第17話 密談


 まるで血のようだ、と垂れ下がるとばりを見て、雪玲は思った。

 否、帳だけではない。柱や壁、調度品の全てが真っ赤に染まっている。雪玲が背を預ける柔らかな褥も鮮やかな紅色だ。毒々しいその色が貴色のひとつであることは理解していても、まるで人の体内にいるようで落ち着かない。

 つい、視線を逸らす形で目を閉じると頭上から興醒めと言わんばかりの言葉が降ってくる。


「……顔色ひとつ変えないのか」


 雪玲が目を開けると、覆いかぶさる翔鵬が不愉快そうな表情を浮かべていた。なぜ不愉快になるのか分からず、その目を凝視すると気まずそうに雪玲の上から退き、近くの椅子に腰掛ける。


「私を呼び寄せたのは夜伽のためではないと思っていたので」


 乱れた襟元を正しながら雪玲は体を起こした。 


「あなたは私に興味はありませんもの」

「あるぞ」

「それは医療の腕と私の勘の良さでしょう?」

「可愛げのない娘だ」


 可愛げなくてけっこう、と思っても口には出さない。雪玲の野望を達成するのに、この男の寵を得る必要はもう無くなったのだから擦り寄る必要はない。余計な怒りを買わぬように、ただ淡々と依頼を全うするだけ。


「おい、お前達もこい」


 翔鵬の言葉に、帳の向こうから白暘と珠音が姿を現した。


「あら、お二方もいらしたのですか」


 自分達以外にも誰かがいるのは察してはいたが、まさかの人物に雪玲は両目を丸くさせる。


「瑞王の寝所に妃が呼ばれた際は、宦官と記録史が同席するのがしきたりだ」

「記録史?」

「俺との行為をこと細やかに記録する。妃の懐妊が発覚した際は記録簿と照らし合わせて、不義がないかを確認するためだ」

「それで珠音様がいらしたのですね」

「珠音は皇太后ははうえの侍女の娘でな。幼少の頃からの付き合いで信用できる」


 名を呼ばれた珠音は優雅な挙措きょそで膝を折る。


「お前の侍女に付けたのもそのためだ。他の二人は珠音の部下で口も固い。……が、あまり心を許すな」

「承知いたしました」

「白暘は奚官局からお前付きの宦官にした。俺の側近でもあるから何かあれば白暘に言伝を預けろ」

「はい。そういたします」

「それともう一人、協力者を用意した」

「協力者、ですか」

「俺の妹——彩妍さいけんだ」


 雪玲は妹君の姿を探すべく、周囲を見渡した。

 けれど、自分を含めた四人以外、誰の気配もない。気配を隠すのが上手なのか、と耳を澄ませてみるが衣擦れの音はおろか心音すら聞こえない。


「ここには来ていないのですか? 誰もいないようですが」


 こてん、と首を傾げて問いかけたら翔鵬が「は?」と驚いた。


「お前、勘が良いだけではなく、鼻も利くのか?」

「多少は」


 耳を澄ませただけだが、鼻も利くので訂正はしないでおく。

 雪玲が肯定すると翔鵬は「動物か」と失礼なことを言ってきた。


「翔鵬様、女人に対してそれは失礼ですよ。いくら天下の瑞王といえど、看過できかねます」


 にこりと笑みとは言い難い、威圧的な笑顔を浮かべた珠音が言った。


「お前は黙れ」

「鳴美人様は私の主人です。主人に対しての無礼な振る舞いを咎めただけですわ」


 どうやら幼なじみである珠音に強く言えないようで翔鵬は視線を彷徨わせる。力関係が見えた気がした。

 二人を見ていた白暘が口元を隠してくつくつ笑う。


「さすがの瑞王様も形なしですね」

「お前も気持ち悪いその顔はやめろ。不愉快だ」

「鳴美人様の手前、不遜な態度はとれませんから」

「俺ならいいのか」


 ここもある意味で力関係が出来上がっているらしい。


(瑞王様はお二人には弱いのですね)


