第10話


 さて、いよいよそれを語らなければならないところにきたようだ。

 それは就寝時の寝間で起きた。

 ワラシがお母ちゃんの顔を舐めていた。例によってしつこく長い。すると突然吠え声がして、ツムジがワラシに噛み付いた。ウォッ、ウォッ、ウォッ、と吠えて、二度、三度とワラシの頭に噛み付く。ワラシは無抵抗で、頭を下げ、逃げようとする。「ツムジ! 」とお母ちゃんが叫んで、ツムジの体を掴み、引き離した。それでもツムジは唸りながら、鋭い目でワラシを睨みつけ、隙あらば再びワラシに襲いかかろうとする構えだ。「あんたは何をするんかね! 」お母ちゃんはツムジの両前足の付け根に手を入れて自分の顔の前に持ち上げ、ツムジの目を見据えた。「なんでワラちゃんに噛みつくかね! 」そう言ってツムジの目を睨む。ツムジもその大きな目でお母ちゃんの目を見返しているが、ふと目を逸らす。「承知せんよ、こんなことをしたら! 」お母ちゃんは持ち上げたツムジの体を揺すぶって言う。

「どうしたんか」

 びっくりして起き上がったお父ちゃんが側から訊く。

「ツムジがワラシに噛みついたんよ、ワラシが私の顔を舐めよったら」

 お母ちゃんはツムジの目を睨んだまま答え、

「つまらんよ、こんなことしたら。ええかね! 」

 と大きな声で言ってまたツムジの体を揺すぶった。そしてツムジを下ろした。ワラシは布団の裾の方に逃げて、不安気にツムジを見ている。ツムジは首筋を立てて、そのワラシになおも近づこうとする。お母ちゃんは「こらっ」と言ってツムジの体を掴まえ、頭を片手で叩いた。そして再びツムジを持ち上げ、「あんたはまだ分からんかね」と睨みつけた。「今度やったら部屋の外に出そう」とお父ちゃんが言った。

 これがツムジのワラシに対する攻撃の始まりだった。お父ちゃんは嫉妬と解釈した。ツムジは飼い主の愛情を独占したい。だからお父ちゃん、お母ちゃんに可愛がられるワラシが憎らしいのだ。顔を舐めるのは飼い主を独占する行為で、自分がやりたいことを目の前でやられては我慢ができないということではないか。

 お父ちゃんは暗鬱な気分になった。ワラシに子供を産ませたことの最悪の結果が起きようとしているのではないか。

 繰り返してほしくないことだった。二度とあってはならないことだった。しかしそれはまた起きた。ワラシが今度はお父ちゃんの顔を舐めていた時。ウォッ、ウォッ、とツムジの勢いはすさまじい。ワラシの頭に噛みついて離さない。お父ちゃんは起き上がり、「こらっ」と叱りながらツムジの体を払いのけた。そして、なおワラシに向かっていこうとするツムジの頭を叩いた。お父ちゃんとしては叩きたくはなかったが、仕方がなかった。ツムジは頭を叩かれてもワラシを睨んでいる。こたえないのかと思ったお父ちゃんはもう一つツムジの頭を叩いた。ツムジはお父ちゃんを見上げた。「つまらんぞ、お前は! 」とお父ちゃんはその顔に言った。そしてお母ちゃんがしたようにツムジを持ち上げ、その目を睨んで、「なんで噛みつくんか、ワラシに。お前のお母さんだぞ! 」と叱った。ツムジは何で怒られるんだというように、その鈴を張ったような目でお父ちゃんを見返していた。

 ワラシはそれからは顔を舐める時、ツムジの様子を窺うようになった。近づいてきて、顔を舐めようとする前にツムジの方を見る。ツムジは寝ている。「大丈夫、大丈夫」とお父ちゃんはワラシに声をかける。そして念のためにツムジとワラシの間に腕を置く。ワラシは舐め始めても一、二分で中断してツムジに目をやる。ツムジに動きがないことを確かめてまた舐め始める。そんなワラシの様子をみるのはお父ちゃんにはつらいことだった。一匹でいた時は二親の愛情を一身に受け、のびのびと暮らしていたワラシだった。それが自分の子供に気兼ねして、楽しみも思うように享受できない。何ということだろう。ワラシが顔を舐めている間にツムジが起きてくることがある。その時にはお父ちゃんも緊張する。ガードの腕を立てる。襲ってきたら払いのけてやろうと構える。しかしそんな時ツムジはたいていそっぽを向いて、後ろ足で体を掻いたりしている。ワラシがお父ちゃんの顔を舐めているところなど見たくもないのか。ワラシも遠慮するのか以前より短く切り上げるようになった。

