛凪は言った。

「んー、だって、決まった時間になると目、覚めちゃうし」

 絶対、ウソだ、と思う。

「無理しないでよ」

「無理してないって」

 このやり取りはしょっちゅうだ。


 母は元々看護師で、近所のクリニックにパートで勤めていた。

 三交替勤務の総合病院にこの年齢になってから勤め始めたのは、夜勤をするとお金になるからだ、とは言われなくても分かっている。

 去年の秋に高校を中退したことで、母にはかなり心配をかけた。そして、そこに兄も突然仕事を辞めて帰ってきてしまった。

 東京で就職していた兄の海人は、職場でいろいろあったらしく、心を病んでしまっていた。

 兄の生活費と治療費のためにも、母はより稼げる職場に移ったのだ。しかし、今までと違う、不規則な仕事は相当大変そうだった。


『フランス政府は、2年前パリで起きたテロ事件の首謀者として国際手配していたブラン容疑者をカナダで逮捕したと発表しました。ブラン容疑者はウィンガーとして登録されており…』

 テレビをつけると、ちょうど国際ニュースをやっていた。

「4チャンネルにして。三雲さんの天気予報の時間だから」

 確かにそれはいつも見ている番組だが、チャンネルを変えろ、というのはウィンガーのニュースを聞きたくないからだ、と愛凪は思う。

 はっきりそう言ったことはないが、いつもウィンガーの話題が出ると、母はチャンネルを変えてしまう。


「あのさ、」

 意を決して愛凪は切り出した。

「んー?」

 味噌汁をよそる手を止めず、母はのんびりと返事をする。

「もう、1週間になるよね」

 母の手が一瞬、止まった。

「このままにしてちゃダメだよ、お兄ちゃんのこと」

 愛凪の断固とした口調でにも、母は答えず、ただ、味噌汁のお椀を渡してきた。

 受け取りはしたものの、テーブルへは運ばず、そのままカウンターに置く。

 ポケットから取り出した紙切れをその脇に置いた。

 訝しげに愛凪を見てから、母親は紙片に視線を落とした。


 手の平サイズの、水色の付箋紙。そこには明らかに愛凪の兄、海人の字でいくつかの名前が殴り書きされていた。


「私、職場の人に相談してみる。何かあったからじゃ遅いんだから!これ以上、様子みるとか言わないでよ」

「でも…ね、愛ちゃん…」

「ダメ!」

 狼狽する母の言葉を愛凪は遮った。この1週間、そうやってズルズルきてしまったのだ。


「もう、待ってちゃダメだって!反対しても私、言うからね!」

 いつにない愛凪の剣幕に母は黙り込んだ。

 水色の紙片を母に突きつける。付箋の粘着部分はホコリが付いて捲れ上がっていた。

「これ、誰?教えて!」




 相談相手は決まっている。

 未登録翼保有者対策室の実動チーム、つまり隠れ天使を保護するためのチームリーダー、須藤誠次だ。


愛凪のシーカーの能力に最初に気付いた人物。そして、アイロウの支部長が自宅を訪れた日、愛凪の向かいにいた人物である。


アイドルかモデルといっても通用しそうな、キレイな顔立ち。だが、とりすましたところはなく、誰にでもフランクな話し方をする。身長があまりないのが惜しいところだが、普通に歩いていても十分目立つ容姿だ。

 最初に会った時も、そのカッコよさだけで愛凪はドギマギした。


対策室で働くことが決まり、彼が直属の上司になると知ったときは内心嬉しかった。

 恋愛感情とまではいかないが、とても魅力な男性だと思う。


 隠れウィンガーの調査・保護を行う実動チームは、須藤の他に男性が3人。

対策室内ではエル・チームと呼ばれている。

 3人とも一癖ありそうな様子は初日から分かった。

 愛凪と同様、本名は隠して仕事をしている。お互いも本名は知らないという。


「だから、アイさんも実名は明かさなくていいからね。もちろん、言いたければ言ってもいいけど、君の場合は世界的にも注目される能力を持っていることを忘れずに。情報を晒すことはリスクを伴うから。あ、ぼくは本名だけどね」

