おままごとの続き

作:あおみどろ



 大きな和室。一面に敷き詰められた畳は表面が滑らかで、小さな子の柔らかい頬に触れても摩擦の一つもおきそうにならない。幼児用の椅子に座り、机を挟んで私ととても可愛らしい男の子が座っている。机の周りや下には、通常サイズよりも一回り小さな鍋やフライパン、お玉に何も切れない包丁、精巧に作られた偽物の人参、玉ねぎ、じゃがいも、ブロッコリー、白地に金色の細工がほどこしてある食器一式などが散らばっていた。あたしは物が散乱する机の真ん中に無理矢理スペースを作ると、得意気に小さな白い箱を置いた。男の子は漂ってくる甘い香りに、その箱の中身を察して思わず立ち上がる。あたしはそんな男の子の目の前に手のひらを向けて静止を促す。

「ため!ちゃんといいこにしてないと、けーきはあげません」

 男の子はしおしおと着席した。あたしは良くできましたと男の子の頭を撫でる。

「いちごのとちょこのがあります。いおりちゃんは、どっちがいい?」

「えらんでいいの?」

「うん」

 そう言うと、男の子は大きな目を更に大きくしてキラキラさせていた。

 かわいい。

 とてもかわいい。

「おかーさん!」

 まだまだ声変わりの前兆もみせない高い声が、あたしのことを呼んだ。そう、あたしは母なのだ。この玉のように可愛らしい子供の。この子の健やかな健康のために食事を用意し、夜を怖がるこの子のために子守唄を歌い、いけないことをしたら優しくも厳しく諭さなければならない。けれど、この男の子にそう呼ばれる人間はあたしだけではない。あたしが偽物で、あっちが本物。そんなのずるい。あたしだってこの子を愛しているのに。どうして。

「……おかーさん?」

 あぁ、怖い顔をしてはいけない。この時だけは、あたしはこの子のお母さんなのだから。


*****


 昼食の時間、僕はいつも屋上で食べる。この学校の屋上は棟と棟の間にあって、移動する時や部活で使うとき、お昼を食べるときだって自由に使っていいことになっている。以前はいろんな生徒がお昼を食べていたらしいが、いまはほとんど人が寄り付かなくなってしまっている。さて、僕はそんな場所で今日もお昼を食べようと、備え付けのベンチに座り、持ってきた袋を膝の上に置いた。学校の近くにコンビニがあって良かったと心から思う。いくら甘いものを買っても変に思われないからだ。食堂にもスイーツ系のメニューはいくつかあるが、それだけを頼むなんて目立つことはしたくない。僕に取ってスイーツとは、デザートではなく主食なのだ。コンビニのロゴが入ったビニール袋に手を突っ込み、適当に一つ取り上げる。この袋の中には僕の好きなものしか入っていないから、何が出てきても良いのだ。出てきたのはチョコレートがかかったドーナツ。僕は内心喜んでドーナツの袋を開けた。そもそもチョコレートは大好きだし、やんわりと甘い生地系のものも好きだ。サーターアンダギーとかホットケーキとか。特にこのドーナツは全体にチョコレートがたっぷりかかっているからなおよし。僕は大きく一口、ドーナツにかぶりついた。口の端に溶けかけていたチョコレートがべっとりと付いてしまった。夏が近づいてきているせいで、最近めっきり気温が高くなったせいだろう。僕はコンビニで会計をしたときにもらったお手拭きで口元を拭った。甘いドーナツを咀嚼して飲み込むが、のどが詰まりそうな感覚がした。いっしょに買ってきた牛乳のパックを取り出して、ドーナツをなんとか流し込んだ。僕はわりと、のどが詰まりそうな食べ物が好きだったりする。あと、口の水分全部持っていく系のお菓子も好きだ。

