第14話

 夕方の散歩の時のこと。田んぼの畔道を行ったので、ツムジとカティアのリードを外した。ワラシは気ままなので外せない。子供二匹は例によって先行し、二十メートルほど先にいた。するとカティアが頭を低く下げ、速足で進み始めた。排便の兆しだ。お父ちゃんは焦った。早く追いついて、出た糞を紙で取らなければならない。遅れると、カティアが自分の糞を食べてしまう。カティアにはその悪癖がある。幼犬時についた癖でまだ抜けない。お父ちゃんはワラシのリードを引いて急ごうとした。ところがワラシは例によって動かない。そんなワラシを引っ張るのが億劫になったお父ちゃんはリードを手放した。そしてカティアに向かって走った。突進していたカティアは立ち止まり、ウンチの体勢になった。そしてお父ちゃんが着く前に脱糞した。走り着いたお父ちゃんは広告紙を急いで糞の上に被せ、掴み取った。ほっとして振り返ると、ワラシはお父ちゃんがリードを離した同じ地点にいる。「ワラシ! 来い!」と叫ぶが案の定動かない。もう一度叫ぶ。見向きもしない。お父ちゃんは口笛を吹いた。ツムジやカティアはこれをやると大抵駆けてくる。だがワラシには効果がない。「ワラシ! 置いて帰るぞ! バイバイするか!」とお父ちゃんはヤケ気味に叫ぶ。これだけ促せば、普通の犬なら少しは近寄ってくるものだが、全く動かない。結局、お父ちゃんはワラシのところまで戻り、引っ張ってこなければならなかった。子供二匹は動かずに待っていた。腹を立てていたお父ちゃんは、ワラシに自由を与えず、引っ張り続けて家まで帰った。そしてお母ちゃんにそのことを話し、「こいつはわがままだ」と言った。

 食事の時、「よし!」と言う前にワラシが食べ始めることが多くなっていた。お父ちゃんが「ワラシ待て!」と言っても食べ続けるので、頭を軽く叩くこともあった。「お座り!」と言ってもワラシだけ座らない。トリミングに出すと、ワラシだけは毛を短く切られた臀部を床に着けるのが不快なようで、着けては上げを繰り返し、座れないことは以前からあった。だが近頃はトリミングをしていないのにきちんと座らない。それで昨日は何度も「お座り!」を言い、尻を押さえて座らせた。ツムジから被るストレスを思いやって、何かと甘くなる二親だが、甘やかし過ぎて、近頃ワラシはわがままになっているとお父ちゃんは思っていた。

 お父ちゃんは、罰としてワラシを最後に洗うことにした。おまけに、子供二匹を洗い終わると、食事作りに気を取られて、土間で待っているワラシをしばらく忘れてしまった。待ちぼうけを食わされたワラシは、珍しく上がり口に前足を上げ、不安そうにお父ちゃんの顔を見上げていた。

 その日の晩、居間で寛いだお父ちゃんは、側にいたワラシに、ポンポンとクッションを叩いてみせた。ここに寝ろという意味だ。ワラシはこういう時、すぐには応じない。しかし、しばらくすると、お父ちゃんが指示した通りになっていることが多い。ところがしばらくして、クッションではなく、その前の、絨緞とホットカーペットの境目を体の下にして寝ているワラシにお父ちゃんは気がついた。なぜ言う通りにしなかったのか。ツムジはちゃんと座布団の上に寝ているのだから遠慮する必要はないはずだ。と、そう考えて、お父ちゃんはハハーンと思い当った。散歩の終わりにグイグイ引っ張られ、おまけに待ちぼうけを食わされたことに反発しているのだ、と。ワラシには確かにそんなことを思わせる面があった。自尊心が強い反面、意地っ張りなのだ。

 ワラシのそんな性格について、お父ちゃんは最近強烈な体験をしていた。

 ワラシはオカキや豆が好きだ。特にそれが人の口の中でドロドロになったやつを口移しでもらうのが大好きだ。その味を教えたのはお父ちゃん。だからお父ちゃんがオカキを食べ始めると、ワラシはお父ちゃんの目の前に来て、目と口元を交互に見つめる。

 お父ちゃんは夕食後、いつものように居間でテレビをみながら焼酎を飲んでいた。ワラシはお父ちゃんの斜め前方に寝ていた。お父ちゃんの酒肴はオカキ。既にワラシや子供たちはその幾片かを与えられ、給与の終了を意味する「チャン、チャン」(手を叩いてこう言う)をお父ちゃんから宣せられていた。近頃とみに食欲旺盛なワラシは特に多く与えられ、お目当ての口移しも受けていた。それで三匹はもう寝ていたのだ。お父ちゃんはこっそりオカキの袋に手を伸ばした。一つを取り出すと、被いのビニールを裂いた。小さな音がした。しかし、その音でワラシは顔を上げた。子供たちは寝たままだ。お父ちゃんは舌を巻いた。何と敏いワラシの耳だ。この音はまた格別なのだ。仕方がない、とお父ちゃんはオカキの一かけらをワラシに投げた。あれだけやったのに、と少々うんざりした気持だった。オカキはワラシの顔の十センチほど前に落ちた。お父ちゃんはワラシがすぐ身を乗り出して食べるだろうと思っていた。ところがどうしたことか。ワラシは少し首を伸ばしたが、それで届かないと知ると、お父ちゃんの顔を不満気にジロリと見て、また寝てしまった。えっ、たべないのか。お父ちゃんは驚いた。なぜ食べないんだ、あれだけ食い意地が張っていたのに。わずらわしそうに投げてやったのが気に入らないのか。食べ物を投げ与えることは確かにお父ちゃんが日頃しないことだった。ワラシはそのまま寝入ってしまい、そのかけらを遂に食べなかった。一筋縄ではいかない心性を見せ付けられた思いのお父ちゃんは内心唸った。


  

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