 須藤は爽やかな笑顔を見せながらそう言った。

 須藤は外見もだが、話してみると優しくて、ユーモアのある魅力的な人物だった。頭もよく、スタッフからの信頼も厚い。

 まだ、対策室に勤めて2週間ほどだが、愛凪は須藤に全幅の信頼をおいていた。

 更に、この1週間、ウィンガー保護に関わる須藤の姿を見て、その思いは絶対的なものになっている。


 人が須藤について問題点を挙げるとすれば、彼自身がウィンガーであること、だろう。

 一般の人々にとって『ウィンガー』は一時的とはいえ、高い身体能力を発揮できる夢のような存在であると同時に、人間離れした得体のしれない生き物だ。

 興味を持って近づく人間より、嫌厭し避ける人間の方が多い。

 だが、愛凪は前者だった。


 もちろん、兄がウィンガーであることもあるだろうが、愛凪はもともとウィンガーに憧れを持っていた。それが、須藤の、その仕事ぶりを見て、今は尊敬の念さえ持っている。

 兄のことを相談するのに、須藤以上の相手はいない。


 問題は他のスタッフのいないところで須藤を捕まえられるかどうかだった。

 先週末に2人のウィンガーを保護したのが愛凪の初仕事だった。更に、彼らの関係者として対策室を訪れた男性をウィンガーだと見抜いたことで、一つの案件で3人のウィンガーを保護することとなった。

 初仕事としては上々の滑り出しと言える。


 保護したウィンガーは全員、手続きを踏んで自国へ送還したり、トレーニングセンターへ送致したりと、エル・チームの仕事としては一段落しているが、まだ報告書類を作成したり、残務整理がそれなりに残っている。

 当然、それらも愛凪には初めてのことで、頭の中はいっぱいいっぱい。

 加えて須藤も上の人や警察関係者との話し合いがあるらしく、午前中はほとんど姿を見せなかった。


 表向き、警備会社ということになっている、エル・プロテクトのオフィスは対策室の一つ上の階にある。しかし、研修段階でもある愛凪は、普段は対策室のフロアにいることが多かった。

 今も、情報処理部のチーフ、三嶋あかりの隣で必死にメモを取っている。


「…で、ここでパスコードを入力すると、この画面になって…ここ、クリックすると一覧が出るの」

 キリッとした顔立ちに、ショートカットがよく似合うあかりは、チーフと言ってもまだ20代と思われる。

 エル・チームの所属ではないが、対策室からの情報をチームへ伝える責任者のような立場になっているらしく、エル・チームにも頻繁に顔を出していた。


「うちのチーム、女性がいないからね、彼女に教育係をお願いしてあるから。しばらくは彼女にいろいろ教わって。諸々の事情も把握してらから、遠慮なくなんでも相談するといいよ」

 須藤からそう言って紹介されたあかりは、スレンダーな体型の美人で、いかにも仕事の出来る、手厳しい女性に見えた。


 確かに仕事に関しては細かく、キッチリしている。だが、仕事の合間にもちょくちょく世間話をしてきたり、時々、チームのメンバーをからかったりと、思ったより気さくな人柄だった。愛凪の兄のことや、実年齢を把握していることもあってか、いつも頑張りすぎないようにと、声をかけてくれる。


 ふと、須藤が捕まえられなければ、彼女に相談してみてもいいのではないか、と愛凪は考えた。むしろ、2人だけで話す時間を作りやすいのはあかりの方だ。

 仕事柄、市内、県内のウィンガーに関する情報を集める手段だって知っているだろう。


 それに…ロッカー室や、昼食時の雑談で小耳に挟んだところでは、須藤とあかりは付き合っているらしい。

 確かに、須藤はあかりのことだけ、名前で呼び捨てだし、あかりもなんだかんだとエル・プロテクトのオフィスに来ていることが多い。仕事の話をしている時でも、よく息が合っているな、とは思っていた。


 よし、昼休みにでもタイミングを見計らって…という愛凪の意気込みは、もうすぐ正午かというところで、突如鳴り響いた非常ベルの音で打ち砕かれた。

「!何?状況確認をー」

 あかりが言い終わる前にー

 バチン!!

 室内の電源が全て落ちた。

「え?!停電?!」

 愛凪は思わず裏返った声を上げ、部屋を見渡した。


 職員は皆どよめいている。

「とりあえず、作業中のデータ、保存してくださいね!」

 あかりは素早く指示を出しながら立ち上がった。

「アイちゃん、ちょっとここいてね」

 そう言って、小走りに出て行ったあかりだが、その後なかなか戻って来なかった。






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