喫茶ラテ
作:うしお
軽やかなベルの音を響かせ入口の扉は開いた。客が来店した合図になるが、店主も、ウエイターさえも反応を見せない。そもそもこの店に案内はない。
そう聞かされていたが、実際に体験すると戸惑ってしまう。勝手に席に座っていいのか、メニューは出ているのだろうか、お冷やは貰えるのか、様々な疑問が渦巻いて二の足を踏ませる。
林檎がそうして棒立ちでいると、入口からやや見えづらい席から手が伸びた。
「林檎ーこっちー」
聞き慣れた声に安堵し、足早に向かう。普段立ち寄らない雰囲気の店内を楽しむ余裕もなく、彼女は友人の元へ一直線だった。
「柘榴ちゃん……」
「どうした、そんな顔して」
「不安で仕方なかったよー」
「いや、店内入って数秒もしてなかったじゃん」
「それでもだよ」
気持ちを分かって欲しいと訴え掛けるが、柘榴の反応は悪い。それもそのはずで、彼女は初来店時からその対応に慣れてしまった。というよりも、そんな事を気にせず思うままだった。
だからか、林檎の不安も何もかもが解らず、話をすぐに切り上げる。
「まあまあそんな事よりもさ、何食べる?」
目の前に置かれていた小さなアルバムの様な物を開いて、林檎に見せる。三ページしかないそれには、多数のドリンクと、いくつかの料理、そして三つほどのデザートが書かれているだけだった。
個人経営でひっそりとした場所にあるとはいえ、そのメニューの乏しさに、林檎は思わず溢した。
「これだけ? 他には?」
「ないよ」
「ないの?」
「うん、ない」
柘榴に聞くも、ないと断言される。飲み物は兎も角として、食べ物のレパートリーであれば、自分の方が持っているのではないかと思う。彼女のにして見ても同じだろう。
へー、と気の抜けた返事をすると、柘榴はでもと続けた。
「たまにメニューの入れ替わりがあるから、実際には色々あるみたい。それと味は抜群に美味しいよ。特に本日のオススメに書かれたものは一番」
「そうなんだ」
もう数ヶ月以上通い詰めている彼女だから知っている事実。初めて来た自分ではそんな事は分からないと、林檎は少し不満を持った。
早く選ぼうと、メニューに目を向ける。並べられた文字の中に惹かれる物が見られず、林檎は彼女の言う通りに本日のオススメを頼む事にした。
「私はガトー・オペラにするよ」
「それなら一緒のにしよう。飲み物はどうする?」
「何がいいのかな?」
林檎の頭の中にはそれに合う飲み物が入っていない。ガトー・オペラというものも初めて食べる。どんなものでどんな味がするのかも分からない。
「何だろうね。私はいつも合う合わないで選ばないし」
「柘榴ちゃんらしいね」
「うん。だからさ、店主さんに聞けばいいよ。すいませーん」
そう提案した彼女は、林檎の返事を待つ事なく呼ぶ。呼び鈴もない為、自分の声で知らさなければいけない。林檎はそのシステムにも少しの不満が募る。それ自体は悪くはないが、彼女はあまりそんな風にするのが苦手だった。柘榴がいて良かったとホッとする。
柘榴が呼んですぐ、カウンターの裏から一人の男性が出てくる。林檎は自分が想定していたよりもずっと若い人で驚く。店の外観や内装、メニュー表示からは想像も出来ない様な人物だった。年はまだ二十代で、もっと今風な物を好みそうだった。
お決まりですかと、少し低い声で彼は聞いた。
「ガトー・オペラに合う飲み物って何?」
「そうですね。定番ですがコーヒーが宜しいかと。豆の種類も幾つかありますが、そこまでこだわる必要はないと思いますよ」
「だってさ」
「じゃあアイスコーヒーにするよ」
「貴方はガトー・オペラとアイスコーヒーで宜しいですか?」
「はい」
「柘榴君は?」
「私もオペラと、後はコーラ」
店主は一瞬呆れた目を柘榴に向けたが、少々お待ち下さいと言って下がった。彼が離れてすぐ、林檎は気になる事があった。
「柘榴ちゃんは店主さんと知り合いなの?」
「んーどうなんだろう。元々知り合いってわけじゃなくて、通っている内に仲良くなったんだよ」
