第9話

 お母ちゃんに何と言えばよいか。それを考えるとお父ちゃんは重苦しい気持になった。来た時とは違うルートを、ツムジを捜しながら帰ることにした。ツムジの名を呼び、時折口笛でも呼びながら歩く。大きな声を出して通行人の注目を浴びるのはお父ちゃんは嫌だが、仕方がなかった。国道が近づく。家に帰るには国道を横断しなければならない。ツムジが車に轢かれるとすれば車の通行量が多い国道が一番可能性が高い。ツムジの轢死体をみることになるのでは、という不吉な思いを抱きながら、お父ちゃんは国道に着き、信号のある横断歩道の端に立った。道路を眺めるが死体らしきものはない。念のため、もう一箇所の横断歩道まで国道沿いを歩き、確かめることにした。二匹の犬を連れ、暗い気持でお父ちゃんは歩いた。幸いなことに二つの信号の間にツムジの死体はなかった。ひょっとしたらツムジは家に帰っているのかも知れないという思いが浮かんだ。が、すぐにお父ちゃんはその思いを否定した。ツムジがそれほどしっかりした犬とは思えなかった。もしツムジが家に戻っていたら、お母ちゃんが何事が起きたかと心配して家の前に出ているだろうとお父ちゃんは思いながら家に向かった。

 家の前の道に出たがお母ちゃんの姿はなかった。お父ちゃんは家に着いたらワラシとカティアをお母ちゃんに任せて、改めてツムジを捜しに出るつもりだった。

 家に入ったが誰もいない。二階まで上がったがお母ちゃんはいない。ジイジとバアバの姿もなかった。仕方なく、お父ちゃんがワラシとカティアを洗おうと勝手口の土間に戻った時だった。戸が開いてお母ちゃんが入ってきた。何とその足もとにツムジがいるではないか。お父ちゃんは思わずその姿に手を合わせた。「よかった! 帰っとったか! よかった、よかった」喜びの声がお父ちゃんの口から噴き出た。お母ちゃんの話によれば、ツムジはリードを付けたまま一匹だけで戻ってきたという。それでお父ちゃんに何かあったのかと、ツムジを連れて捜しに出た。見つからないので、行き違いになったかと思い、帰ってきたという。家の前で待つよりお母ちゃんは積極的だったわけだ。

 ツムジはよく戻ってきたものだ。一目散に戻ってきたのではあるまいか。この子は普段の散歩でもあまり道草をせず、先頭をグイグイと真っ直ぐ進む。いつも先頭を歩くことで道も覚えているのかも知れない。排尿のため一匹だけで外に出された時など、用を済ますと、即、帰ろうとする。(ツムジはトイレシートに排尿することができない。他の子は覚えたのにツムジだけはだめだった。お母ちゃんはツムジをトイレシートの上に置いて、一時間以上睨めっこで頑張ったけれど、そこで排尿をしなかった。それでツムジだけは排泄のために必ず散歩に出さなければならない。悪天候の場合など、他の二匹は家に置いてツムジだけを連れ出すときがある。)それこそ帰心矢の如しという感じで脇目も振らない。そんなツムジの性向が今回は良い方向に出たのだろう。それにしても国道をよく無事に越えたものだ。まさか信号を見て横断歩道を渡ったわけではあるまいが。リードをしたままだから、それが車輪に踏まれれば咄嗟の動きもとれなかったろう。などと、お父ちゃんとお母ちゃんは何度もこのことを語り合うのだった。ツムジが無事に帰ってきたおかげで失敗が大事に至らずにすんだお父ちゃんはツムジに借りができたように思った。

 カティアの体をよく調べてみると、背中と腹に噛まれて赤くなっている箇所が二つあった。赤くなっているだけで出血はしていない。しかし傷を見つけたことで、噛んだ犬から病菌が入っていないかと心配になった。狂犬病の予防接種をしているかどうかを確認するために、お父ちゃんは噛んだ犬の家の電話番号を調べて電話を入れた。電話に出たのは若い女の声だった。お父ちゃんが、公園でお宅の犬から噛みつかれた子犬の飼い主だと告げると、女は挨拶もなく、「お宅はリードを離していたんですよね」と言った。こちらが何かを請求してくることを警戒しているのがありありと分かる口調だった。「ああ、そうですよ」とお父ちゃんは答えた。そして、「たいしたことはないんですが、二箇所赤くなっているところがありまして、それでお聞きしたいんですが、お宅の犬は狂犬病の注射はしていますか」と訊ねた。女は考えるように少し間を置いたが、「お母さんに事情を聞いて電話をします」と答えた。しばらくしてかかってきた電話は父親からだった。「すいません」と一応謝り、狂犬病の予防注射はしていると言った。それさえ聞けばお父ちゃんには用事はなかった。しかしこの男はお父ちゃんの住所をしつこく訊いてきた。近くにある信号や建物を確かめ、家までの道を確認するのだった。最後にお父ちゃんの名前を再確認した。その口調には、変な要求をしてきたらそちらに乗り込むぞ、と言うような威圧感があった。お父ちゃんは途中から不快を感じたが、男が訊くままに答えた。リードを付けていても犬を統御できない人が散歩させるのはやめてほしいと文句を言ってやろうかと思ったが、余計なことかと言わなかった。

 後の話だが、この男が町議会の議員選挙に立候補した。電話の対応での不快感を忘れないお父ちゃんとお母ちゃんは、あんな男が議員にと憤り、落選を願った。しかし上位で当選してしまった。この男の飼い犬は隣家の鶏を噛み殺したり、通行人に襲いかかったり、種々の悪行をしていることがその後耳に入ってきた。

 幸いなことにその後カティアに身体的な異常は見られず、平常に復した。

 カティアは胆が太いせいか事故によく遭う。この事件の後にも大きな犬に押さえこまれることがあった。その犬の飼い主とお父ちゃん達は散歩で出会えば話を交わす間柄だったが、はずみで犬同士が接近しすぎ、シェパードが突然ワンと吠えて、カティアを前足で押さえてしまったのだ。慌てて引き離して大事には至らなかったが、シェパードの鼻面がカティアの顔から五センチのところに近づいていた。

 カティアの目について語ろう。カティアの両目の周囲の毛は黒い。両目が黒く縁取られているように見える。それはタヌキやアライグマを髣髴させる愛らしい目元なのだ。しかしカティアのその可愛い目をお父ちゃんは正視できなかった。なぜかと言うと、いつも眩しそう瞬いているからだ。目にはいつも涙が溢れている。見ていると、見ている方も目がちかちかと痛くなって、涙が出てきそうになるのだ。だからお父ちゃんはカティアの目をじっくり見たことがなかった。目を正視できないということは表情が本当には分からないということだ。大きな、くっきりした、ドライな目をしているツムジとは対照的だ。どうも目の様子がおかしいということに気づいて、病院に連れて行ったのが生後七ヶ月の頃。原因は逆さ睫だった。抜いたところで、若いからまだたくさん生えてくるということで、獣医は毛根をレーザーで焼く手術を勧めた。承諾して、その日に手術。カティアは病院に

 一泊した。それで状態はかなり改善した。翌年はレーザーはせず、睫を抜いてもらい、それで治療を終えた。しかしカティアの涙目はなおしばらく続き、お父ちゃんがカティアの目を落着いてじっくり見ることができるようになったのは更に後のことだった。


   

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