 幸せな気分のまま三口ほどでドーナツを食べ終え、次は何を食べようかと袋を漁っていると、ドアが開く音がした。それと同時に、僕の気分も急降下した。

「伊織」

 声がした。僕の名前を呼ぶ声だ。名前なんて呼ばれなくたって、誰が来たことくらい分かっていた。僕はそんな声を気にも止めず、袋の中から苺のケーキを取り出した。

「……またそんなもの食って」

 薄いビニールを乱雑に千切って、中のフォークを手にする。ごみと化したビニールはベンチの上に置いた。暖かな日差しと油によって輝く真っ白なクリームは、控えめに言っても最高だった。フォークでクリーム部分だけをすくって食べると、落ちていた気分が簡単に上を向く。

「伊織、ごみをこんなところに置くな」

「あ、ちょっと! そこ座らないでくださいよ! ごみの場所なんですから」

「ご、ごみの場所だったのか……」

 その人はベンチに座りかけた大勢で固まったまま、少し迷ってから膝の上にビニールのごみを置いて結局僕の隣に腰を下ろした。それでいいと思っているのか、この人は。僕は横目でその光景を見ながら、あっという間に苺のケーキを二つ食べきった。まだ口の中にスポンジを残した状態で、袋の中から三色入りのマカロンを取り出す。

「伊織、こっち食え」

「あ、ちょっと返してください!」

 持っていた可愛らしいマカロンが隣の人によって取り上げられ、代わりにミニトートバッグを突きつけられる。

「どうせろくなもん食ってねぇんだろ」

「いらないって何回も言いましたよね」

「おはぎやら団子食えんなら米もいけんだろ」

 無理矢理押し付けられたトートの中身を覗くと、明らかに手作りらしきおにぎりと、どこにでも売っているような風貌の既製品のおにぎりが二つずつ入っていた。

「手作りなんて死んでもだべられない」

「……だからコンビニのやつも入ってんだろ」

「そういうことじゃないし」

「どういうことだよ」

 隣の人の顔は、常に不機嫌そうな印象を受ける目がより細められ、更には眉間に深いシワができている。それでも美人が崩れないのだから、なんだが腹立たしい。そんな僕の視線なんて気にせず、隣の人は取り上げた僕のマカロンを「なんだこれ?」とマジマジと見つめていた。

 隣の人、椿はほぼ毎日、こうして僕に昼ごはんを届けに来る。理由は僕がひどい偏食だからだ。先程食べていたドーナツやケーキといった、いわゆるスイーツの類しか僕は口にしない。プリンは好きだけど茶碗蒸しは嫌い。おはぎや団子は食べられるけど、おにぎりは食べられない。自分でも偏食だと自覚はしているが、彼女が関わることではないと思っている。

 それに僕はできるだけ彼女に会いたくはなかった。なぜなら彼女は、この学校では有名な不良生徒だからだ。ヤンキーばかりの学校ならまだしも、歴史が長く在籍する生徒のほとんどが富裕層の私立中高一貫校で、彼女のような人は異様に目立つ。昔ながらのセーラー服のスカートは足首に触れるくらいに長く、上着は普通のより短い、学ランなら短ランと言われる仕様になっている。校則には肩にかかる髪は縛るようにしるされているのに、もちろんそんなものは守っていない。ゆるくパーマをかけたような癖のある黒髪は、彼女の背中で揺れている。まるで一昔前のスケバンのような出で立ちだ。

 更に彼女は気に入らないことがあれば力強くでも思い通りにするところがある。その気質のせいで何度も騒動があり、彼女が生徒指導に呼び出された回数は両手では数え切れない程になっている。ただ僕が一番危惧しているのは、彼女を好いている女子生徒からのやっかみだ。椿という人は、顔も良ければスタイルも良い。身長なんて僕より高いのはもちろん、彼女の同学年男子の平均身長よりも高くて、大抵の人を見下ろす形になっている。

 極めつけに彼女はどういうわけか女子には優しかった。なので先生陣とからは不良として目をつけられ、女子生徒たちからは学校の王子様としてモテ、男子生徒からはできるだけ関わらないように距離を取られていた。下手に彼女とつるめば、厄介ファンが絡んでくるからだ。僕はトートを彼女の膝の上に置くと、荷物をまとめて立ち上がった。ビニール袋の中には最後にとっておいた杏仁豆腐が残っていたが、それは教室に戻ってから食べることにする。もうすぐで授業も終わるし、ちょうどいいだろう。