 思わぬところでワラシの受難は起こる。おやつを与えている時、親は公平に与えているのだが、不意にウォッ、ウォッと吠え声がしてワラシがツムジに噛まれる。親の指先から落ちたおやつをツムジが食べようとしているところに、ワラシが不用意に近づいたためと分かる。噛みつかれたワラシは逃げようとしたが、ツムジはさらに耳に噛みついた。その時、ワラシはキャンと鳴いた。ツムジに噛まれてワラシが悲鳴をあげたのは初めてだった。お母ちゃんはツムジを二、三発叩いた。お父ちゃんは「やれやれ、ワラシ。ツムジに噛みつき返せ」とワラシを声援した。ワラシの悲鳴は二親の気持を一層ワラシに添わせるのだった。

 一月に一、二回、シャンプーで全身を洗うのだが、ワラシはそれを嫌がって鳴く。ツムジとカティアは諦めがいいというかあまり騒がない。ワラシは洗い場でいつまでも抵抗し、鳴き声をたてる。その声も身も世もないような哀しげな声だ。終りの方がク、ク、クと、か細く途切れながら尾を引く。このワラシの甘え声がツムジを刺激する。シャンプーを終え、風呂場から出てきたワラシにツムジが突っかかる。体当りするように鼻先を近づけ、頭から尻まで全身を嗅ぎまわる。人間で言えば相手の顔先十センチまで顔を近づけて、ガンを飛ばすようなもので、完全に喧嘩を売っているのだ。ワラシは相手にせずにやり過ごしている。

 〈ワンちゃんは一匹が一番幸せなのよ。飼い主の愛情を独占できるから。〉お母ちゃんが友達が言ったこととして伝えた言葉を、お父ちゃんは辛い気持で思い起こす。その通りだった。犬と人間を混同していた。ワラシは母親になることなど少しも望んでいなかった。勝手な思い込みで妊娠させてしまった。お父ちゃんの悔いは深まるばかりだ。

 ワラシが親の権威を示して、一度ツムジに噛みついてギャフンと言わせればいいんだとお父ちゃんは思うのだが、ワラシは歯痒いほど受身な態度に終始する。噛みつかれれば逃げるばかりだ。

 外に出ればツムジほど臆病な犬はない。近所にレオンベルガーという超大型犬とシェパードを飼っているおじさんがいる。散歩の時出会うと、お父ちゃんたちはそのおじさんと話をする。レオンベルガーがフーフー息を吐きながら三匹に顔を寄せる。ワラシの体の半分が中に入りそうな口が眼前に迫ることもある。しかしワラシはビクともしない。尻尾と首を上げて超大型犬の顔を睨みつけている。そしてそれ以上近づこうとすると吠える。体のサイズから言えば十倍は優にある相手に対して大した度胸だ、堂々としたものだ、とお父ちゃんは思う。自分の子供を守ろうとしているのかも知れないとも思う。ツムジを見るとシッポを下げて後退している。こんなツムジを超大型犬をも恐れないワラシが恐れるわけがない。ところがワラシはツムジに対して攻撃的になることがない。逃げるばかりなのだ。

 ワラシの抱え込むストレスをお父ちゃんは思う。我が子がその原因という救いのなさだ。自分の愚かな選択こそがその不幸の原因というお父ちゃんにとっての逃げ場のなさ。いっそツムジをどこかにやろうかと考えることもあった。そんなことを考えること自体、お父ちゃんには恐ろしいことだった。しかしワラシが不幸になることを思うと、背に腹は代えられないという思いにもなるのだった。お父ちゃんがそういう話をすると、お母ちゃんはツムジが可哀想だと言った。確かに人手に渡すことがツムジを不幸にすることは目に見えている。ツムジのような内弁慶がよその家にやられれば、それこそストレスで命を縮めることになるだろう。それではお父ちゃんの寝覚めが悪い。そんなわけで、ツムジをよそにやることもできず、葛藤をはらみながら、二人と三匹の共同生活は維持されることになった。


   

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