第13話

 ワラシに関しては悪役になってしまうツムジだが、良いところももちろんある。散歩の時、二親の手を取らないのがツムジだ。指示によく従うし、勝手な行動をしない。「ストップ」と言えば止まるし、「来い」と言えば駆けてくる。だから田んぼの畦道など車の通らない場所を散歩するときは、ツムジだけはリードを外しても大丈夫なのだ。臆病ということもあるが、ツムジはリードを外しても飼い主からそんなに離れない。五、六メートルも先行すると振り返る。そしてその距離を保つ。飼い主が立ち止まると、ツムジも立ち止まる。むしろリードを付けた方が飼い主を引っ張って、遮二無二前へ進もうとする。

 散歩の時に限らない。ツムジは三匹の中で飼い主に一番従順な犬だ。散歩から戻ると、足や口元などの汚れを洗う。洗う順番はお父ちゃんが毎回迷うことだ。出来るだけ公平にしたい。しかし前回の順番が分からない。お母ちゃんが洗っておればこれはもちろん分からないし、自分が洗っていても覚えていないことが多い。それはともかく、順番が最後になっても、ツムジは土間から上に上がることはない。うるさく吠え続けるが、板の間には上がってこない。カティアはリードを外すと、そして洗われる順番が一番ではないとわかると、矢も盾もたまらないという身振りで板の間に飛び上がる。上がり口のサークルを閉ざしていても、それを鼻先で押し開けて上がってくる。ワラシも時にそれがある。ツムジはサークルを開けていても上がってくることはない。ツムジは洗い場と脱衣場との区別もしっかり守る。風呂場の洗い場で洗い、タオルで拭いた後、脱衣場に出てくるというのがルールだが、ワラシとカティアは「待て」と言っていても、すぐ濡れた足で脱衣場に出てしまう。だから仕切りの扉を閉めていなければならない。ツムジは待つ。体を拭いて「よし」と言われるまで、ウーウーと唸りながらでも扉の敷居を越えることはない。たとえ扉が開いていても、だ。ツムジの本質は主人に忠実な愛すべき犬なのだ。忠実だからこそ飼い主への依存度も高く、愛情に対する独占欲も強くなるのだろう。ツムジは一匹で飼われれば何の問題もなく幸福に過ごせたはずだ。

 散歩の話に戻れば、カティアも指示には従うが、時折気ままなところが出る。田んぼの畦道などでリードを外すと、さっと駆け出して、二、三十メートルも先に行ってしまう。「ストップ! 」と叫べば立ち止まるが、少し近づくとまた駆け出す。気ままさが昂じれば、遥か彼方に行ってしまって、呼べど叫べど戻ってこないということにもなる。

 一番手のかかるのがワラシだ。よく言えばマイペース。しかし、何とも気ままな散歩だ。突然足を踏ん張って立ち止まる。リードと反対方向に体を傾け、引っ張る力に抵抗する。リードが緩むと、さてそれから周囲を見回し、地面を嗅いだりし始める。どうも何か気になるものがあって立ち止まるのではないようだ。立ち止まる、そのこと自体が目的のようなのだ。そんな立ち止まり方を何度も行う。かと思うと、気になるニオイでもあったのか、突然Uターンを始める。オイ、オイ、という感じで飼い主は引き戻される。結構力がある。これも何度か繰り返される。近頃は「ニオイフェチ」とお母ちゃんが言うように、執拗に嗅ぎまわり、なかなか前に進まない。田んぼの中でリードを離すと、遥か後方に遅れてしまう。呼んでも顔も振り向けない。知らん顔で草の中を嗅いでいる。ボケーと遠くを見て動かないでいることもある。呼ばれてとぼとぼと近づいてくることもあるが、すぐ途中の何かにひっかかり、止まってしまう。もっとも、ワラシばかりを責められない。こんな気ままな散歩スタイルを教え込んだのはお父ちゃんだから。(お父ちゃんとしてはワラシの自主性を育もうとしたのだが。)お父ちゃんはそのことで時々お母ちゃんから文句を言われる。

