名もなきファンタズマ

作:華琳


 名もなきファンタズマ

 

 飼い犬を殺したことがある。

 何の弁解にもならないが、故意、ではない。小学校に入学してすぐぐらいの頃に、飼い犬にチョコレートを与えてしまったのだ。犬はチョコに含まれる成分を分解できない、とかそんなのなんだけど、僕はてっきり、お菓子を食べすぎるとご飯を食べられないよ、みたいな、要は必要以上にモノを食べさせるな、って意味の注意だと思ってた。だから、昼間親が買い物に行っている隙に、こっそりチョコを食べさせちゃったんだ。そして次の日、朝起きたら犬の様子がおかしくて、獣医に行ったけどもう手遅れ、って感じ。食べたもん全部吐き出して、フラフラしながら唸り声だか乱れた呼吸なんだか判別のつかない音を口から漏らしてんだ。そんでもって犬は、まさか飼い主の少年が自分を苦しめている原因だなんて思わずに、助けて、って縋るみたいに僕を見上げる。けどもう僕は、犬が恨みがましく睨んできてるんだって思いこんじゃって、結局死ぬまで一度も撫でてやれなかった。それ以来、うちでは犬を飼っていない。

 とはいえ動物そのものが嫌いになったわけではない。動物に向き合う己、という光景が嫌いだっただけだ。事故のあと半年くらいはウサギやらニワトリやらがいる学校の飼育小屋にすら近づけなかったが、五年か六年のときに担任が教室で飼い始めた二匹のカメがあまりにも可愛くて、気づけば夢中になっていた。水槽に外から指をちょんってやると、カメはそこをじっと見つめながら、のっそのっそ歩いて近づいてくるんだ。クラス内で飼育係が定められているわけではなかったが、僕はその実質的な飼育係だった。クラスの子も結構世話に協力してくれたんだけど、特に餌は絶対に担任の買ってきたもの、ちゃんと量を守って与えるよう言っていた。けど秋頃、新しい餌を開けて与えた翌日の朝、カメは二匹とも死んでいた。翌々日のニュースで、餌自体に不良があって、企業が自主回収し始めたことを知った。約束を破らなくたって、愛情を注いでいた動物は死んでしまったんだ。今回は僕は一切悪くないし、誰も僕を責めなかったのに、ひどい頭痛に悩まされて、一週間学校を休んだ。自分が餌を与えた動物はことごとく死ぬんだ、って思ってね。

 そんな僕もなんとか無事に成人し、美人の嫁と一緒に暮らし始めた。夫婦仲は、悪くなかったと思う。嫁は子供が欲しいって言ったけど、僕は自分が育てるものは全部死ぬって思っていたから、欲しくなかった。それがもとで喧嘩した。ペットと子供は違うし、与えるのは餌じゃなくてご飯でしょ、って嫁には怒られたが、そんなことぐらい自分でもわかっている。自分が大切に育てて飯食わせたのがきっかけで死ぬってことがどれぐらいのトラウマになるか、知らないんだろうな。知らない方がいいし、僕だってもう味わいたくない。だからこそいらなかったんだけど。僕が克服したり、嫁が理解したりするより先に、離婚の方が先に訪れた。

 ひどい頭痛がする。餌を与えなくたって、大切なものはまたなくなった。








  ハッピーバレンタイン


 小学二年生の娘が、バレンタインのお菓子を友達と一緒に作りたい、と言い出した。

「あの子はお父さんがいなくて、お母さんが育ててくれたんだって。同じ家に住んでるのに、殆ど会えないくらいお仕事が忙しいお母さんに、なにかお返しがしたいらしいの。だからあたしね、あの子と一緒にお菓子作りたいなあって」

 あらあら、それなら是非一緒に作りたいわね。そうね、明日はママのお仕事の都合でどうしても無理なんだけど、明後日ならいいわよ。学校もお昼までで終わるし、買い出しから二人で行っておいで。快くオッケーを出すと、娘は心底嬉しそうに微笑んだ。さて、何を作ろうかしら。母娘並んでレシピ本を眺める。

「あの子は今までお菓子を作ったことはないって言ってたよ」

「だとしたら、簡単なのがいいわね。……そうだ、ブラウニーなんてどう?」

 私はとある一ページを指さした。私たち親子は作りなれているし、チョコは手で砕くだけで包丁を使わないし、火傷の危険性があるオーブンは私が触ればいい。そのうえ、ほかのものと比べて若干日持ちする。いいね、と娘が頷いた。お友達にアレルギーのことだけ確認してくるよう言って、私は本を閉じた。さぁて、忙しくなるぞ。宿題をしに自室へと向かう娘の背中から目を離して、私は細かい計画を練り始めた。









  ただいま


 いくら仕事が忙しかろうと、彼女と二人暮らしの家に帰るって思うと、いつだって胸は高鳴るもんだ。晩御飯の弁当二つと、ちょっとしたサプライズに、って買ってきたチョコを携えて、マンションのドアノブを回した。玄関には彼女の赤いパンプスと、一応俺のだけどちょとゴミ出しに行くときなんかに共用で使っているスリッパが転がっている。

「ただいま」

 革靴を放り出して家に上がる。ネクタイを片手で解きながら、短い廊下の突き当たりにあるリビングへ直行。既にテーブルについている彼女が、俺を出迎えてくれた。弁当とチョコ買ってきたぞー、と声をかけて、弁当とチョコをテーブルに置く。手を洗いに行こうとしたとき、ふとリビングと廊下を繋ぐドアの前に、なにかが落ちているのに気がついた。入ってきたときは気づかなかったんだけど、あれは? 拾い上げてみる。俺名義の通帳。……もしかして。

 慌てて寝室に飛び込む。玄関に上がってすぐ左手に位置する寝室は、中がひどく荒らされていた。やられた、空き巣だ。タンスの中身が床に散乱している。通帳はここに入っていたから、きっと空き巣が持ち出したのだろう。この部屋にはこれ以上金目のものがないから、他にも求めてリビングに侵入したと推測できる。リビングは荒らされていないため、空き巣はリビングに入ってすぐ、通帳を落としてこの家を出た、というのが自然な流れだ。……だとしたら、まずい。今朝までは綺麗に整頓されていたとは思えない惨状の部屋から出て、一度リビングに戻る。

 今一番の課題は、特定だ。空き巣の正体は何者で、そして今どこにいるのか。一刻も早く、その犯人を探さなきゃいけない。畜生、隠しカメラでも仕掛けておけばよかった。どのようにして見つけ出そうか。頬に汗が伝う。最近は近所でも空き巣が頻発していたというから、同一犯だろうか。なら、次にどの家を狙うか推測して、先回りするのがいいか。いや、時間がかかりすぎる。他にももっとやり方があるか?

 遮光カーテンの隙間から、夜空が急かすように覗く。駄目だ、もっと早くしないと。だって、口を封じなくちゃいけないだろう? 俺は行儀よく着席している白骨死体に声をかけた。

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