 短気で喧嘩っ早く、傲慢な男だと思っていたが子供のようにあしらわれるのを見て可愛く思えた。つい、微笑ましく笑ってしまうと翔鵬が不満げに口元を歪めた。


「なにを笑っているんだ」

「いえ、つい……」

「お前を呼んだのは談笑するためではないことは分かっているのか?」

「ええ、分かっております。それで、斉景さいけい長公主様とはいつ会うことができるのでしょうか?」


 瑞王の姉妹は長公主と呼ばれている。斉景は封号ほうごうだ。


「明日、朝礼後に芙蓉ふよう宮に迎え。あの子はあまり宮をでない」

「なにか理由があるのでしょうか?」

「火傷だ。五年前の深夜、芙蓉宮で火災が発生し、あの子は顔や体に大火傷を負った。美しく、明るい子だったのだがその火傷のせいで他人と触れ合うことを酷く嫌っていてな……」


 翔鵬は目を伏せた。


「懐いていた侍女や乳母、信用していた宦官も焼死した。生き残っていたのはあの子と侍医じい、ただ二人のみ。あの子はかろうじて助かったが、それ以降、明るく振る舞ってはいるが塞ぎ込んでいる」

「失礼かと存じますが、斉景長公主様は協力してくれますか? 聞いている限り、宮の外に出ることはおろか他者と触れ合うことも嫌がっている風に聞こえます」

「それは大丈夫だ。お前が入宮することを伝えたらあの子自ら手伝うと言っていた。彩妍は嘘をつかない。生まれた時から後宮に暮らしており、皇太后ははうえ瑞王おれの庇護を持っている。何かあれば後ろ盾にはなるはずだ」

「では、明日、珠音様と共に芙蓉宮に向かってみます」

「ああ、俺も朝儀が終われば彩妍を訪ねるつもりだ」

「あの子はいい子だが己の火傷痕を酷く気にしている。それは指摘するな」

「はい。もちろんです」


 年端もいかぬ少女が負った火傷を指摘するほど雪玲も性格は捻くれていないつもりだ。


(帰ったら傷痕を目立たなくする薬でも調合しましょうか? それか引き攣れを軽減する軟膏か……)


 持参した薬草類を頭に思い浮かべて、考える。皇族付きの侍医がいるので必要はないかもしれないが、仲良くなるため用意したほうがいいのではないだろうか? けれど火傷痕を気にしているなら様々な薬を試しているはず。自分が作ったものを使用してくれるとは限らないし、嫌味に受け取られたりしないだろうか。