「伊織」

 彼女に呼び止められたが、僕は振り向きも返事もしなかった。


 家の門をくぐり、母屋を通り過ぎて離れへ向かう。家のドアを開け、一応大きめな声で「ただいま」と言ったが、なんの返事もなかった。玄関には細いかかとのヒールや、先の丸いパンプス、膝まであるブーツなどが大量に散乱している。少し前に片付けられていたばかりなのに。この靴たちの持ち主に呆れながら、玄関の隅に履いていた靴を並べた。自分の部屋に向かう前に、意味はないとは思いつつも、玄関の鍵を閉めたことを確認した。

 時間は五時半を少し過ぎたくらいだった。夕飯までに今日出た課題を減らしておこうと、チョコレート片手に机に向かっていた。甘いものを食べていると、喉が渇く。僕は切りのいいところでシャーペンを離し、キッチンへ向かった。集中していたのだろう、この人が家に入ってきていたことに気が付かなかった。キッチンの床で倒れ込んでいるのは、僕の母親だった。あちこちに物が散乱していた。真っ赤なピンヒールまでもが廊下に転がっている。年甲斐もなくヒラヒラした薄着で倒れ込む母親の近くにしゃがみこみ、華奢な肩に手を添えゆすってみる。

「母さん、起きて。風邪引くよ」

 完全に寝ているわけではないようで、むにゃむにゃと何かつぶやいている。もう一度声をかけようとしたとき、母親は勢い良く上半身を起こした。

「やだぁ……。早くメイク落とさなきゃ……」

 そう言ってふらふらになりながらも立ち上がり、ダイニングの椅子にもたれかかる。

「いおりぃ〜」

 さきほどの寝起きの声ではなく、人に縋りつく用の母親の声が自分を呼ぶ。

「なに」

「お風呂入れてきて。入浴剤はあの、青色の箱のやつねぇ」

「わかった」

「あとお水欲しい〜!はやくう!」

「わかったから」

 僕は落としてもいいようにマグカップに水を注ぎ、母親の前に置いた。そしてお風呂場へ向かう。浴槽に流れ込む温めのお湯を眺めながら、僕は作ってない母親の声を最後に聞いたのはいつだったかと思いだそうとした。多分、この家に来る前になるのではないだろうか。浴槽に貯まるお湯も、この家も、僕達の食費も生活費も、そして僕達親子そのものも、僕達のものではない。すべて二階堂の家のものだ。

「伊織はさぁ、いい子みつけたのぉ?」

「母さん」

 後ろを振り向くと、マグカップを持った母親が脱衣所の壁に寄りかかりながらこちらを見ていた。マグカップに残っていた水を飲み干すと、適当な場所にそれを置く。

「お金持ちの子ばっかいるんでしょ?いいなぁ〜!早く養ってくれる子見つけなねぇ。あんた、私に似てちょーかわいい顔してんだから。いかさないと」

 お風呂場から腕を引かれ、脱衣所の三面鏡の前に立たされる。母親は僕の顔に手をかけ、目や鼻の形を確かめるように触っていく。

「おっきい目に、ばさばさまつ毛。肌もわかぁ〜い。髪の毛もワックスつけたらぁ?可愛い顔してんだから、女の子じゃなくてもいけんじゃない?」

「やめてよ」

「うぅ〜ん、声は低いのよねえ。ほら、可愛い声だしてよ!媚びた感じで!」

 きゃははと笑いながら、母親は僕の目の前で服を脱ぎ、お風呂場へ消えていった。僕は脱ぎ散らかされた服を洗濯機に放り込み、キッチンに戻った。

 身内を褒めるのは贔屓になってしまう気がするが、僕の母親はとても綺麗な人だ。そしてそれを自分でも理解して、なんの努力もしないでこの家に住んでいる。したことといえば、人に媚びることだけだ。そしてそのことを誇りに思っているし、自分の息子である僕にも他人に媚びることを強要してくる。小さな身長に華奢な体。それなのに胸はあった。大きくタレぎみな瞳にはキラキラしたピンクの化粧をして、溶けそうな赤い口紅をひいていた。脚も肩も胸も大きくでる服をきて、甘い鳴き声で可愛らしく擦り寄る。そうすれば大抵のことはうまくいったらしい。その結果が、大金持ちの二階堂明平の愛人という立場だ。しかも本妻よりも贔屓されているときた。

