甘美なる誘い
作:ソルティ
最後の一筆を加え筆を置くと、キャンバスの上にはサーチライトを照射する純白の灯台が星空の下にそびえ立っていた。
「よし、やっと完成……」
それまでの緊張が解けると同時にどっと疲れが襲ってきた。今すぐにでも眠りにつきたいぐらいだが、そうもいかない。啓はおもむろに立ち上がり、画材の後片付けを始めた。開け放った窓から秋色の夜風がカーテンを揺らす。
絵筆を入念に洗い、角ハンガーに吊るしたところで片付けは一通り終了した。ふぅ、と一息ついて落ち着くと小腹が空いたのを感じ、啓はがらんとした冷蔵庫の中からシュークリームを取り出した。明日の仕事のことをぼんやりと考えながら一口、また一口と食べ進めるうちに、頭の中が幸福感に充ちていく。絵を描くこと以外に特別なことなんてない平凡な日常だが、啓にはそんな日々が何より愛おしく幸せだった。
昼休憩の時間、デスクでフルーツサンドを食べながら残っている作業の確認をしている啓の肩を男が叩いた。
「よ、河森。相変わらず甘いもんばっか食ってんなあ」
「やぁ野上さん、おつかれ」
「おつかれー」
そう返す野上は明らかに疲れた顔をしていた。
「何かあったのかい?」
「ああ、わかる? いやあそれがさ……」
啓の心配の言葉を皮切りに、野上は聞いてくれと言わんばかりの勢いで話しだした。どうやら、今朝急に欠勤した人が急務の作業を抱えてしまっており、そのしわ寄せが彼のもとにやってきたという訳だった。
「自分の仕事くらいはしっかりやってくれよな……まったく」
「それは……災難だね。コーヒーでも奢ろうか?」
「おお、そいつは嬉しいねえ! けどその気持ちだけで十分だ、ありがとな」
そう言う野上の表情には笑顔が戻ったようで、啓は少し安心した。
「そういや絵の方は最近描いたりしてるのか?」
「ああ、それならちょうど昨日描いたよ」
「そりゃいい! 俺は河森の描く絵が好きなんだ、なんかこう、惹き込まれる魅力があってよ」
それからまた今度生で見せてくれと付け足して、野上は持ち場へと帰っていった。腕時計を一瞥するともうすぐ休憩が終わることに気づいて、啓はフルーツサンドの残りを慌てて食べた。
「柿原部長、資料終わりました」
「ご苦労さん。後で確認しておくからそこに置いておいてくれ」
「わかりました」
啓がまとめた資料を部長のデスクに置くと部長は目尻に皺の寄った目をパソコンからこちらに移した。
「河森くんはいつも仕事が早くて助かるよ〜」
「光栄です」
「これからも期待しているよ。そうだ、今週末にまた食事でもどうだい?」
「ぜひ! 部長とまたゆっくりお話させていただきたいですし」
「そうかそうか、じゃあ週末は予定を空けといてくれ」
「はい! では失礼します」
啓はそう言って部長のデスクを後にした。それからは残りの雑務をこなしたり後輩の相談を受けたりしているうちにあっという間に過ぎていき、気づくと退勤の時間になっていた。
帰宅すると早速、啓は絵を描く準備を始めた。前日も描いたばかりだが、野上に褒められたこともあってかやる気に満ちていた。彼は手始めに帰りに寄ったケーキ屋で買った苺のショートケーキを皿に取り出し、そして角度を変えつつ何枚か撮影し、そのまま冷蔵庫にしまった。
今までやってこなかったが今日は純粋に好きなものを描いてみよう。その日の彼はそのような気分で、大好物である苺ショートを描こうと決めた。そのおかげかは定かでないが、見切り発車にもかかわらず下書きは驚くほど順調に進んだ。そのままの調子ですぐに完成まで辿り着けるかと思われた。が、苺に色が付いていない状態で啓の手は完全に止まった。
「…………」
何度試行錯誤を繰り返しても、苺の鮮やかな赤が上手く再現できなかったのだ。結局それは解決しないまま、諦めて眠りについた。
その夜、啓は気味の悪い夢を見た。夢の中で彼は両親から誕生日を祝われていた。彼の目の前にはホールの苺ショートが、火のついたカラフルな蝋燭の刺さった状態で用意されていた。その夢の奇妙なところは、ケーキに乗った苺にあった。それらはケーキの上で、まるで心臓が脈を打つようにドクドクと鼓動していたのだ。両親の顔を伺ってもこちらにただ笑顔を向けるばかりで、あまりの恐ろしさに目が覚めてしまった。翌朝になっても彼の脳裏には、あの奇妙な苺が残り続けた。
その日、啓は仕事に全く身が入らなかった。少しでも油断すると昨夜の夢のことで頭がいっぱいになって、ぼうっと何もないところを見つめていた。
「おい、河森? おーい……おーい!」
「!? あぁなんだ、野上さんか」
「らしくもなくまたぼけーっとしてたぞ。本当に大丈夫か?」
「え、あぁ……大丈夫だよ。心配しないで」
「……いや、ダメだ。部長に事情話してくるからお前はそこ座ってろ」
ちょっと、と啓が引き留める間もなく、野上は部長のもとへ向かい、結果として啓はタクシーに乗せられ半ば強制的に早退させられることになった。家に着くまでの間もずっと意識は別の場所にあるような気がした。
家に帰って描きかけの絵を見た瞬間、啓は何かに取り憑かれたように台所から包丁を取り出し、左手の人差し指を軽く切った。
「……っ」
傷口からは間もなく血が溢れだし、それを今度はキャンバス上の色のない苺の上に塗った。そのときふと赤く滲んだ指先を見て一瞬だけ我に返り、自分が今異常な行動をとっていることに気づいて声にならない悲鳴を上げた。
しかし、それには思わぬ成果が現れていた。血で塗られたキャンバス上の苺の色は、何度も再現を試みた、あの鮮やかで美しい赤そのものだったのだ。
「これだ……これだよ! 理想の赤は!!」
思わず歓喜の声を上げた。まだ指先には血が残っている。啓は塗り残した部分にも自らの血で丁寧に色を付けた。
「できた! 完成だ──?」
数十分後、一通り塗り終えた啓が改めてキャンバス全体を見ると、もう既に理想の赤からは遠ざかりはじめていた。
「違う……こんな色じゃない……」
彼は段々と自分が自分でなくなっていくような感覚を覚えた。
「僕はずっと……完璧にやってきた……」
うまく焦点が定まらない。目眩がする。
「また……塗り直さないと……」
気づけば彼は包丁を握りしめていた。
「はは……ははは……」
心臓に包丁を突き立て、躊躇うことなく突き刺した。それから彼は、倒れて完全に動けなくなるまで終始笑顔でくすんで醜い赤を塗り直し続けた。
ベタベタと塗り固められたてっぺんの苺はもはや苺とは呼べず、その形はむしろ心臓に似ていた。
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