第19話 斉景長公主
振り返ると黒衣をまとった人物がこちらを凝視していた。顔を覆う黒絹の面紗のせいで視線は分からないが、おそらく雪玲の手元を見ていることは気配でわかった。
「それには毒があるから触らない方がいい」
雪玲が聞こえていないと思ったのか黒衣の人物はまた同じ言葉を繰り返した。
「そうですね、鈴蘭は可愛らしい見た目ですが有毒植物です。茎や花びら、根っこ、全てに毒があります。けれど、触れても摂取しなければ問題にはなりません」
追記すると鈴蘭程度の毒を摂取したぐらいで体調を崩すほど雪玲も柔ではない。毒耐性が低いといっても毒鳥である鴆と長年連れ添ってきた董家の血を引いているのだから。
「毒があると分かって触っていたのか?」
「興味がありましたので」
「興味だって? ……ああ、君が噂の鴆姫か」
「鴆姫ですか……。確かに鴆の生態を調べていますが……」
まさか鴆姫とあだ名されているとは思わなかった。納得のいかないあだ名に雪玲は口をへの字に曲げる。その形相が面白かったのか黒衣の人物はどっと笑い出した。
「ははっ、すまない。鴆を好き好んで調べるなんて、変わり者だと思ってね」
変わり者と小馬鹿にしてる余韻はない。それどころかどこか嬉しそうに軽やかな足取りで雪玲に近づいてきた。
「私も鴆が好きだよ」
地面に膝をつくと手袋がはめられた手で鈴蘭を優しく撫でながら、まるで悪戯を打ち明けるように囁いた。
「斉景長公主様もですか?」
「私を知っていたのか。……まあ、こんな格好だから目立つだろう」
斉景長公主——彩妍は袖を引っ張りながら自分の衣装を見下ろした。宵闇で染めた襦裙に黒絹の面紗を着用した姿は確かに後宮では目立つ。
「すまないな。火傷痕が酷くてね」
「いいえ、失礼なことを……。火傷は大丈夫ですか?」
「ああ、まあ、もう五年も経っているからね」
彩妍は袖を捲ってみせた。白い肌には赤くひきつった痕が刻まれている。
「寒い時、痛んだりしていませんか? 汗はきちんと流れてますか?」
「大丈夫だよ。全身に負ったわけではないからね。まあ、冬場はやっぱり痛むかな」
「寒いと皮膚が引っ張られますからね。火傷痕に利く軟膏があるのですがご用意しましょうか?」
「心配いらないさ。私には優秀な侍医がいるからな」
彩妍は背後を振り返った。その視線の先には顔や腕を包帯で隠した優男が静かに立っていた。
「
「まあ、董家の」
雪玲はまじまじと文瑾を見つめた。年は三十を少し過ぎた頃だろうか。成人してから宦官になったのかしっかりとした体付きをしている。
(お父様の、ということは私と会ったことあるのでしょうか?)
父は成人済みの人間しか付人にしなかった。毒を溜めて排出できるという稀有な体質を持っていることから体が成長しきっていない青少年を側に置くことを嫌がったからだ。
(二十過ぎで、医官志望の男性ですか)
文瑾から鈴蘭に視線を戻すと記憶に残る人物と照合するか考える。顔の大半を隠す包帯のせいで人相はよく分からないが、幼い雪玲に会ったことがある可能性がある。ならば、用心すべきだ。
「彼らは独特の医学を持っていると父から聞いております。でしゃばった真似をしてしまいましたね」
「いいさ。この痕を気にする者は多かったが、まさか薬を用意すると言ってくれた人間は初めてでね。少し嬉しかったよ」
「実は董家に憧れていまして、軟膏や飲み薬など自作しているのです」
先程の彩妍を真似して、雪玲も小声で耳打ちした。
「おや、それも同じだ」
「あら、斉景長公主様もですか?」
「長いだろう。彩妍と呼んでくれ。君は……」
「私は美人の妃位を授かりました、鳴春燕と申します」
「ああ、楽にしていいよ。そんな仰々しくなくていい」
「ええ、ではお言葉に甘えさせてもらいますね」
「君に会えるのを楽しみにしていたよ。春燕」
「こちらこそ、瑞王様に斉景——えっと、彩妍様がご協力してくれるって聞いてて」
「様付けはしないで欲しいな。君とは仲良くなれそうだし、是非とも彩妍と呼んでくれ」
「彩妍、……緊張しますね。まるで友達のようで」
今まで友と呼べる人間はいなかった。周囲にいたのは使用人や取引相手などの大人ばかりで、年が近い相手は近所に住む婚約者と弟だけ。婚約者といっても病弱なフリをしていたため、ほとんど会ったことはない。