「凄いね。私には出来そうにないよ」
柘榴のコミュニケーション能力の高さに驚く林檎だが、実際には異なる。打ち解ける様に仲良くなったわけではなく、話し相手が欲しかった彼女が、一方的に絡んでいく内に今の関係になったのだ。
そんな事とは梅雨知らず、林檎は別の疑問も口にした。
「店主さん若い人だったね」
「確か二十六って言ってたよ。元々はお祖父さんのお店だったんだけど、継ぐ人がいなかったから自分が継いだんだって」
「思っていたよりも若いね」
「若いっていうなら私達の方が断然若いよ」
「そうだけどそうじゃないよ。こうして一人でお店を切り盛りするって大変だと思うんだけど」
「そう言われてみればそうかな。でも見た通りそれほど人もいないし大丈夫じゃない?」
「それはそれで大丈夫ではないんじゃ……」
心配するなと笑う柘榴だが、次の瞬間には真顔になった。
「随分な事だな柘榴君」
店主はそう言うと、二人の前にオペラとそれぞれの飲み物を置く。初めて見たガトー・オペラに、林檎は綺麗と呟く。切り口は層になっており、チョコレートのブラックやブラウン系の色が見られる。上には粉砂糖が散らされ、雪化粧の様だった。
「お待たせしました。ガトー・オペラとアイスコーヒーです」
「ありがとうございます」
林檎が頭を下げれば、店主はにこりと微笑んだ。優しく柔らかな笑顔は、その顔立ちも相まってスイーツの様な甘さを醸し出す。
ドキリとし頬を赤らめるのがバレない様に、顔を少し伏せる。
柘榴は特に興味を示さず、林檎に店主について話し出した。
「この人はね、枇杷宗二って言う名前。やる気なさそうだけど、意外と話とか付き合ってくれて優しいんだよね。顔が良いのがムカつくけど、特にそういう経験もないみたいで残念さんなのだよ」
「少々苛つく紹介だが、枇杷宗二と言います。よろしくお願いしますね」
「はい。えっと、東上林檎です」
自己紹介? をされ、林檎も名乗り返す。自分の情報を一切言っていないが、彼女の性格や年齢を考えれば妥当なところだろう。
二人がそう終えれば、柘榴はまた喋り出す。
「ねえねえ枇杷さん、話そうよ。他にお客さんもいないし良いよね? ね?」
「お客様はいないが、やる事はある。それに、東上さんもいきなり知らない男が混じってもアレだろう?」
「えっと私は、大丈夫、です」
「……」
解放されたいが為に彼女に助けを求めたのだが、思わぬ伏兵だった。先程から挙動が安定しない彼女は人見知りだと考えたのだが、その予想は外れてしまった。
林檎も普段であれば別の反応を見せていた。しかし、今日に限っては違う。それもこれからする話に原因があった。
「実は今日、柘榴ちゃんとここに来たのは事情があって」
「事情?」
「はい。えっと実は私好きな人がいるんですけど、その人とお付き合いするにはどうしたらいいかなって」
宗二はまさかそんな身の内話をされるとは思っておらず、返事が出来なかった。
「えーっと……」
そんな彼の反応に迷惑な事をしたと思った林檎は謝罪の言葉を述べる。
「いきなり変な事言ってごめんなさい。柘榴ちゃんには前から色々と相談に乗って貰ってて。もっと色んな人に話を聞きたくて、それを言ったらこのお店を紹介されて。学校の人だとどこから話が広がるかも分からないし、みんな当たり障りのない事ばかり言うだろうし。だったら初対面の私よりも経験ありそうな人に聞くのがいいかなって……」
絞り出す様に言う彼女に、宗二は頭をかく。彼女の要望は中々にハードルの高いもので勇気のいる行動に思えた。それを無碍にするのも悪いと思うが、何せ話せる様な事が彼にもあまりない。
関係者である筈の柘榴も目的を遂行したと言わんばかりの満足げな表情で、オペラを食べてはコーラをあおっている。
助けて欲しいのはこちらなのだが、仕方ないと宗二は考えた。
「……そうだね。ほんの少しになるけどいいかな?」
「はい。大丈夫です」
多くのアドバイスは出来ない。当たり障りのない事になるかもしれない。それでも答えようと思った。