 ——雪玲が唸っている様子が面白かったのか、翔鵬は片手で顔を覆って笑う。

 人を小馬鹿にする仕草に、雪玲が軽くめ付けると「怖い、怖い」と言いながら背後を振り返った。


「白暘。あれを持ってこい」

「こちらが事件の概要をまとめたものです」

「ああ、ご苦労」


 白暘から書類を受け取ると、今度はそれを雪玲へ手渡した。


「それを見てみろ」


 言われて書類に目を通した雪玲は眉間に皺を寄せる。


「……なぜ、黙っていたのですか?」


 怒気を含む口調に、翔鵬は肩を持ち上げてみせた。


「そいつらはがあるだけだ。遺体は片付けてあるから今ではもう調べようもない」

「この六年間でこの人数の宦官と女官、奴婢ぬひが不審死したのに調べなかったんですか? 二十四人など、普通ではないと思うのですが」

「この後宮で、人が死ぬなど日常茶飯事だ」


 命を軽視したいいように、雪玲は怒鳴りたいのを奥歯を噛み締め耐えた。手にした書類がくしゃりと皺になる。急いで手の力を緩めた。


「鳴美人様、後宮とはところでございます」

「珠音様……」

「権力を得るため、溜まった鬱憤を晴らすため、ただの気まぐれで官はその命を失うのです」


 その通りだ、と翔鵬が口を挟んできた。


「後宮とは女の園。そこに瑞王おれの権威は届かない。それに、宦官どもは代わりが利く」


 だから死んでも問題はない。


「さすがに妃嬪に害が及べば俺達も動かなければならないがな」

「……異変は六年前から理解していたということですか? 理解して、放置して、お妃様方が亡くなったから動いたのですか?」

「……質問が多いな。お前の仕事は一連の事件の解決だ。それとは関係ないだろう」

「関係あります。二十四人の死因や人間関係が分かれば、犯行動機が怨恨か無差別かを判断する材料にできます。そうすれば早く事件を解決できます」

「だから可能性があるだけだ。そいつらが事件に関与していると決まったわけではない」


 煮え返る怒りを、懸命に胸の奥へ押しとどめる。一国の王が、民の死を虫と同様に扱っている様は異様だ。

 しかし、同時にそれを異様だと理解していない翔鵬に憐れみも覚えた。


(後宮で生まれ育ったから、この環境が普通と思っているのでしょうか……)


 皇子は皇太子に立てられるか、冠礼かんれいと呼ばれる成人の儀を終えるまでは後宮で暮らすのが通例だ。幼少期、命を命とも思わない世界で生きていれば今の翔鵬のような人間に成長するのも無理はない。


(お父様を、みんなを殺したもの、ただ単に気に入らないという理由でだったら……)


 雪玲の覚悟を余所に翔鵬は渋い顔で書類を指差した。


「読み終わったなら返せ」


 どうぞ、と手渡すと翔鵬は満足そうに息を吐いた。


「とりあえず、これで終わりだ。協力者の紹介と事件の内容は伝え終わった。あとは地道に探し出せ」

「ええ、そうさせてもらいます」

「俺は臥台で眠る。お前はそこらへんで眠り、早朝、後宮へ戻れ」


 席を立った翔鵬が告げる。夜伽を終え、黒嶺宮に戻るには時間が早すぎるので言いたいことは分かるが、そこでと指さしたのは絨毯も敷かれてない床であったことに雪玲は苛立ちを覚えた。


「瑞王様、女人を床で寝かすなど男の風上にもおけませんわ」


 雪玲の言いたいことを珠音が代わりに、


「鳴美人様は気丈に振る舞われておりますが、蓄積された疲れはまだとれていません。紀里から最短で連れてこられたのですから」


 白暘が心情を察してくれた。二人は信用できる。そう再確認した。

 二人に咎められた翔鵬は気まずそうに膝を摩り、項垂れた。長考したのち、「……俺がながいすで眠る」と喉奥から絞り出した。不本意で、嫌々だが、仕方なく、と顔に書いてある。


「いえ、私が榻でいいです。家ではこれぐらいの牀榻で眠っていたので慣れてます」


 腹が立つ男だが瑞王をそんな粗末な場所で寝させるわけにはいかず、雪玲は遠慮がちに首を振った。

 そんな雪玲を見て、翔鵬は満足げに頷くと席を立つ。どうやら一刻も早く眠りたいようで、足早にしん台へ向かおうとして——思い出したように足を止めた。

 謎な行動に首を傾げる雪玲をよそに、大股で近づいてくると無言で襟に手を添えてくる。もっと首を深く傾げる雪玲に翔鵬は鼻で笑うと襟を引っ張り、露わになった肌に顔を寄せた。

 雪玲が驚き、翔鵬を突き飛ばそうとするのも束の間、首筋に小さな痛みが走る。今まで感じたことのない痛みと不愉快な唇の感触に混乱していると姿勢を正した翔鵬が雪玲の首筋に指を這わせた。


「情事の痕がないのは不自然だろう。あの皇后もこれがあれば疑いもしない」


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