第12話
ついでに階段の上り下りについて語ろう。お父ちゃん夫婦の居間と寝室は二階だ。階下はジイジ、バアバの居住区域だ。食事は一緒にするが、寛ぐ時は二人は二階に上がる。階段はワラシが一匹の時から抱えて上り下りしてきた。犬が勝手に上り下りしてはジイジ・バアバの迷惑になり、管理もできないからだ。お母ちゃんはそれに、段差のある階段の昇降はワンちゃんの腰を痛めるという理由を加える。人の手を借りなければ昇降できないと観念しているワンちゃんは、その必要を吠えて知らせる。一番うるさいのがツムジで、幼犬時代の習性そのままに、人が来るまで吠え続ける。二度も昇降するのは嫌だから、お父ちゃんは二匹を両脇に抱えて一度で済まそうとする。そんな時、ワラシはお父ちゃんの手から逃れる。そんな手抜きはごめんだよ、というように。確かに一匹ずつ抱えられた方が快適だ。胸とお尻の二点を支持されて安定する。だが、子供たちはそこは素直だ。お父ちゃんの指示通りになる。ただし、スムーズにいくわけではない。二匹を抱え上げる位置に並べるのに手間がかかる。ツムジは階段の降り口にいるので、お父ちゃんはカティアを呼ぶ。が来ない。仕方がないので側に寄って、「さぁ、カティア、下に降りようか」と声をかける。カティアはお父ちゃんを見上げて、ピョンピョンと跳ねる。跳ねながら後退る。これはカティアだけがする愛らしい動作だ。幼犬の時はどの子もしていた動作だが、カティアだけに残っている。カティアを降り口に連れてくると、今度はツムジがどこかに行こうとする。こういう抵抗を見ると、子供たちもやはり一匹ずつ抱かれたいのだなとお父ちゃんは思う。カティアとツムジの並べ方には決まりがある。カティアは必ず左側でなければならない。カティアをツムジの右側に置いて抱き上げようとすると、カティアは激しく抵抗し、腕をすり抜けて逃げようとする。降りる時も昇る時も、カティアは必ず左脇に抱き上げなければならない。理由は不明だ。
食事は朝、夕二度与える。甘藷・南京・大根・里芋などから選んで細かく切ったものに、白菜・キャベツ・小松菜・ブロッコリー、ゴーヤなど、時季の野菜を二、三種類加える。肉は鶏の胸肉。時折、レバー、あるいは魚肉。包丁でこれらの食材を刻むのがなかなかの手間で、お父ちゃんはフウフウいう。
並べられた三つの食器の前に三匹が集まる。この時、カティアが珍妙な儀式をする。慌てて何かを探し、それを銜えてくるのだ。それはお気に入りの縫いぐるみだったり、ボール遊びのボールだったりする。それを食器の側に置く。この行為にどんな意味があるのか。お母ちゃんはボール遊びの延長だと言う。ボール遊びの時、お母ちゃんはボールを取ったものに食べ物を与えることでツムジとカティアを競わせることがある。食べ物の代償としてボールを差し出したという記憶が生み出す行動だろうと言うのだ。しかしツムジは全くしない行動だ。
「待て、ぞ」とお父ちゃんは声をかけ、三匹の前に屈む。「お座り! 」と号令する。三匹は神妙な顔付きで腰を落とす。お父ちゃんは三匹の顔を順に見回す。カティアとツムジはお父ちゃんの目をしっかりと見返し、「よし」の合図を今や遅しと待っている。ワラシは食器を見たり、横を向いたり、お父ちゃんと視線を合わせない。お父ちゃんは合掌し、「いただきまあす」と大きな声で言い、三匹の目をもう一度見て、「よし! 」と言うと同時に食器を指差す。カティアとツムジは即、食べ始める。ワラシはポカンとしている。お父ちゃんはワラシの顔を覗き込み、「ワラちゃん、よし! 」ともう一度言って食器を指差す。この時はさすがにワラシも目を合わせる。なぜワラシは一回で食べ始めないのか、と考えたお父ちゃんは、自分に言われていると分からせるため、「よし! 」はワラシの目を見ながら言うことにした。しかしそれでもワラシは食べ始めないこともある。確かにワラシが一匹の頃は食べ始めの合図などなかった。彼女は自由に食べ始めていた。だから馴染めないのかもしれない。身に付いた習慣は簡単には変えられない。
ツムジは食べ終わると、ワラシの食器を窺う。カティアではなく先ずワラシだ。ワラシはまだ食べている。ツムジはワラシの食器の方に首を伸ばし、じっとそれを見つめている。ワラシは九割方を食べ終わると、食器の反対側に回り、また食べ始める。そうすれば残りも食べやすいし、食器の反対側の外縁の、見えなかった部分に付着している食べ物も舐めとることができる。いつしか身につけた生活の知恵だ。一通り食べ終えたワラシは顔を上げ、何か考えるような様子をする。食物はまだ器の内外に付着している。しかしツムジが顔を近づけてくる。ワラシは、諦めた、と言うように頭を一つ振ると、食器から離れる。と、すぐにツムジがワラシの食器に鼻先を突っ込む。ワラシの食器をきれいに舐め上げると、カティアの食器に向かう。これも一片の食物も残らずきれいになる。ひとの食べ物が気になるという性癖によって、残飯整理がいつしかツムジの役目となった。
お父ちゃんは、ワラシがまだ十分に食べ終わらないうちにツムジがワラシを追いやることがないように監視している。早くも自分の分を食べ終えたツムジは、ワラシの食器に近づく。これは早すぎると思ったお父ちゃんは「ツムジ、待て! 」と声をかける。ツムジは動きを止めるが、ワラシの食器に向かう姿勢はそのままだ。このままいつまで我慢できるか。次の瞬間にはウォッとワラシに噛みつくかも知れない、という危惧がお父ちゃんの胸に広がる。「待てよ、ツムジ」とお父ちゃんは声をかけ、ワラシとの間に手を入れる。ワラシが食器の反対側に回る。「大丈夫だぞ、ワラシ」とお父ちゃんは声をかける。「ゆっくり食べろ」ところが、ワラシは食べるのを止め、首を一振りすると食器から離れる。大丈夫なのに、なぜなんだろうとお父ちゃんは考える。そんなにツムジが恐いのか。食器から離れた時、〈お父ちゃんに守られてまで、食べる気はないよ〉というワラシの囁きを聞いたような気がした。俺に守られることがツムジの嫉妬心を刺激し、反ってその後の攻撃を惹き起こすとでも思うのか、とお父ちゃんはワラシの心中を忖度する。つまり、有難迷惑なのか、と。
ある晩、こんなこともあった。お父ちゃんがトイレに立って、戻ってくると、ツムジがお父ちゃんが座っていた座椅子に寝ていた。お母ちゃんなら我慢するところだが、お父ちゃんは苦笑いをしてツムジを抱き上げ、絨緞の上に移した。ツムジは嫌がらず、そのまま寝続けた。そのツムジの横にクッションがあり、その上でワラシが寝ていた。しばらくするとワラシはクッションから下り、部屋の隅に脱ぎ捨ててあるお父ちゃんの服の上で丸くなっていた。(ワラシは二親が脱いだ服の上で寝るのが好きだ。洗濯されたものの上も。)ツムジが居場所を失ったのを知ってクッションを譲ったのかとお父ちゃんは思った。ツムジは要求していないのに。それほどツムジが恐いのか。ワラシのこのようなツムジへの「気遣い」と取れる行動に出会うと、お父ちゃんの気持は暗くなるのだった。
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