第18話 庭園探索
鳴美人様、と鈴を転がすような美声を投げかけられ、雪玲は急ぐ足を止めた。唇と目元に笑みを浮かべて、人好きのする笑顔で振り返れば小柄な少女が恐る恐るといった様子でこちらを伺っている。
「……お出かけですか?」
確か、名は
「ええ、今から斉景長公主様を訪ねようと思ってます」
「そうでしたか。すみません、急に呼び止めてしまって」
雪玲は首を振った。
「話しかけてくれて嬉しいです。皆さまと仲良くなりたかったので」
本心からの言葉を伝えると宝美人は大きな目をさらに丸くさせた。
「……すみません。助けることができなくて」
絞りだされた謝罪に、今度は雪玲が両目を丸くさせる。
「えっと、なにをでしょうか?」
「朝礼での皇后様の言動に、みんなで無視したことに、その、傷ついていないかと思って……」
「私は鳴家の出自ですから、慣れています」
月日が経ち、疑いは晴れても董家と深い繋がりがあった鳴家をよく思わない人間は多い。
乾皇后はその筆頭だった。翔鵬に——表上——見初められ入内した雪玲が目障りなようで発する言葉の節々に、態度に敵意が見られた。後宮を統一する皇后に周囲も逆らうよりも彼女の意見を尊重し、その行動に従事したほうがこの後宮で安全に生きることができる。
だから、宝美人の対応は間違ってはいない。雪玲も彼女の立場なら同じように振る舞うだろう。
「そんなっ、鳴美人様のお家と董家は取引していただけです。そのような扱いを受ける必要はありません!」
「お優しいのですね」
「優しいなんて、私はただ……」
宝美人は俯く。
「私を心配してくれたのですから、お優しいです」
「優しい人間は、人を犠牲にはしません」
か細くとも芯のある声だ。容姿と同様に精神も弱い少女だと思っていたが、武人の強さを秘めているのだろう。
雪玲が声をかける前に、ぱっと顔をあげた宝美人は膝を軽く折って、頭を垂れた。
「お忙しい中、足止めしていまい申し訳ありませんでした」
「いいえ、宝美人様とお話できて嬉しかったです。また、こうしておしゃべりしてください」
「私なんかでよければ、よろこんで」
「では、侍女を待たせているので失礼いたします」
雪玲がその場を離れるまで、宝美人は頭を垂れ続けた。
***
巨大な門に飾られた扁額には『芙蓉宮』という文字が刻まれている。成人し、母元を離れた公主が住まうこの殿舎は現在、瑞王の同腹子である斉景長公主しか住んでいない。元々、斉景長公主には別の殿舎が与えられていたが五年前の大火によって焼失し、無人であった芙蓉宮に移り住んだと翔鵬に聞いている。
その門の前で雪玲は困った風に頬に手を当てた。その背後には珠音と、二人の侍女も同様に困り顔だ。
「困りましたね。斉景長公主様がお留守だなんて」
「どうなされたんでしょうか……。約束を
「瑞王様もいらしていないようですし、一度帰りますか?」
「では、すぐに輿の準備をします」
珠音がその場を離れようとした時、複数の足音が聞こえた。
「もう来ていたのか。俺より遅ければ叱りつけていたぞ」
大勢の宦官が担ぐ
「なぜ入らない?」
「それが斉景長公主様はお留守のようでして時間を改めて伺おうと思いまして」
「留守だと?」
続いて翔鵬は門番である宦官達を見下ろした。気のせいかその目には怒りと苛立ちが宿っている。
「おい。彩妍がいないとはどういうことだ?」
睨まれた宦官は縮こまりながら答えた。
「はっ、朝食後、散策に行くと言われてまだ戻られておりません」
「一人でか? 侍女や女官はどうした?」
「
「
安心したように翔鵬は息を吐く
「ならしばらくすれば戻るだろう。客間で待たせてもらう」
門番からの返事を待たず、翔鵬が門をくぐろうとした時、殿舎からせわしげな足音が聞こえてきた。
「瑞王様に拝謁いたします」
色とりどりの襦裙を纏った女性達が少し離れた場所で足を止めると揃って揖礼する。
「楽にしろ。お前達は彩妍の侍女だな」
「そうでございます」
先頭に立つ女性が猫撫で声で答えた。襟から覗く双丘を更に強調させるような仕草で手を組むと涙が揺れる目で翔鵬を見上げ、「申し訳ございません」と震える声で謝罪した。
「こうなってしまったのもわたくし共の落ち度でございます。今朝、長公主様に来訪の旨をお伝えしたのですが、きちんと伝わっていなかったようで……」
「いや、文瑾が付いているのならば気にすることはない」
「いいえっ、瑞王様をお待たせするなどあってはならないことですわ……!」
口では己の失態だといいつつも、言うことを聞かない斉景長公主が悪いと暗に伝えてくる。その
あからさまな泣き落としに雪玲付きの侍女達や白暘、目標となっている翔鵬も察しているようで白けた目で斉景長公主付きの侍女集団を眺めた。
「文瑾もいるし、すぐに戻ってくる。客間で待たせてもらうがいいか?」
女性は「もちろんですわ」と声を弾ませる。
「ご案内いたします」
案内役の侍女先導のもと、翔鵬、雪玲と列になって回廊を進む。殿舎の主人である斉景長公主が倹約家なのか、手入れは行き届いてはいるが他の殿舎と比べるとやけに質素だ。
それは回廊に面する庭園にも表れているようで、庭園を彩るのは牡丹や薔薇といった大輪の花ではなく、花もつけない草木やつけても小ぶりなものばかり。後宮では愛されないであろう花々ばかりだ。
「どうした? 鳴美人」
庭園を見つめていると不思議そうに翔鵬が問いかけてきた。
「素晴らしい庭園ですね。珍しい草花がたくさんあります」
「あれらは彩妍の趣味だ。何年前からか草花を取り寄せては育てている」
「異国にしかない植物もあるのですね。あの、後でお庭を拝見させてもらってもよろしいでしょうか?」
むずむずと好奇心が顔を覗かせる。長公主が許してくれるのなら丸一日かけてこの庭園を眺めて過ごしたい。
「でしたら長公主様が戻られるまでこちらでごゆっくりお過ごしくださいませ」
案内役の侍女が庭を指さした。にこやかな表情だが「瑞王様に近づくのにお前は邪魔だ」と書かれている。
「瑞王様、よろしいでしょうか?」
「ああ、いいだろう。彩妍が戻るまでなら」
翔鵬はこの庭園の素晴らしさを理解していないらしく、侍女の後を付いて去っていった。珠音達が雪玲に付き添い残ってくれたが、この庭園を眺めても暇だろうと判断して客間に行くように伝えた。
(さて、と。やっと一人になれましたね)
下級妃とはいえ、妃位を与えられているため、一人の時間は無に等しい。就寝時でさえ、有事の際に駆けつけれるようにと隣室に控えられているのだ。監視生活のつかの間の休息に、雪玲は軽やかな足取りで庭園を突き進んだ。
(胃薬に使える
広大な庭園はその各植物の自生時期に応じて、植える場所が決められているようだ。恐らく、五十種類は超えているのに、そのどれもが隅々まで手入れが行き届いている。
(これを全て長公主様おひとりで?)
庭師さながらの腕前に、思わず
「それには毒があるからあまり触れないほうがいい」
花に指先が触れる直前、硬い声が雪玲の行動を止めた。
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