だから、こういう時、どう接すればいいのか雪玲には正解が分からない。
「友達になれたらいいと私は思っているよ」
嘘が混じらない真摯な言葉が眩しくて、雪玲はつい視線を反らしてしまった。気のせいか頬が熱い。
「友達、とは初めて言われて……。私なんかと、なりたいと言われたのは、その、初めてで……」
視線を彷徨わせながら、どうにか会話を続けようとする。意識しすぎたのか
もっと彩妍と話したしたいのに上手く話せない。
「私も初めてだよ」
「彩妍、も、ですか」
「ははっ、ゆっくりでいい。立場もあるし、呼び捨ては難しいかな」
「……すみません」
「謝る必要はない。私も長公主という立場から友と呼べる人間はいないんだ。信用がおける乳母達は火事で死んでしまってね……」
翔鵬が言っていた。慕っていた人間達は火事で亡くなったと。
(新しく付けられた侍女の方々は瑞王様に気に入られることばかり考えているようですし、確かにここでは信用できる人間はできなさそうです)
本来、侍女とは主人の身の回りの世話をするために存在している。主人より華美に着飾ることはなく、補助者として立ち振る舞うのだが、先程、会った彩妍の侍女達はまるで妃嬪のような豪奢な装いをしていた。
「私の侍女達を見たかい?」
「ええ、とてもお綺麗な方ばかりでしたが、侍女というよりお妃様のようでした」
「まあ、家柄を見れば妃になってもおかしくはない子達だからね。兄上が私付きにするなら、と家柄と容姿重視で連れてきたんだよ」
翔鵬ならやりそうだ、と思った。
「兄上が来るからか今朝から
「化粧殿に?」
化粧殿は身支度をするために使用されるが、使用が許されているのは妃嬪のみ。長公主付きといえ侍女は使用できないはずだ。
「私が化粧しないから、着飾りたいんだろうね」
「ですが、それは立場的に問題では?」
「一度、やんわりと指摘はしたんだが〝わたくし共が綺麗になれば長公主様も自慢できるかと思いまして〟と言われてしまって……」
「意味が分かりません。それは関係ないと思います」
「……君、ずばっと言うな。見た目と正反対で驚いたよ」
彩妍は吹き出した。恥ずかしいのか堪えるようにうずくまるが小刻みに肩が揺れている。
「君とは本当に、いい意味で親友になれそうだ」
「私も、そうなれると思っております」
「ああ、なれるさ」
彩妍は立ち上がった。
「ねえ、春燕。一つ、聞きたいことがある。鴆姫に会ったらぜひ聞こうと思っていたことだ」
「はい。なんでしょうか」
「君は董家のこと、どう思う?」
「そうですね……」
雪玲は押し黙る。まさか董家のことを聞かれるとは思わなかった。
(どう思う、と聞かれましても困ります。私は董家は間違っていないと信じていますもの)
しかし、世間では董家は先代である瑞王を毒殺したことになっている。
(そう、先代。——
実父を殺した相手を擁護すれば彩妍の機嫌を損ねてしまうかもしれない。それどころか翔鵬に報告されて、処罰を受けるかもしれない。下手な受け答えはできない。
「別にどんな回答でも怒らないさ」
「……分りません」
雪玲はまつ毛を伏せた。
「瑞王様の毒殺を企てたのが真実ならば、断罪されてもおかしくはありません」
「……そうだね」
「けれど、鴆を扱えるのは董家の者だけです」
「ああ、こんな小国である瑞が大国に渡り合えるのは鴆毒があってこそだった」
鴆毒で築いた富のお陰で瑞国は世界に渡り合えるだけの武力を有しているが、失くなるのも時間の問題だろう。富が無くなり、武器を購入できなければ、いずれ大国に飲み込まれてしまう。
「鴆毒で作られる薬が入手できなくなったことも問題だと思っております。鴆薬は、今まで不治の病と言われていたものも治すことができました。それを作れなくなって、亡くなった方は多くいたはずです」
「鴆薬が無くなって、悲観に暮れる者は多くいるはずだ」
悔しそうな口調で彩妍は同意した。
「兄上の機嫌を損ねないために口には出さないが鴆薬が無くなり、家族を失った者はこの宮城にもいる。董家が無くなったことでいずれこの国は崩壊すると私は思っている」
「崩壊……」
