満つる月

 ステップに足を乗せ、ゴンドラに入った。振り向いて、右手を伸ばすと、彼女はそれに捕まって乗り込んだ。触れた左手はひんやりとしていて、乗り込んだ瞬間わずかに鼻先を掠めた髪からは三日月の匂いがした。

 遊園地に来た。初めて来た。

 きっかけは手紙だった。バイトの帰り、家の郵便受けを開けた時、チラシの山の上にそれはあった。

 中には手書きの文字で日時と集合場所を書いた便箋と、一人分のチケットが同封されていた。

 明らかに怪しさしかなかったが、その日ちょうど暇だったのと、手紙の文字から、もしかしたら可愛い女の子かもしれないという小さな下心から行くことを決意した。

 今、真横に座っている女性を見てみた。

 夜みたいな人だと、直感的に思った。静かで、冷たくて、艶のある人だった。

 目は合わない。長い黒髪と漆黒色のマフラーによって顔の大部分が隠されている。時々、刺繍糸のような髪から、真黒な瞳と対照的な真白の肌が覗く。ただそれだけ、それだけで彼女は僕の視線の全てを支配した。

 その場にいる人全てが浮かれているこの遊園地で、その人は沈んでみえた。

 コウンコウンと、ゴンドラの内を観覧車の駆動音が満たす。何度か会話をしようと口を開いたが、伏し目がちな彼女の横顔が目に入ると、途端に喉はその門を固く閉ざし、僕は口をぱくぱくさせるしか出来なくなってしまう。そうして、一度も会話しないままもうすぐ三分の一というところまで来てしまった。

「少し――後ろを向いていて」

 僕はぎょっとして彼女の顔を見た。初めて目が合った、やっぱり目は黒かった。

「わかりました」

 なんで、と理由を尋ねる前にあんなに固かった喉をこじ開けて言葉が飛び出した。彼女は頬を紅潮させてゆっくりうなづいた。僕は操られるように彼女に背を向けた。

 窓から見える景色はいつもの視点から見るよりずっとちっぽけで、現実感のない眺めだった。僕はどうして後ろを向いているのだろうとぼんやり考えた。普通、観覧車に乗った男女は窓から望む、普段見ることの無い特別な景色を共有して談笑するものなんじゃないか。

 不満そうな雰囲気が彼女に伝わっていないか心配になって一瞬振り向きそうになった時、スルスル、と衣擦れの音がした。音の方向は背後から――彼女のいる方からだった。音のした後、次はパサ、という音がした。明らかに衣服の類が床に落ちた音だった。

 彼女は何をしている? 僕は背中と耳に神経を集中させた。最初に音がしてから、同じようにスル、パサ、と音がし続けた。時々、カチッと金具を外すような音や、彼女の漏らす息遣いが聞こえた。

 彼女は服を脱いでいるというのか。僕の後ろで知らない女がその月を顕にしているのか。僕は真実をたしかめようとせずにはいられなかった。しかしそんな衝動とは裏腹に、僕の首は、背骨は、固まってしまって動かない。ずっと窓の外を見続けているだけだ。その間にも背後では服が床に落ちる音がしている。ふわりと満月の香りがした。

 会話は一切発生せず、ただ観覧車が動くコウンコウンという音と、衣擦れのスルスルという音がゴンドラ内に響いた。頂上に達する。

 頂上に達した時、後ろでしていた音が止んだ。それすなわち彼女の作業が終わったことを意味しているのだと思った。つまり今彼女は――、ゴンドラはさっき僕たちがいた所に向かって下降を始めた。

 もし、僕の推測があっているとしたら、背後にいる女が何も着ていないのだとしたら、このまま降りてしまって大丈夫なのだろうか。その考えに至った瞬間、僕の緊張も頂上に達した。

 この状況かなりまずいとは思ったが、僕にこれから起きうる最悪の事態を阻止する手段はなかった。

 指先が震え出した僕を嘲笑うかのように観覧車はお決まりの音を立てて回り続ける。そして依然として背後で動く気配は無い。

 ついに四分の三も回ってしまった。視点がいつもの高さにぐんぐん戻り始めている。

「ねえ、」

 不意に、耳元に息がかかった。あまりの近さに身を引いて振り向きそうになってしまった。

「だめ」

 彼女が僕のこめかみを指で抑えた。たった一本の指で押されただけなのに、僕はそこから先に首を回せなくなってしまった。途中まで振り向いた視界に彼女が少し映った。乗り込む時、全身に纏っていた黒は全て剥がれ、月のように白く、川のように滑らかな肌が太陽を反射して光っていた。その姿は黒に包まれていた時とは違う夜を感じさせた。客観的に見れば今までで最もエロチックな姿だったはずが、そのあまりに神秘的な美しさに僕の下心は全て洗い流された。

「どうしようか」

 彼女の声が頭にスーッと差し込んできて、くらくらする。どうしよう、って分からない。

「見たい?」

 もう何も考えられない。もうすぐ地上に着いてしまう。このままではいけないことだけはわかっていた。だけど動けなかった。

「はァ、つまんない」

 声が急に低くなった。耳元から彼女の唇が離れていった。冷たく切ない、新月の匂いがした。しばらくして、素早く服を着る音がした。

「もう、いいよ」

 僕の身体が金縛りから開放された。バッと振り向くと、初めと変わらない姿の彼女がいた。違うのは、その目が僕を見ていることだった。

「ありがとうね。」

 そう言って首を傾げた。表情は何一つ変わっていないのにどこか柔らかくなったような気がした。

 ゴンドラが地上にたどり着いた。

 彼女はひらりと音もなく降り立った。振り向いて左手を差し出してきたので、僕は右手を伸ばして掴んだ。触れた左手はひんやりとしていて三日月の匂いがした。

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