 その証拠に僕達が住むのは、二階堂家の敷地内にある離れだ。離れといっても親子二人で暮らすには十分すぎるほどに大きい。そして僕達親子の生活費全てを工面してもらっている。この好待遇により、二階堂の家とその関係者にもれなく嫌われているの。しかし何事にも例外がある。二階堂の家の人の中でも二階堂明平の一人娘である椿だけが、なぜか僕のことをかまってくるのだ。なぜ椿は自分の父親の愛人の子供と関わろうとするのか、その神経を疑ってしまう。僕は冷蔵庫から夕飯のホールサイズのタルトを取り出して、部屋に戻った。飲み物はオレンジジュースにした。




 その日のお昼の時間も、僕は椿といた。

「伊織、食べられるやつだけでも食べろ」

 大きな二段のお弁当を見せながら、椿は言った。お弁当というかお重にちかい大きさだ。濃い黄色の卵焼きに、あからさまに高そうなウインナーによるタコさんウインナー、まんまるなプチトマト、てかてかのタレがかかった唐揚げ、大振りなエビフライといったお弁当の定番から下の段の本来ならごはんかおにぎりが入るべきところには野菜を使ったスコーンやパイが敷き詰められている。ざっと中身を確認したあと、僕はいつもどおり自分で買ってきたシフォンケーキをひとかじりした。

「スコーンは? むりか……?」

「野菜入ってるでしょ」

「当然だろ」

「なんで」

「甘いもんばっかりじゃ体にわりぃ。野菜も食え」

 そんなのは自分でもわかっている。もう高校生なのだ。バランスよく食事をしましょうなんて、今更言われなくてもわかっている。それでも僕は、普通の食事をする気にはなれない。

「伊織」

 シフォンケーキを食べきったときだった。いつだって一定の間隔をあけて隣に座っていた椿が、その距離をなくした。そして椿の両腕が僕の腕に絡まり、女の人にしては低かった彼女の声を嫌に高くして「おねがい」と言ってきた。

「……」

 あまりの出来事に黙り込んでいると、椿はキョトンとした顔をしていた。なんでお前が不思議そうな顔をしてんだ。しかし僕にはこの行動に至るまでの経緯がなんとなく分かってしまっていた。どこかで見覚えがあるのだ。こういう、わかりやすい媚に。

「また僕の母親と話したんですか」

 椿は何も言わずに目をそらしたが、肯定しているようなものだろう。椿は、自分の父親の愛人の子供だけでなく、愛人とすら話せてしまうような狂った人間なのだ。そのせいで、以前からちょくちょく僕の母親からいらないことを吹き込まれている。その度に僕と僕の母親とは関わるなと言っても、彼女は全くその通りにしてくれない。本当に、いつの間に会っていたんだ。もしかしたら連絡先を交換しているのかもしれない。

「僕、あんまりそういうの好きじゃないです」

「どういうのが好きなんだ」

 そう真面目に言われても困る。この人は大抵のことなら恥ずかしげもなく難なくやってしまいそうだから、どうにかして彼女をぎゃふんと言わせる返しがしたかった。うーんと悩みながら僕はビニール袋の中から、桃ゼリーを取り出す。邪魔だからと彼女の腕を取り払う。袋の中に紛れ込んでしまったスプーンを探していると、隣からすっと何か差し出された。

