第16話 かえり
人が多く、深夜まで明るく照らす建物が多き都会と違い、理歩が暮らした実家の近くは高い建物もなく、日が沈めば灯りも消える田舎。
うっそうと生える木々があるものの、他に何も空を遮るものがない。
墨をこぼしたように黒に染まった空であったが、少しずつ明るくなっていく。
よく見えていた小さな星や欠けた月が姿を消し、かわりに名も知らぬ鳥たちが目覚め、空を羽ばたく。
鳥だけではない。規則正しい生活を送る人々も目覚めの時を迎える。
その証拠に、ぶぶぶっと音を立てながら新聞配達のバイクが、理歩の隣を通り過ぎた。
ちらりちらりと理歩の様子をうかがうように、振り返った運転手だったが、何事もないよう去っていく。
それによって引き起こされた風が、理歩の髪の毛を揺らす。
しばらく身につけていた揺れるピアスは、もうそこにはない。
走っている最中に落としてしまったようだった。
(朝……嫌いだ、朝なんか。もう、来なくていいのに……)
明るい光りを放つ太陽が憎い。
こんな暗い気持ちなのに、平等に光を与える太陽が、アウトドアな理歩の気持ちをねじ曲げた。
あんなに外に出ることが好きで、体を動かしたいとさえ思ったのに、今は嫌いになっていた。
太陽なんかなければいいのに。朝なんか来なければいいのに。
全てを否定してまでも、理歩は歩みを止めない。
唯一残された居場所を求めて進む。
もう新聞が届き始めるような時間ともなれば、次第に人がどんどん出てくる時間だ。
仕事や学校、中には遊びに行く人もいる。
きっと、誠士朗も仕事へ向かっただろう。
朝ご飯は食べただろうか?
何も用意しなかったな。
昨日はお風呂に入っただろうか。
新しいボディーソープには気づいただろうか。
いつの間にか誠士朗のことを考えてしまい、もうどうでもいいことなのだと、何度も自分に言い聞かせる。
深夜から歩くことすでに六時間は経過していた。
足はまめができてはつぶれを繰り返し、靴の中は血だらけだ。だが、それを治療や手当てする道具は何一つ持っていない。
いくら痛んでも、どうすることもできない。
だから理歩は足を止めるよりも、進むことを決めた。
もう始発電車は動いている。お金があれば乗れたが、今更どうすることもできない。
絶望に打ちひしがれながら、理歩は何とか見慣れた地域までたどり着いた。
「あ……」
知らない家の庭に、誠士朗とともに見に行った冬に咲くチューリップが並んでつぼみを膨らませていた。
果歩のふりをしていたとしても、理歩にとっては初めての誠士郎とのデート。緊張もしたし、イライラしたこともあったが、あの時はまだ、明るい気持ちでいっぱいだった。
何時間前の出来事が、今ではもう、何年も前の出来事のようにさえ感じる。
明るい色の花をぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい。
そうすれば、スッキリするのではないか。
一瞬だけよぎった、悪い行動を振り払うように頭を振る。
栄養もなにも足りていない頭は、それだけでぐわんぐわんと脳が揺れた気がした。
「い、え……」
曲がり角を右に曲がれば、すぐそこが実家というところまで来た。
やっと落ち着くことができる。少しだけ明るくなった気持ちのおかげで、足取りが軽い。
もう嘘をつかなくていい。そんな思いもあって、気が楽になっていた。
「おと、うさんっ……!」
家兼店では、理歩の父親が店を開ける準備をしていたところだった。
入口の掃除のために、ホウキで床の汚れを取り除く父親。
たった一週間ほど会っていないだけだったのに、とても懐かしく思えた。
「なっ……!」
理歩は最後の気力を振り絞って、痛みを堪えながら父親に駆け寄る。
カツカツと鳴るヒール音に振り返った父親は、突如として現れたボロボロの理歩に目を見開いた。
まるで果歩のような見た目で家を出た理歩なのに、たった一週間で果歩のような可愛らしい見た目を捨てている。
見た目の変化、そして、妻……理歩の母親から聞いていた「全てがバレてしまったかもしれない」という可能性が、現実であることを悟る。
「お父さん、ごめっ……」
うまくやれなくてごめんなさい。
それを伝えようと、父親へ一歩ずつ近寄る。
仕方ないと受け入れてくれるだろう、そう思っていた理歩の想像は裏切られた。
「来るな。うちに娘などいない」
父親は持っていたホウキを大きく振る。
柄の長いホウキ。とっさの行動で、理歩は一歩下がったことで何とか当たることはなかった。
しかし、そのまま後ろに尻もちをつくように倒れ込む。
何が起きたのかもわからなかった。なぜ尻もちをついたのかも。
口を開けたまま、呆然とする理歩。
そこへさらに追い打ちをかけるように、たたみ込む。
「えっ……?」
冷たい液体をかけられてハッとする。
それが水であることを理解するまで、五秒かかった。
冷たい水をかけたのは、紛れもない目の前にいる
父親。なぜなら、その手にバケツが握られているからだ。
「疫病神」
父親の言葉に、理歩の体は精神的にも物理的にも冷たくなっていく。
冷水で濡れた体は、風に吹かれ、余計に冷たく感じる。
自分の存在は望まれてなんかいない。存在を否定され、行く場所も、生きる意味を、今、失った。
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