 散歩の時、ワラシの歩き方には二通りある。一つは速足。首筋を伸ばし、リズムよく四肢を動かす。顔はきりっとして前方を見つめている。上機嫌に笑顔の時もある。もう一つはヨタヨタ歩き。体を左右に揺らし、一足ごと投げ出すように歩く。目も口もへの字に垂れ、口から舌を出していることが多い。目は眩しそうに細められている。一見して疲れていると思わせる。しかしまた速足に戻る。ワラシはこの二通りの歩き方を交ぜて歩く。子供たちの歩き方は一様で、ワラシのような顕著な変化は見られない。

 そうだ。リードを付ける時のことを述べておこう。「さぁ、散歩にいくぞ」とお父ちゃんが呼びかけると、真っ先に反応するのがツムジだ。上がり口まですぐ出てくる。お父ちゃんは首輪を頭から通し、胴体に回す輪の差込みを留める。次にカティアが出てくる。これも抵抗なくリードを装着。カティアは差込みを嵌めるカチャッという音がすると、それが合図のように出口に向かって駆け出すという癖がある。問題はワラシだ。ワラシはリードを付けられるのが嫌いだ。それで逃げ回る。テーブルの下に入り込むと、一人では追い出せない。お母ちゃんが居る時は反対側から追い出してもらうが、お父ちゃん一人の時はお手上げだ。「バイバイするか、ワラシ。バイバイするぞ」とお父ちゃんは言う。もう、お前はほっといて散歩に行くぞ、ということだ。そう言われるとワラシはキョトンとした顔をする。お父ちゃんが実際、ツムジとカティアを外に連れ出して、勝手口の戸を閉めると、「ワン」と吠える。ワラシのその声を聞くと、お父ちゃんは〈しめた〉とも思うし、毎度のことなので、〈バカめ〉とも思う。戻って戸を開けると、ワラシが上がり口まで出てきている。リードを付けて連れ出す。今度は素直に付けさせる。しかし、遂に吠えもせず、散歩をボイコットしてしまうこともワラシにはある。リードを嫌って逃げるワラシを見て、近頃カティアがそのマネを始めたようなのもお父ちゃんには気掛りなことだ。

 一匹時代のワラシは、散歩の折、他の犬に吠えることはなかった。たとえすれ違う相手の犬が吠えかかってきても、吠え返すことはなかった。おっとりしていること、おおようであること。それこそお父ちゃんがワラシを育てるに当って、漠然とながら目標にしていたことだった。そんなワンちゃんに育ってほしいと願っていた。もう一つ思っていたことはできるだけ自由を与えてやりたいということ。それらは教師であるお父ちゃんが生徒に接する場合にも思うことだった。他の犬に吠えかけられても吠え返さないワラシ。人から「おとなしいねぇ」と言われるワラシ。それはお父ちゃんの密かな満足であり、誇りでもあった。

 それが三匹で散歩するようになって変わった。ツムジとカティアが通りかかる犬に吠えかかるのだ。もちろん全ての犬にというわけではないが。子供二匹が吠えるとワラシも吠える。これは群意識か、あるいは子供を守ろうとする親心か。「こら!こら!」とお父ちゃんは犬たちを叱り、リードを引かなければならない。そして相手の飼い主に「すいません」と頭を下げなければならない。やがてワラシは三匹の先頭をきって吠えかかるようにもなった。ワラシの品位が落ちた、とお父ちゃんはがっかりした。せっかく思い通りの犬に育っていたのに、そんじょそこらの普通の犬に成り下がったという思いが胸を噛んだ。ワラシに起きるマイナスの変化。ツムジとワラシの不和合とともに、これも子供を産ませたことがもたらした、お父ちゃんを落胆させる出来事だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る