僕の夏
昔、僕は夏が好きだった。
なんでかって言われたら、理由はいっぱいある。虫取りとか、川で冷やした野菜とか、手持ち花火とか。
一番はって聞かれたら、僕は顎に手を当ててからこう答えるだろう。
僕はね、蚊帳の中で寝るのが一番好きだった。って。
別にいつも答えを用意してるわけじゃない。けど、どんな時でも僕はこの時間が大好きだったことを覚えている。
大概の人はどうしてとか、よく分からないって言うんだよ、若い子は特に。あ、今若い子ってくくったらまずいんだっけ。ごめんごめん。
でもわかんないかな。言ってすぐまたくくって悪いけど、僕と同世代の人達なら感じたことある感覚だと思うんだ。
あの、世界が区切られる感覚。自分のいる場所がなんだか特別に感じられる時間、体験。
物心ついた頃、僕は両親と兄貴、四人同じ部屋で寝ていた。部屋数の少ない家だったからね。子供部屋なんてなくて、寝る部屋も居間のちゃぶ台をたたんで布団を敷き詰めただけの部屋。
今となっちゃ、子供のプライベートだかプライバシーだから守られる世間になってるけど、あの時はそんなことだーれも意識してなかった。
朝も、昼も――学校の時は別だったけれど――、夜も、すぐ傍に血の繋がった誰かが居たもんだった。
それ自体に疑問を持ったことは一度もなかったけれど、小さいながらに心にくすぐったい気持ち悪さを覚えたことが記憶に残っている。そんな僕にとって蚊帳は救いのようだった。
夏――薮からジーワジーワと声が聞こえるようになると、僕と兄貴の寝るスペースに蚊帳が吊るされた。すると、広い正方形の居間に二回り狭い空間が生まれる。
時としてそこは自分たちの部屋となり、時として合体ロボットのコックピットとなり、時としてプロレスのリングになった。最高の遊び場だったんだ。
もちろん、蚊帳なんだから外から内側が見えるし、逆も然り。
だけれど僕ら二人は喜んだ。その時の僕らにとって自分専用のなにかは喉から手が出るほど欲しかった。擬似的にでも、それをもたらしてくれる蚊帳は決して広いとは言えない家の中の小さなオアシスだった。
僕が中学に上がる頃に団地へ引っ越して、いつしか蚊帳を使わなくなった。それに兄貴が家を出たのと同時に自分の部屋も与えられて、蚊帳を吊るされたとしても昔ほどの特別感を得られることはなくなった。
けれど、僕は夏になる度に、蚊帳の中の湿った暑さと停滞した空気のことを思い出す。
現在――僕は妻と子供ができて、あの頃とは違う家に暮らしている。寝る場所も僕と子供は別。
今年も夏になった。僕は妻からの「虫除けあるんだからいいじゃない」という小言を食らいながら子供たちの部屋に蚊帳を吊る。
好きだった夏の時間を思い出して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます