朝と夜
街灯がぼんやりと姿を現すのを感じた。セピアと浅葱の色の二つの光が俺を目覚めさせようと照らす。
俺は太陽が沈む速さで目を開いた。月はいつもにも増して青白く、街灯とは対照的な眩しさを演出している。
視線を“彼女”に向ける。真白な彼女に。
「私に何も見えません。だけど貴方がいることはわかるのです」
「そうか、俺もわかる。俺には君が見えているのだ」
そう、俺には見えている、白き蕾の君が。朝顔の花の君が。夜顔の俺がいくら花弁を目一杯見せつけようと彼女が知らん振りを決め込む。
いや、実際に見えてなどいないのだろう。その顔は先刻からずっと閉じているのだから。
俺は月光に彩られた君の蕾の内を知りたい。それは一種の下心を孕んだ好奇心。
「君は何時か顔を開くのだろう?」
「ええ。けれどその頃には貴方が盲なのでしょう?」
その通りだ。俺明日の朝はもしかしたら、──叶ったことは一度もない。月が沈みつつあることに気づくと、暗幕が切って落とされたかのように、俺から視世界が奪われた。
今夜の花がしぼむ。盲だ。
瓦屋根がきらきら光って、私に朝日の訪れを教えてくれました。数分後、朝日がぐぐぐと質量を持った速さで昇ってきました。
私の花びらが開きました。夜顔の彼は
「貴方の顔が見えました」
「そうか、俺にはもう見えない」
「盲ですものね」
「ああ、盲だからな」
そう言って夜顔の彼はゆらゆら笑いました。夜の艶を感じさせる彼の口ぶりに私の心もゆらゆらしてしまいます。
朝日が定位置まで来て、やっと熱を私たちに振りかけはじめました。
夏色のひかりが彼を照らしています。そうすると夜顔の白が一層映えるのです。私はそれをうっとりとして見つめていました。しかしそれを目の前の貴方に見られることはありません。貴方が盲で少しだけほっとしました。
「どうかしたか?」
私が笑みを返さなかったことが心配になったのか、夜顔の彼はやや不安げに尋ねてきた。
その様子がなんだかいじらしくて、私は少しだけ黙ってみました。
彼はなんだか所在なさげにして見えない私の顔色を伺っているようでした。
「どうかしたんですか」
会話が続かないので返事をすると、彼は安心したような空気を出しましたが、いや、なんでもない、と強がっていました。
「君にはこの空が何色に見えているんだい」
私は空を見上げました。焦げそうなほど暑い日差しが光合成を促してきました。何色だろう。真上まできている太陽は黄色や橙色を超え、もはや白くなっています。雲ひとつない空は――
「淡青……。涼しげで、とても綺麗な」
「君のようだな」
彼が一言呟きました。どこまで行っても終わりのない空の色、夜顔の彼にそう言って貰ったのが嬉しくて、彼には見えていないのに咄嗟に視線を逸らしました。
「そう、ですかね」
「そうだとも」
今度は真正面から言葉を放ってきました。
彼がそういうのならそうなのでしょう。
突然、紅い光の矢が飛んできました。もう夕暮れ時だったのです。
終わりです。また一日、夏を消費しました。
今朝の花が萎みます。盲です。
きっと俺は、白き蕾の君の引力から逃れられなくなってしまっている。
今夜もやっぱり彼女は花弁を閉じていた。
「君の、花の色はどんな色なのだろう」
俺のふと浮かんだ疑問を聞いた彼女は少し不機嫌そうに答えた。
「青です」
「青か」
「ええ、平凡でしょう」
平凡と言われても、俺は君以外の色を知らないのだが。
そうか、青色なのか。普段の白い蕾からは想像もつかなかった。
「貴方は何色なのですか?」
「ああ、俺は赤だ」
そう言って辺りを見回してみる。俺以外の夜顔は白、白、白。俺だけが赤い。そのせいだろう、夜顔達は俺とは話さず、ただ時々ちらりとこちらの様子を伺ってくるのみであった。
「赤ですか。羨ましい」
羨ましいだって? そんな。こんな異端な色であることが? と思ったが、そうだ、彼女も俺が思ったようにほかの夜顔を知らないのだ。俺は少しその無知を欲しいと思ってしまった。せめて俺と同じ色の者が一人でもいてくれれば報われるのだがな。
朝顔が続けて言葉を地面に吐露した。
「私も、赤や紫などの色だったら良かったのに」
俯いた蕾の隙間から、淡青が覗いた気がした。
だがしかし今日も蕾の君の顔は見られない。今夜の花が萎む。
今朝の花が萎みます。今夜の花が萎む。
萎みます。萎む。萎みます。萎む。
日を追うごとに、一夜一夜を燃やす事に、白き蕾の君への気持ちが強くなっていく。そうして否応なしに俺の視世界に突きつけられていく。今朝という瞬間が今日も終わったことを。
一日ごとに一輪、また一輪と萎みます。砂時計のように可視化された命の秒読み。私に残された花もあと少し……。
夜顔の彼の眩い寝顔を見られるのも、僅かとなってしまったのです。
「私は、次の朝が最期の花です」
蕾の君が口にした言葉。俺がずっと避けてきた言葉だった。俺は咄嗟に、ああ、としか言えなかった。
生ぬるい静寂が二人を包む。息を吸うごとに自分の中身がその重たい空気と入れ替わって動かしにくくなるのを感じた。
彼女は寂しそうに俯いた。わかっている。俺がどうすべきなのか。俺がどうしたいのか。
「貴方には、立派な蔓があるでしょう」
あるともさ! 俺は叫びたくてたまらなかった。
その可憐な身体を、陽光と共にふわぁっと開くだろうその花を、白き蕾の君を構成する全てを、この蔓を以て抱きしめて感じてみたいのだ。だが、
「君の全てを我が腕の内に収めるにはあまりにも頼りなく細いのだ」
声が震えてしまう。そこで俺は気づいてしまった。自分の心を。
「ならば、私が共に参りましょう」
芯のある声だった。その声には希望が詰まっているようにも聞こえた。
その瞬間、俺には白き蕾の君が女神のように思えた。
気づくと、する、する、と俺の蔓が白き蕾の君へ向かって伸びていた。彼女の蔓も俺の元へ伸びてくる。
二本の蔓が触れ合った。触れ合った二人は、触覚を頼りに絡まりあって巻きあって。一本の太い蔓になった。
また二本、また二本とひとつに成っていく。二つだったものはひとつになった。
朝と夜が交わった。
朝になると、蔓の絡まった一株の朝顔が咲かせていた。しかし不思議なことに絡まった蔓の内側には夜顔がまだ咲いている。夜かと思っているのだろうか。
朝から夜、夜から朝は見えない。だが、どんな顔をしているのかお互いはっきりわかっている。だって、その花弁に同じ紫を宿しているのだから。
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