「使え」

 スプーンだった。なんだかこの光景に覚えがある。僕が二階堂の家に連れてこられたときはまだ幼稚園児のときだった。彼女はもう小学生だった。家の事情なんて知らない僕達は、よく二人で遊んでいた。彼女は幼い僕のしたい遊びに何でもいつでも付き合ってくれる。だから僕はいつも彼女におままごとのおねだりをしていた。僕が子供役で彼女がお母さん役。それ以外になったことなんて、一度もなかった。お母さんになりきった彼女は、本当にお手本のようなお母さんだったように思える。おままごとに使うには立派すぎる小道具に囲まれて、手触りのいい上等な布でできたエプロンをした椿が、彼女にと用意されたおやつを僕にあーんしてくれた。ケーキやクッキー、チョコレート、タルト。本当のお母さんは、こんなふうなのかな、なんて。そんなことを思っていた。

「……伊織?」

「お母さんみたいに、食べさせて。そしたら食べるよ」

 性癖を煮詰めたような回答だったが、僕はなぜだか恥ずかしくなんてなかった。でかい図体に低い声、乱暴な言葉遣い、不良のような格好。椿を形作る全てが、世間一般的なイメージの母親とは違っていた。それでも、彼女からはどこか母親のような感じがしていた。

「……そんなの、似合うわけない」

 平気でやってみせるかと思っていたけれど、彼女からは意外な言葉がかえってきた。

「てめぇ、ばかにしてんのか」

 からかい半分、興味半分のつもりだったのに、彼女は本気で怒ってしまったようだった。声を荒らげることも表情が大きく変わることもないが、唸るように言ったその言葉の迫力が、恐ろしかった。いつもは僕に甘くても、一部からは不良と言われているだけあるな、と冷静に思った。なんだか気分が悪くなってきた。五時間目が終わる頃には頭を上げているだけで辛くなってきた。こういうとき、僕は無理をしないタイプだ。授業が終わってすぐに保健室に行き貧血との判断を貰う。六時間目はベッドに横になって、一時間ほど仮眠した。目を覚ましたときには少し楽になっていたが、体を起こした瞬間、酷いめまいがした。保険医に「ちゃんとした病院に行くように」と忠告され、僕は保健室をあとにした。ホームルームをしているのだろう。人気のない廊下を歩いていく。荷物を取りに教室に寄るが、誰にも何も言われなかった。あの二階堂さんとお昼を一緒にしているというのは大抵の人が知っており、それゆえ僕には友達がいなかった。まあ中学のときも友達は多い方ではなかったから、そんなに気持ち的には変わらないのだけど。歩いていると後ろから声をかけられた。声の主は僕の学年の学年主任だった。

「野崎、おまえその髪どうにかしなさい」

「あぁ、はい」

「まったく、染髪はだめだと校則にかいてあるだろう」

「これ一応地毛なんですけど……」

「はあ? 言い訳はいいから」

 母親いわく僕の父親は隔世遺伝とかなんとかで地毛が明るい人だったらしい。そのせいで僕の髪色も普通の人よりかは少し茶色い。陽の光を浴びたくらいでしかわからないのだが。にしても本当に陽の光が強いな。暑い。学年主任は建物の日陰にいるけど、僕は窓からの日光をまともに浴びていた。なんだろう、さっきまで引っ込みかかっていた頭痛や目眩、吐き気がどんどん強くなってきた。とくに吐き気がひどい。発酵されて体積が膨らんできてるみたいだ。教科書が詰まったリュックがやけに重い。早く、家に帰らないと。いや、帰れるのか。とりあえず、保健室にもどりたい。

「おい! きいているのか!!」

 学年主任に肩を強く掴まれ、揺らされる。思わずその手を振り払うと、学年主任は顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。怒鳴らないでほしい。頭に響く。両手で耳をふさいでなんとか耐えようとするが、学年主任に腕を掴まれ、聞きたくもない声を更に聞かされる。ほんの少しだけ、僕は反省した。普通に考えて、母親みたいに食べさせてほしいなんて。彼女相手じゃなければ、セクハラ発言になっていた。反省するし、認めよう。僕は変態だと。だからどうか、神様。僕を救ってくれませんかね。そんな神頼みをしていると、急に体が何かに支えられた。

