第17話
エピローグ
三月の末、今川の河畔の桜は満開に近づいている。休日の朝、お父ちゃんとお母ちゃん、犬三匹のファミリーは、散歩がてら花見と洒落こんだ。朝食は桜を見ながら摂ることにして、途中のコンビニでおにぎりとお茶を買いこんだ。
川原の散歩コースを一往復して、一家は土手の斜面に垂れる桜の枝の下に腰を下ろした。「ワラシも因果にはまってしまったなぁ」
お父ちゃんが対岸の桜並木を見ながらボソッと言った。対岸の堤にもピンクの帯が連なっている。
「因果って?」
「因果だよ。親の因果が子に報いって言うじゃないか。まさにそれだよ」
「どういうこと?」
「いや、ツムジという子が生まれてきたことだよ。ワラシにとってツムジは鬼子だよ」
「あなたのせいよ」
「うん。救われないよな」
お父ちゃんは苦しそうに空を仰いだ。
「ワンちゃんも人間と同じなんだな、因果に囚われるのは。もっとフリーな存在かと思っていたんだ、動物は。だから人間を癒してくれるんだとね。ところがワンちゃんも因果を背負って生きていく他はない」
お父ちゃんはそう言うと、吐息を一つついて、掴んでいるおにぎりを齧った。お父ちゃんとお母ちゃんの前には三匹が座って、食べ物をもらおうと一心に二人を見つめている。二人は交互に、三匹に公平に、ごはん粒や、中の具(但し、やってもいいものだけ)を与えながら話をしていた。
「最近ワラシがわがままになってきただろう。あれは一種のストレス解消だと思うんだ。逆に言えばストレスが増えてきてるんじゃないかな」
「ただでさえ短い生涯を、もっと伸び伸びと楽しく過ごさせてやりたかったな」
そう言ってお父ちゃんはワラシの顔をじっと見つめた。
「今ごろ言っても仕方がないでしょ」
お母ちゃんはツムジの方を向いて、
「あんまり言うとツムちゃんがかわいそうよ。ツムちゃんも一生懸命生きているんだから。ねぇ、ツムちゃん。ツムちゃん、かわいいねぇ」
とツムジの顔を覗きこむ。ツムジはいつもの、黒目と白目の区別のはっきりした大きな目で、お母ちゃんをしっかり見て、尻尾を振る。
「そうだね。この子も生きてるんだね」
お父ちゃんは頷いた。
「後ろを向いても仕方がないでしょ」
「でもな、かけがえのないワラシの一瞬一瞬が消え去っていると思うと」
「俺はワラシに期待をかけていた。自由で気高く、優しい犬になってほしかった。まるで人間に望むようなことだがな。そんな犬は犬らしくない犬かも知れない。でもワラシはそのように育っていった。ワラシは賢い子だった。俺の願いがわかるように、そのように育っていったんだ」
「ところが子供が生まれてワラシは変った。変らざるを得なかった。並の犬になってしまった。この一瞬一瞬にも、ツムジのプレッシャーの下で、ワラシはワラシらしさを失い、つまらない犬に変形させられている。痛々しい。かわいそうだ。解放してやりたい」
お父ちゃんは胸中の苦しさを吐き出した。そして思い直したように、
「こんなこと言っても仕方ないんだけどな」
と苦笑いした。
「でもワラシはいいお母さんよ」
「そうかね」
「優しいお母さんよ。子供を庇うし、子供に譲るし」
「そういう面から言えばね」
「それでいいのよ。ワラシは私の代りにお母さんになったのよ、立派なお母さんに」
「それはそうだな。でもワラシは幸福と思うかい」
「それはわからない」
「ワラシが幸福ならいいんだけど」
お父ちゃんはワラシの顔を見つめた。お母ちゃんがワラシの口に納豆を二、三粒箸で取ってあてがった。ワラシはパクッと食べた。
「全てを望んでも無理よ。あなたは欲が深過ぎるのよ。だからワラシに子供を産ませたんでしょ」
「そうだよな。ワラシに牝犬としての経験を百パーセントさせようと思ったんだよな」
お母ちゃんはお父ちゃんの言葉を聞いて微笑を浮かべた。そして、
「ワラシはそれなりに幸福よ」
と言った。
「どうして」
「家族に囲まれてるんだから。ノラちゃんと比べたら天国と地獄よ」
「野良犬と比べたらそりゃそうだろうけど」
お父ちゃんは苦笑した。お母ちゃんは少し真顔になり、
「ワラシは確かに変ったかもしれない。でもそれは強いられたからじゃない。お母さんになるために、この子たちと一緒に生きていくために変ったのよ。それはそんなに不幸なことかしら」
と言った。
「どうなんだろうかね」
お父ちゃんは考えこんだ。そして数日前の出来事を思い起こした。食事の終りがけ、ワラシは例によって食べ物がまだあちこちに付着している食器から離れて行った。その時ツムジはまだ自分の分を食べていた。ワラシの残飯を横から狙っていたわけではなかった。その光景を見て、お父ちゃんはふと、ワラシはツムジが後で舐め取るだけの食べ物をわざと残しているのではないか、と思ったのだ。ツムジを恐れてではなく、母親の思いやりによって。
「ワラシはワラシで結構張り合いがあるんじゃないの。少なくともあなたが考えるほど不幸ではないはずよ」
「そうかね」
「ワラシもやられてばかりじゃないのよ。ツムジに吠え返して、ちょっかい出すのをやめさせたのを何回か見たわ」
「ほう、本当かね」
驚くお父ちゃんにお母ちゃんは頷いた。
「まぁ、折り合っていくわよ、そのうち」
お母ちゃんはそう言って三匹を微笑みながら眺めた。そうなのかもしれない、とお父ちゃんは思った。そう思うより他はないようだった。
川原にはコンクリートで舗装された散歩道が設けられている。散歩道にはスタート地点から百メートル毎に距離が記されている。その上をジョギングする人が走っていく。ウォーキングする人が歩いていく。犬の散歩をする人も通る。
「もう一回、今度はあっちの方に歩いてみるか」
食事を終えた一家はお父ちゃんの呼びかけに立ち上がった。
今度はお父ちゃんがカティアとツムジのリードを持ち、お母ちゃんがワラシのリードを持った。
一家の姿が桜並木の下を遠ざかっていく。
ワラシ・ファミリー 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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