短編 雨に色がついたら
「サッカーなんで辞めちゃったのよ」
雨粒が窓に垂れている。曇天が校内をも暗くする。白い蛍光灯が僕たちの影を作る。
僕はその問いに答えずに、校舎B棟1階階段脇、掃除用具ロッカーとその奥には段ボールが所狭しと敷き詰められている場所で白黒のサッカーボールを地に付けないように足の甲、いや、ほぼつま先で宙にとどめ続ける。
「無視しないでよ」
2段目に腰を下ろし、右手で頬杖をつきながら目を細め、唇を尖らせている。
いつもは綺麗に揃い、黒光りしているボブが湿気の影響だろうか、パサついている。
「答えたくない」
足甲の外側、いわゆるアウトサイド気味にボールを力強くこする。強烈な回転がかかったボールを右足が時計回りにまたぐ。
落ちる寸前にボールを掬い取る。
「そんなボールタッチできるのに……」
「こんなのは特別な技術でもなんでもないんだよ」
「嫌気がさしたなんて嘘じゃない」
当たり所が少しずれる。
ただ、こんなことではボールは落ちない。
「……嘘じゃない」
「もっとましな嘘のつきかたをしなさいよ」
まただ。
今度はボールの中心から外れたところを捉えたみたいだ。
まだ、落ちない。
いつからだ。
リフティングの回数を数えなくなったのは。
始めた頃は毎日毎日家の前でひたすらリフティングをした。
毎日1回ずつ増やそうとした。たまに2回、3回と増えた。最高記録が毎日毎日更新されていった。
それと比例して、サッカーにますます熱を入れるようになった。
ボールを掬い上げる。
落としても。
落としても。
落としても。
それを手で拾って、また宙に蹴り上げる。
落としても。
落としても。
落としても。
ただひたすらに回数を数えた。
足首を覆う白い靴下が黒くなる。
始めたころは足と足首のつなぎ目でリフティングをしていた証だ。
ボールは友達。
そこまではいかないだろうが、家の中でもリフティングをした。
金魚の水槽と神棚がある和室でボールを宙にとどめようとしていた。
よく怒られた。
うるさいと。
よく怒られた。
襖にぶつけるなと。
やがて怒られなくなった。
それは今と同じようにつま先で安定してコントロールできるようになったからだ。
ただひたすらに回数を数えて、昨日の自分、一昨日の自分、一週間前に自分を超えるために回数を数えて、ただボールだけを見つめて、最高記録が近づくと心臓が急にどくどく動き出して、急にボールが言うことを聞かなくなって。
陽が落ちて、ボールが見えなくなった。
外灯が照らす半径2メートルほどの光の円のなかで続けた。
リフティングをしている時は宿題もおやつもゲームも好きな子のことも頭から消える。ただ回数だけが僕の頭を支配する。
リフティングの回数でスタメンとベンチメンバーを決めることになった。
チーム内でサッカー歴が1番短い僕には絶好のチャンスだった。
回数を数えなくなった。
リフティングは安定するようになった。
やろうと思えば何回でもできそうなくらいには。
試合に出るようになってからリフティングをやらなくなった。
試合で活躍するために、勝つために。
必要なことが変わった。
僕も成長したってことだ。
キャプテンになった。
キャプテンマークが左腕を締め付ける。
それが誇らしかった。
順調そのものだった。
高校でもサッカー部に入った。
小中のチームメイトかつ先輩も同じ高校だった。
先輩の誘いもあり、合格が発表されてから入学式を待たずに練習に参加することになった。
通用する。
強がりでもなんでもなくそう感じた。
油断したわけじゃない。
ただ1つ違っただけだったんだ。
相手のゴールキック。
ボランチの僕は空中で競り合う機会は多くなる。
跳んだ。
けど、ヘディングをする前に僕の体は落ちていた。
背後は無防備だった。
ちょっとの違和感だった。
ただ相手FWの膝が腰に入っただけ。
痛みはないと言えば嘘だった。けれど筋肉痛みたいなものだった。
けれど悪魔は隠れていたんだ。
いや、僕が自分で大きくしていたんだ。
2ヶ月後。
ベッドから起きれなかった。
左足に感覚がなかった。
自転車はこげるのに、走れなかった。
長い治療期間が続いた。
プレーできない間はマネージャー業に専念した。
ドリンクを作り、マーカーを片付けて、置く。
合間にできる筋トレ。
ずっと続いた。
リフティングをした。
回数は数えなかった。ボールを蹴り上げるたびに涙がこぼれそうになる。
左足と腰に電流が走る。
もうリフティングさえもできなくなっていた。
半年後の新人戦。
復帰できた。
ピッチにもう踏み入れる足は震えている。
右足を踏み入れる。
鳥肌が立った。今でも覚えている。
10月になったのに。まだ走っていないのに。
汗が噴き出た。
雨が降ってきた。
サッカーはちょっとやそっとの雨じゃ中止にならない。
人工芝に水滴がつく。
いや、そんな可愛いもんじゃない。
相手のゴールキック。
乗り越えるなら今しかなかった。
神様は乗り越えられる試練しか与えない。
なら神様なんてもう信じない。
雨は降っていてよかった。
僕をごまかしてくれたから。
気付いたらボールが落ちて、転がっていた。
スカートが翻る。
パサついているとは言えど綺麗なボブが揺らめく。
スカートを折り込み、しゃがんでボールを拾う。
「嫌気がさしたならリなんでフティングするのよ」
全身から力が抜けたように僕もその場に座り込む。
「リフティングだけは裏切らないって思ってただけ」
人の少ないB棟に僕の声と雨音だけが反響する。
リフティングをしている間はボールと回数だけを頭が支配していた。
けれど、今の僕を支配するのは痛みと後悔とやるせなさと行き場のない怒り。
ボールを宙に上げ続けてももう逃げられない。
「雨脚弱くなったかもね」
天井を見上げる。
涙が出そうになる。
蛍光灯がまぶしいから。
悲劇のヒロインぶってるだけなのかもしれない。
雨の日は古傷が疼く。
こんな結末になることを知っていたらサッカーをやらなければよかったのだろうか。
そんなことも決断できない僕に嫌気がさす。
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