第11話


 カティアとツムジは初潮があってしばらくしてから避妊手術を行った。初潮の前に避妊をすると成犬への成熟が害われるとお母ちゃんは医者から聞いていた。二親にはこれ以上飼い犬を増やす気はなかった。また何かの間違いでカティアかツムジが孕んでしまう事態を恐れた。それで避妊をすることにしたのだ。ワラシもこの際避妊手術をしておくことにした。ワラシの場合は年を取ってくると発生が危惧される子宮癌などへの予防措置だった。手術を終えたワラシは病院に一泊して帰ってきた。その後の行動がおかしかった。二親の後についてまわる。抱いてくれとせがむ。夜中に意味もなく鳴く。まるで赤ちゃんに戻ったようだとお父ちゃんは言い、お母ちゃんは頷いた。ワラシにとって手術はかなりのダメージだったことが分かり、二親は胸を痛めたが、三週間ほど経つと以前の状態に戻った。二親は胸を撫で下ろした。

 三匹のワンちゃんがそれぞれ怖がるものについて語ろう。まずカティアから。

 この子は音に敏感だ。外部の物音に一番鋭く反応するのがカティアだ。この子が真っ先に吠え、人が出入りする勝手口に走り、他の二匹はすわや! とばかり吠えながらその後を追う。吠え声もカティアが一番気合いが入っている。吠えるとき、この子のお腹はさぞグッと引き締まることだろうと思わせる硬質の甲高い声を出す。カティアの声を軸にして三匹の合唱が始まることもある。三匹がそれぞれ口を上に向けて、長く尾を引く音階の高い吠え声を出す。遠吠えの合唱だ。この時は三匹の間に群れとしての一体感が流れる。ワラシとツムジの軋轢も消え、ワラシファミリーが蘇生したような趣がある。

 音に敏感なためだろう、カティアは雷を怖がる。雷が鳴り出すと、落着かず、部屋のあちらの隅、こちらの隅に動く。見るとブルブル震えている。バアバがおかしいと笑う。笑われてもカティアは浮かぬ顔のまま、不安気な視線を周囲に放っている。ビシッ、ドーンと雷が近くに落ちる。カティアはヒンと小さく鳴いて弾かれたように腰を上げ、次の場所に移る。

 ツムジが怖がるものはたくさんある。既に述べたが子供、特に幼児を怖がる。他にこの子独特なものとして、言わば想像による恐怖がある。例えば見慣れぬ場所に箒が立てかけてある。するとツムジはその箒に向かって吠える。ツムジには箒が自分を脅かす存在のように思えるのだ。いつもと違う場所に置かれたお父ちゃんの肩掛けカバンに向かって吠えていたこともある。あるいは空のビニール袋がターゲットになったこともある。風に揺らぐそれがこの子には危険な生き物のように思えたのだろう。臆病なツムジはこうして頭の中で怖いものをいくらでも作り上げる。見慣れぬもの、その存在に違和感を覚えるものは全て恐怖の対象となる。

 ワラシはどうか。ワラシが怖がるもの、それはツムジか。それはお父ちゃんがそうあってほしくないと願うことだ。それではワラシが怖がるものは何か。それはクシャミ。お父ちゃんとジイジのクシャミだ。お父ちゃんがクシャミをすると、寝ていたワラシは起き上がり、部屋の隅に逃げる。そして怯えた、或いは恨めしそうな目でお父ちゃんを見る。お父ちゃんは、「ごめん、ごめん」と謝り、「大丈夫、大丈夫」と宥める。しかしワラシは戻ってこない。お父ちゃんはクシャミが出そうになると、口を手で覆ったり、ワラシの方向と反対の方を向いたりするが、クシャミが出れば効果なし。そのままで居てくれという願いも空しく、ワラシは尻尾を下げて立ち上がり、部屋の隅に退避する。動物には慣れというものはないのだろうかとお父ちゃんは思う。不思議なのはお母ちゃんがクシャミをしても怖がらないこと。男のクシャミは勢いがよく、音も大きいからだろうか。だが、男のクシャミでも戸外であれば何ともない。散歩中、お父ちゃんがいくらクシャミをしてもワラシは怖がらない。

 クシャミ恐怖症はツムジに感染した。ワラシが怯える様子を見て、ツムジも怯えだしたのだ。怖いものに対するツムジの感受性の鋭さ。カティアは全く平気だ。お父ちゃんがクシャミをした直後でも、お父ちゃんの顔を舐めにくる。

 ワラシの受難は続いている。あれからも何度かツムジに噛まれた。しかし、ワラシの無抵抗は相変らずだ。ツムジのワラシへの対抗心は散歩中のオシッコの仕方にも表れる。ワラシが排尿すると、ツムジは必ずその場所に行き、その尿を嗅いで、その上に排尿する。ワラシの痕跡を一つ一つ消して、自分のそれに変えていくように。一方、ワラシの方はツムジの排尿には全く無頓着だ。嗅ぎもしない。

 ツムジのボール遊びが生彩を加えてきた。数年にわたる練習の賜物か。ボールをダイレクトでキャッチする回数が増してきた。ダイレクトで捕れなくても、ワンバウンドかツーバウンドでキャッチする。ボールの動きをよく見ていて、壁から跳ね返って落ちてくるところ、あるいは床から跳ね上がってくるところをパクッと銜える。熟練した内野手が打球を捕球するようだ。「ツムジの動体視力はすごいぞ」とお父ちゃんは称える。カティアもゲームに加わるが、両者の間には画然とした差がある。好きこそ物の上手なれ。ツムジがほとんど毎夜励んできた結果だ。「うまい! 」とお父ちゃんが叫ぶ。お母ちゃんも「ツムちゃん、うまい! 」と手を叩く。ツムジはボールを銜えて得意満面だ。その顔に嫉妬に駆られたカティアが噛みつく。ツムジは躱す。夕食が終って、一家が二階の居間に上がってきてからしばらくはこのゲームが続く。その間、ワラシは端の方で寝ている。しかし安閑とはしていられない。時折、ボールが飛んでくる。それを追ってツムジが体当りしてくる。不意打ちされたワラシは慌てて起き上がり、不安気にツムジとボールの行方を見守る。そして、ここにはとても居られないというように別の場所に移動する。

 ツムジのボールに対する愛着は、お父ちゃんが〈ツムジの一人遊び〉と名付けたボールとの戯れを生み出した。ツムジが横になって、ボールに顔や体をこすりつけるのだ。顔を押し付けて、ボールが顔の下から背中に回ると、ツムジは仰向けになって、背中でボールを押さえながら、体をくねらせる。四肢が天井に向かって踠くように動く何とも奇妙な恰好だ。押さえたボールが背中の下から飛び出すと、さすがにツムジ、間髪を入れずに跳ね起き、ボールを追ってたちまち銜えてしまう。そしてまたボールを相手にクネクネクネリを始める。この遊びだとカティアにボールを奪われる恐れはない。実際、ツムジはボール投げでカティアにボールを奪われることが重なると、途中からこの遊びに移行することがある。お前は自分だけのものだというツムジのボールへの熱い思いが、その陶酔したような仕種から伝わってくる。

 夕食後の居間でのワラシの唯一の楽しみはお母ちゃんの腕だ。お母ちゃんの腕を体の下に抱え込んで、交尾する牡のように腰を前後に動かす。陰部を腕にこすりつけて快感を得ているのか、開いた口からは荒い息遣いが洩れる。腰のピストン運動が終ると、下膊に口をつけ、両前足で交互に腕を押しながら吸う。赤ちゃんが母乳を飲む時の仕種だ。この二種類の一連の動作はワラシが一歳になる頃から始まった。ワラシは欲求を覚えると、お母ちゃんの顔を下からじっと見つめる。お母ちゃんが応じてくれないとウーと小さく唸る。お母ちゃんもテレビを見たり、手仕事をしたり、あるいはツムジにボールを投げてやったりしていて、すぐには応じられない。ワラシは辛抱強く待つ。十分。時には二十分も。お母ちゃんもそれがワラシの唯一のストレス解消だと思っているので、「しょうがないねぇ」と言って横になり、腕を伸ばす。しかし、お母ちゃんが疲れていたり、その気にならない場合は拒絶を通されることもあるのだ。

 ツムジはお父ちゃんがテレビを見る時枕にしているクッションで眠りたがる。この子の特徴的行動だが、前足でチョイチョイとお父ちゃんの肩をつつく。お父ちゃんは頭を上げ、クッションを半分譲ってやる。ツムジはクッションの上に上がり、そこを何度か前足で掻いた後、丸くなる。このクッションには以前ワラシも好んで寝ていたものだ。今も時折近づいてくることはある。そんな時お父ちゃんは喜んで場所を提供する。しかし、ワラシはいつのまにか他の場所に移動している。ワラシがクッションで寝ていると、ツムジがワラシに鼻先を近づけてクンクンと嗅ぐのだ。恐らく、どけ、といっているのだろう。

 夕食後、ワラシが居間に上がってこないことが時々ある。階下でバアバと一緒に居る。なるほど、居間でツムジのボール遊びのとばっちりを受けるより安気でいられるかも知れない。二階に上がる時、お父ちゃんは「ワラシ、二階に行くか」と一応声をかける。ワラシは顔を伏せたまま反応しない。あるいは顔を上げてお父ちゃんの顔を見ても動こうとしない。そんな時は、「バイバイ」と言ってお父ちゃんは放っておく。無理強いはしない。何事によらずそれはお父ちゃんの基本的態度だが、二階に行きたくないワラシの気持も察せられるだけに尚更だ。それでもしばらく経って、「おおい」と下からバアバが声をかけてくることがある。「お迎えに来て」とバアバは言う。ワラシが二階に上がる気になったのだ。お父ちゃんは階段の下で待っているワラシを迎えに下り、抱えあげて階段を上がる。途中で向うむきになっているワラシの後頭にチュッとキスをする。しかし時には、遂に二階に上がらず、一晩をバアバと過ごすこともワラシにはあるのだ。

 

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