「東上さんの事も、その相手の事も僕は知らない。ここで話を聞いたとしても良いアドバイスが出来るとは思えない。想像は出来るけれどあくまで印象の中でしか語れないからね。だから、心持ちというか心構えかな? そう言った事になるけれど」
「はい」
「君が既に感じている様に恋愛は難しい。自分が思っているよりも上手くいかない事が多い。話し掛けようとして、話題を広げようとして、何かに誘おうとして、駆け引きをして。色んな事をするけれど、その全てが良い方向に繋がるとも限らない。それこそ苦い思い出になってしまうかも」
それで、と一度話を切り替える。
「今日君が頼んだガトー・オペラ。どんなデザートだと思う?」
「えっと、見た目は甘そうです。でも香りはコーヒーっぽい匂いもします」
聞かれた林檎は拙いが答える。見た目の思った事、近づけて感じた事などを口にした。彼女の反応に、宗二は頷いて肯定する。
「概ねその通りだよ。細かなレシピを言えば色々とあるけれど。それを話すのは今ではないからね。そして、恋愛はそんな感じなんだと思う。見た目は綺麗で誰もが一度想像をする。でも実際には甘いものだけじゃない、ほろ苦い部分や違っている部分が存在する。それでも、最後には美味しかったと良かっと感じる。そこまでにどんな経験があったとしても、君の恋はきっと豊かなものだと思える。いや、そう思う事が大切なんだろうね」
食べてごらんと促され、一口運ぶ。口にはチョコレートの甘さにコーヒーの苦味、ほのかにラム酒の芳醇な香りがする。
「美味しい」
「それは良かった」
素直に溢れた感想だった。不味いわけがないと思ったし、実際にその通りだった。彼の話とは少しずれているかもしれないが、色んな事を感じてその全てを込めて美味しいと感じた。
林檎が見て来た恋愛は、甘いところと苦いところを分けていた。良い事があればそれだけに喜んで。悪い事があればそれだけに落ち込んで。心の中の想いは二つあって、それぞれ別に足したり引いたりしていた。だか、目の前のオペラの様にそれは一つのもので、足し算も引き算も全て一緒の過程のものなのだ。
「なんだか心が軽くなった気がします」
コーヒーに口をつけてそう思う。口に残ったオペラが置いていったものが、コーヒーによって除かれる。そしてまたオペラを運べば、想いが溢れる。
ここに来た時よりもずっと晴れやかな笑顔を浮かべて、林檎はオペラを食べる。
その表情に満足したのは、宗二だけではなかった。
「良かった良かった。林檎のためになれて良かったよか」
「君は何もしていないだろう?」
「連れて来たのも紹介したのも私」
全ては自分の功績だと言わんばかりの彼女に、宗二はそうだなと返す。ここで何を言おうが変わらないのは分かっている。
一度終わりと、裏へ戻ろうとする宗二の背中へ、柘榴は投げ掛ける。
「枇杷さん凄いね。あんな台詞中々言えないよ。聞いてるこっちが恥ずかしかったよー」
その一言に転びそうになるが堪える。言われて自分の台詞を反芻すれば羞恥で身を焼きそうだった。経験なんてほとんどない自分が何を言っているのか、それを自覚すると今すぐ逃げ出したくなる。
「放っておけ」
それだけ残してそそくさと裏へと引っ込んだ。
それを笑って見送った柘榴は、再び視線を林檎へ戻す。目の前に座る彼女の顔は、確かに良くなった。ずっと相談に乗っていたけれど、自分では答えをあげられなかった。仲は良い、付き合いも長い。それでも彼女にとってもあまり関心が向かない話だった。いつも話を聞いて、実行する事を促すだけ。それも間違ってはいないし一つの形だ。それでもやはり力にはなりたかった。その願いが叶えられて、柘榴は良かったとそう呟く。それは林檎に届かないし、届かなくても良い事だ。彼女の恋には関係ない。
最後の一口を食べ終えて、コーラを飲む。炭酸の刺激が、喉に心地良かった。
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