第8話

 散歩は朝と夕方行う。平日の朝はお父ちゃんは出勤するので、お母ちゃんが一人で三匹を散歩させる。夕方は、お父ちゃんが帰っておれば二人で散歩させる。お母ちゃんの都合によってはお父ちゃんが一人のこともある。休日は朝も夕も二人でする。

 それは勤労感謝の日だった。休日だったがお母ちゃんの体調が悪く、お父ちゃんが一人で三匹を朝の散歩に連れて行った。家を出て二十分ほど経ち、その日目標にしていた大熊公園の近くまできた。相変らずツムジはぐんぐん引っ張り続け、ワラシはマイペースを保とうとする。ツムジを抑え、ワラシを引っ張る、いつものことだがその調節にお父ちゃんはいささか疲れていた。その間にはツムジの大便もあった。大便の時にはポケットから折り畳んだ広告紙を取り出し、踏ん張った犬の尻の下に広げて置く。そして糞が落ちてくるまで待つ。糞の入った紙は丸めてビニール袋に入れる。この作業の間も三本のリードを離さないことが大切だ。しかし犬が突然脱糞体勢に入ることもあるので、そんな時は早く紙を出そうと焦って、思わずリードを一本離してしまうことがある。そういう時、車でも近づいてくれば最悪だ。リードを離した一匹が道路の中央に出ておればちょっとしたパニックに陥る。だから絶対にリードを離してはいけない。お母ちゃんから何度も言われていることなのだが、お父ちゃんは時々守れない。

 大熊公園に上がるスロープに入った。ツムジが勢いづく。お父ちゃんを更に引っ張る。もういいのではないか、とお父ちゃんは思った。公園に着いたことだし、この辺で自分と犬を解放してやってもいいだろう。上にどんな犬がいるかわからないのだから、確認するまではリードを離してはいけない、とお母ちゃんに言われていたことが頭を掠めたが、お父ちゃんは三本のリードを一度に離してしまった。ツムジとカティアは喜び勇んでスロープを走り上って行った。

 スロープは途中で直角に曲がっていた。二匹の子犬はその角を回って見えなくなった。お父ちゃんは歩を速めた。後ろからワラシがついてきていた。小走りにお父ちゃんは直角を回った。前方のそれほど離れていない位置にカティアとツムジがいるのを見て、お父ちゃんは少し安心した。二匹を見ながら二、三歩ゆっくり歩き、後ろを振り返った。ワラシが角を回ってきたところだ。道端の草を嗅いでいたが、不意にくるくると回り始めた。排便の兆しだ。お父ちゃんはツムジとカティアに目を戻した。と、カティアが突進体勢になっている。カティアは大便を催すと、頭を低くして地面を嗅ぐような姿勢になり、歩速を上げて直進する。便が出る状態になるまで、百メートルほど進むこともある。カティアも排便するのだ。お父ちゃんは緊張し、どちらに行ったものか迷った。そしてワラシの方に向かった。カティアはどのくらい直進するか分からない。カティアの方に先に行くと、その距離をまたワラシの所まで戻らなければならない。それは散歩の進路を逆行することでもあり、面倒なことに思われた。しかしこれが判断の誤りだった。お父ちゃんがワラシの方に戻り始めた時、「ギャッ」という鳴き声が聞こえた。振り返ると、スロープの最上辺で、大きなハスキー犬がカティアを足で押さえこんでいるではないか。お父ちゃんは我が目を疑った。絶対に見たくないと思っていた光景がそこに現出していた。ハスキー犬のリードは女の飼い主が握っていて、引っ張れば引き離せるはずだが、彼女にそれだけの力がないのだ。カティアは悲痛な鳴き声をあげて抵抗している。お父ちゃんは走りながら、「やめろー」と叫んだ。激しい悔いがお父ちゃんの胸を焼いていた。お母ちゃんの言う通りだった。お父ちゃんが着く前にハスキー犬は離れた。お父ちゃんはカティアを抱き上げた。カティアは目を引きつらせ、口を戦慄かせながら唸っていた。突然襲った恐怖に戦いていた。その必死な表情がお父ちゃんの脳裏に焼き付いた。可哀想に、可哀想に、こんな目に会わせてすまない! お父ちゃんはカティアの体を撫でた。出血はしていないようだった。ハスキー犬のリードを持った中年の女が、「木村と言います。何かあったら連絡してください。この公園の前の角の家です」と乾いた声で言った。お父ちゃんは、すまない、という気持が少しも感じられないその言葉に反発を覚えた。何と優しさのない女だと思い、何か言い返さなければと思ったが、混乱した感情的な言葉になりそうだった。リードを手離していた自分の非も思われた。電話番号を訊いておこうと思ったが、気持の高ぶりのためになめらかに言葉が出なかった。その時、ハッとお父ちゃんはツムジとワラシのことを思い出した。「ちゃんとリードを持っていてくださいよ。他にも犬がいるんだから」とお父ちゃんは女に言った。女は黙って去って行った。後ろを振り返ると、ワラシがスロープの中程に座っていた。ツムジの姿は見えなかった。お父ちゃんはワラシの方へ歩み、ワラシを呼び寄せ、そのリードを取り上げた。次いでツムジの名を呼びながらスロープを曲がり角まで下った。そこからスロープの入口の方まで見たが、ツムジの姿はなかった。お父ちゃんは口笛を吹き、大きな声で「ツムジ! 」と叫びながら、上に引き返した。途中で抱えていたカティアを道に下ろした。カティアは普通に歩けるようだった。それを見てお父ちゃんは少し気持が楽になった。スロープを上りきり、そこから見える範囲の公園の中を見回したが、ツムジの姿はなかった。公園の中央にはサッカーのグラウンドがあり、その周囲を囲む金網にワラシとカティアのリードを結わえて、お父ちゃんは公園の中を捜し始めた。

 カティアは出血もしていないし普通に歩ける。これでツムジが居てくれれば一件は一応落着だ。捜しながらお父ちゃんはそう思った。ところがツムジは居ない。臆病で気の小さいツムジは、突然の出来事に胆をつぶして逃げ出したに違いない。それこそ脱兎のごとく公園の外へ。そんな思いが浮かんだ。公園の中を歩きながら八方に目を配るがツムジはやはり見つからない。ツムジはどこにいるのか。お父ちゃんはツムジの前途に待つものを思った。それは二つしかないように思われた。一つは車に轢かれて死ぬこと。もう一つは誰か他の人間の手中に入ることだ。いずれにしてもツムジにとっては不幸な事と思われた。こんな場合には思いは悪い方に傾くものだが、お父ちゃんにはツムジが再び戻ってくることはないような気がするのだった。

 あの時、リードを離したばかりに――。激しい悔いがまたお父ちゃんの胸を噛んだ。ツムジという犬ともこれでお別れなのか。一本のリードがまさに人と犬をつなぐ絆であることをお父ちゃんは痛切に感じるのだった。

 公園の中を一通り見て回ったがツムジはいなかった。このどこかにツムジはいるのだろう、とお父ちゃんは公園の下に広がる世間を眺めた。ワラシとカティアを連れてスロープを下り、一旦家に帰ることにした。

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