「……え?」

「うっせぇんだよ! 伊織が嫌がってんのわかんねぇのか!!」

 お前の方がうるさい。そんなこと、体を支えてくれている椿には言えなかった。

「に、二階堂、お前教師に向かって何を……!」

 椿は両手で僕の耳をふさぎ、僕の頭を抱え込むようにしたまま、学年主任と言い争いを始めた。塞いでいると言っても言っていることの内容は普通に聞こえるのだが。しかし僕はなんだか安心してしまった。安心したのがいけなかったのだろうか。気づいたら眠っていた。


 いい匂いにつられて目が覚める。クリームやチョコの甘い匂いでも、香水やフレグランスのいい匂いでもない。しょっぱい匂い。これが料理をしている時の匂いだとなんとかわかったのは、学校の家庭科の時間で一食分を作る機会があったからだ。その授業にでていなければ、わからなかったかもしれない。僕の家でこんな美味しそうな料理の匂いがしたことなんて今までなかったのだから。ぼーっとしていると、僕の部屋のドアがそっと開いた。そこにはエプロンをした椿が恐る恐るこちらを覗いていた。

「なんで……」

 椿は何か乗せたお盆を持っていた部屋の中に入ってきた。

「お前をここに運んだのはあたしだ。医者にも見てもらった。倒れた原因は貧血。あと、栄養不足もみられるとさ」

 お盆をベッドの隣にあるローテーブルにそっと置きながら、彼女はそんなことを言った。倒れた原因についてはなんとなく察しはついていたので聞き流す。椿はエプロンのポケットから取り出した薄い手袋をすると、まるで手術直前の外科医のように神妙な顔つきで言った。

「伊織、覚悟しろよ」

 なにを? なんて聞き返す前に、口を無理やり開かされる。そして椿はお盆の上の小さく切手あるハンバーグを鷲掴みにすると、無理やり口に詰めてきた。ベチャ、ぐちゃと耳障りな音をさせながら、椿は僕の口に食べ物を詰めていく。そしてあごを掴んで無理矢理咀嚼させ、飲み込むまで鼻と口をふさぐ。喉仏が上下したのを確認してから、椿はまた新しい食べ物を詰め込んでいく。ハンバーグ、ポテトサラダ、蒸し野菜、ごはん。ソースや汁が服やシーツにかかってもお構いなしで強制的な食事が進んでいく。僕は抵抗するが、体がどんどんと後ろにずれていって、ベッドボードと椿に挟まれる形になってしまう。そうなれば椿に体を抑え込まれてしまい、ただ食べ物を散らかしながら食べているだけになってしまった。苦しくて苦しくて、生理的な涙が出る。

 脳裏には二階堂の母屋で食べさせられていた食事が頭をよぎった。僕が幼い頃、夜になっても帰ってこない母親の代わりに、二階堂の家の使用人が出してくれたごはん。それは多分、美味しかった気がする。しかし、椿が彼女の父親と外食するときにだけ出される椿の母親が出してくれたごはんは、僕にトラウマを残すには十分なものだった。自分の母親にも椿にも言ったことはなかったが、椿の母親が出した料理は好きではなかった。血生臭くて変色した肉が使われた炒めもの、毛虫や羽虫が混入しているサラダ、寄生虫が頭を出している魚、泥混じりの味噌汁。食べれません、と言っても必ず一口は食べることを強要されていた。その時の味や不快感を思い出し、胃の底から吐き気がこみあげてきた。僕は椿の母親が僕にしてきたことを誰かに言うつもりはない。僕は愛人の連れ子なのだ。その連れ子と自分娘が仲良くしているのだ。夫も娘もなにしてんだってかんじだ。 僕の母親よりも、椿の母親のほうがよっぽど母親らしいじゃないか。だから僕は、椿の、母親からはなにをされてもしょうがないと、今でも思っている。

 僕はなんとかすべてを飲み込もうとした。最後には、椿が手ずから食べさせてくるものをなんとか吐かずに食べる事に必死になっていた。食べさせてくる椿が泣きながらそうしていたからだ。それでも計三回ほど、吐いてしまったのだが。