「君もそう感じ取っているはずだ。今はまだ平和を維持できているが、それもいつまで持つか分からない」
彩妍の言いたいことは理解できた。
(いえ、よく分かっていました)
父が瑞王から叙勲された太鳴という官職は、三公——太師、太傅、太保と同等の地位だ。天子たる瑞王の側仕えであり、その天道を妨げるものを排除する役割を持つ。
この太鳴の席を作った三代目瑞王は董家の利用価値に早々気づいていたようで、まだ毒耐性が未熟な董家の姫を妃に迎え入れ、血縁関係を結び、鴆を飼育するための土地と財を与えた。
(そう、三代目は董家を手放さないために。瑞国の平和を維持するために、私達を抑止力としていた)
抑止力を失った瑞国は、
(まあ、瑞がどうなろうと私はかまいませんけれど)
鳴家と鴆が無事ならばそれでいい。
「兄上も危機感を覚えているみたいで、数年前に鴆狩りを禁止させたが……」
彩妍は一つ、息を吐く。
「董家が亡き今、鴆を扱える者はいない。毒に耐性を持つ者でも鴆毒には敵わないのが現状だ」
「耐性を持つ者を掛け合わせて、董家に代わる一族を作ろうにも百年はかかると思います」
そうだ、と彩妍は頷いた。
「白暘を拾ってきた時、兄上は彼と女性を結婚させ、子を作らせようと考えていた。だが、彼が宮刑を受けた身だ。子は残せない」
「それで、子を作ることを諦め、白暘様に鴆の生捕りを命じたのですね」
「ああ、白暘は鴆を捕りに行こうとして、その毒に倒れた。そして、君に助けられた」
そこで彩妍は言い淀み、一拍置いたのち、口を開く。
「白暘から、鴆の研究をして、多少の耐性を持つ女性の話を聞いた時、兄上はとても喜んだ」
「喜んだ?」
「君を手元に置き、子を作らせようと考えているんだと思う」
「子を……」
「直接、聞いたわけではないんだ!」
焦ったのか彩妍は忙しげに両手を振った。
「もしかしたら鴆毒を使った下手人を捕らえて、そいつを軸にするつもりかもしれないし……! ただ、今現在、鴆毒に耐性を持つのは君だけで……えっと、すまない。こんな話、気分を悪くさせてしまうな……」
「いえ、別に平気ですよ。少し、驚いただけですので」
「本当にすまない。あまり、人と話さなくて会話が下手になったようなんだ」
失言を気にしたのか彩妍は顔を覆い隠すとその場でうずくまってしまった。
「……約束する。君を傷付けることは決してしない」
かき消えそうな小声で囁くと、鈴蘭を撫でる。
「私が董家に代わり、鴆毒を作るから」
その言葉が持つ意味に、雪玲は小さく笑むと、そっと隣に寄り添った。
「この庭園を見た時から、彩妍さ、……彩妍は、毒や薬に興味があるのだと思いました」
どうしても呼び捨ては難しい。肝心のところで格好がつかなくて、雪玲は頬を赤く染めた。
「気付いていたのか」
「ええ、鴆姫ですもの」
「兄上や侍女は気が付かなかったのに」
「これでも観察眼は鋭い方なのですよ」
「羨ましい限りだよ」
彩妍は立ち上がる。よれた裾を正すと殿舎を見つめた。
「騒がしいな。私が戻ってきたことが宦官から兄上に伝わったんだろう」
確かに、殿舎がやけに賑やかだ。翔鵬が彩妍の名を呼ぶのが聞こえた。
「兄上は私がまだ子供だと思っている節がある。困ったものだ」
「彩妍が心配なのでしょうね」
「もう少し、放っておいてほしいがね」
うんざりだ、と肩をすくめると一転して、楽しそうに雪玲に手を伸ばした。
「春燕、この庭園での会話は兄上には内緒だよ」
それは、まるで子供同士が交わす、約束のように。
——雪玲、このことはお父様には内緒だよ。
脳裏を過ぎる思い出に、雪玲は両目をぱちくりさせながら、彩妍の手を取った。
「どうした? 怪訝そうな顔をして」
「……いえ、兄弟と似ているな」
「兄弟? ああ、君には弟君がいたね」
「はい、可愛い弟がひとり。とっても可愛いんですよ」
「へえ、いつか会ってみたいな」
和やかに会話をしながら庭園を後にする。
(彼女を見ていると、淳雪お兄様を思い出す)
毒羽の乱にて実兄は確かに処刑されたはず。
なのに、なぜか彩妍を見ていると懐かしい気持ちになった。
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