 食べ終わる頃には、椿は声を出して泣いていたし、僕も放心状態になっていた。鼻をすすると、何か知らない汁のせいで、鼻の奥が痛くなった。そして最後にまた一回吐きそうになったのをどうにかこらえて、うずくまった。椿が差し出したお茶を飲んで、どうにか堪える。

「ご馳走様は」

 椿がそう促した。僕はぐちゃぐちゃに汚れた両手をピタリと合わせながら、震える声で「ご馳走様」をした。


*****


「おまえの母親になる」

 汚れまみれのベッドの上でうずくまる伊織を見下ろして、あたしはそう宣言した。

 伊織に「母親みたく」と言われたときは、自分の心を見透かされたのかと思っていた。それか、適当なことを言ったのかと。しかしそれは違うのだと、意識のない伊織がずっと母親の名前を呼んでいるのを見て理解した。伊織は本当に母親を欲していた。だからあたしも認めることにした。あたしは伊織の母親になりたいということを。

 あたしが中学生になる頃、伊織はあからさまにあたしを避けてきた。家の事情を大人たちは隠そうともしなかったので、その頃にはあたしも、もしかしたら伊織も、二人の関係がどんなものなのかは理解していた。そういうややこしい事情で、繊細な伊織は傷ついてしまったのではと。実際あたしはそうだった。父親の言うことなんて絶対に聞くもんかと、分かりやすくグレてみたりもした。まぁ、母親を心配させるだけで、父親は何も言ってこなかったけれど。伊織もそうなってしまうのではと、あたしはずっと気にしていた。伊織のことを考えると、心配で不安で仕方がなかった。もしかしてこれは恋なのではと、そう思ったときもあった。しかし、中学高校と少し悪そうな人達と遊んだり付き合ったりしたときに、これは恋ではないなと感じた。あたしは伊織が他の女の子と付き合っても別にいい。その子がちゃんとした子なら。これは恋なんてものではない。きっとあたしは家族として伊織を愛しているのだと。

 伊織のことを彼の母親から教えてもらいながら、日々は過ぎた。どうか健康に幸せに生きてくれと願いながら。

 そんなある日、伊織の母親からとんでもないことを聞いた。伊織はいつの間にか、甘いものしか食べなくなった。はじめは伊織は甘党なのか、くらいにしか思っていなかった。しかし同じ高校に入学して昼飯を食べている伊織を見に行くたびに、あいつは甘いもんしか食べていなかった。あれは異常だと思った。せめて家はちゃんとしたものを食べていてくれと伊織の母親にあいつが何を食べているのかを聞いても、甘いもの、という回答しか得られなかった。ちゃんとしたものを食べさせろと伊織の母親にいっても、めんどくさいの一点張り。しょうがなくあたしが食べ物を持参して、あいつに食べさせようとした。

 心のどこかで、食べ盛りの男子が本当にこんだけしか食べていなんなんてことありえない、と思っていた。しかしあたしの腕の中で倒れた伊織や着替えさせようと服を脱がせたときに見た、明らかに痩せた体、伊織の住む離れの冷蔵庫の中身、そして食事を心底気色悪そうに食べる伊織の顔。ようやくあたしは伊織が「普通の食事ができなくなっている」と理解した。

 あの日見た伊織の笑顔が、あたしをお母さんと呼ぶ伊織の声が忘れられない。あの時以上に満たされた瞬間なんてなかった。まずは伊織を病院に連れて行って、医者とこれからについて相談しよう。そして、あたしの荷物をこの離れに持ってきて一緒に暮らそう。

 あたしはハッとして、携帯を出した。そして携帯の中にある悪い付き合いをしていた人や、過去に遊んでいた人間の連絡先を片っ端から消していった。自分の両親や伊織の母親から学んだことだ。育児に他人はいらない。親も夫もきっといらない。余計な愛情なんて振りまいていると、きっと子供が拗ねてしまうから。あたしは伊織を抱きしめた。大丈夫、きっとあたしは伊織のお母さんになれるはずだ。

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