第7話


 こうしてお父ちゃんたちと犬三匹の暮らしが始まった。

 ワラシ一匹の時、犬に関するお父ちゃんの仕事は散歩だった。他は遊び相手。食事、ブラッシング、健康管理、その他諸々の世話はお母ちゃんがやっていた。気楽だった。可愛がりさえすればよかった。犬が三匹になってもしばらくはその延長だった。

 子犬たちが貰われていって一月ほど経った頃、変化が訪れた。お母ちゃんが切り出した。「あなた、スポーツクラブ、こっちの方に変わってくれないかしら。夕方は帰ってきてもらわないと私大変なの。夕食の準備の他に、ワンちゃんの散歩とゴハンも作らなきゃならないんだから」

 実はお母ちゃんは専業主婦ではない。小さな趣味の店を経営している。陶器や漆器、ガラス器、木製品、布などを売る店だ。その店でパッチワークや人形作りの教室も開いている。店を午後五時に閉めて帰ってくると、家事と犬の世話がワッと襲いかかるというわけだ。

 お父ちゃんは週に一、二回、勤め帰りにスポーツクラブに通い、汗を流して帰ってくる。その日の帰宅は午後九時過ぎになる。お父ちゃんも気にはなっていたことなので、「そうか」と了承した。その前から、「あなたが子犬を産ませたんだから、世話もちゃんとしてよ」とお母ちゃんから何度か釘を刺されていた。それがいよいよ現実問題となったのだ。お父ちゃんはスポーツクラブを、勤め先の近くのものから家の近くのそれに変え、通うのは土日にした。平日は勤務が終ればできるだけ早く帰り、犬の散歩と食事作りをすることになった。

 子犬たちの食事は離乳食の後、子犬用のドッグフードに笹身やチーズを入れたものに移った。そしてこの頃、ワラシと同じ食事をするようになった。食器も外径十五センチ、深さ五センチほどの金属性の円盤型のものを新たに三つ購入した。子犬たちも散歩ができるようになり、三匹揃って散歩するようになった。お母ちゃんがお父ちゃんに応援を求めたのは、こうして負担が一挙に三倍になったからだった。サークルは取り払われ、二匹の子犬はワラシと同じく夜は二親と一緒に寝るようになった。

 食事は市販のドッグフードを与えておけばよいというわけにはいかなかった。お母ちゃんはいろいろ調べて、ドッグフードは加工の過程でビタミンやミネラル、酵素など大切な成分が失われるうえに、有害な添加物が含まれていて、犬にとって決して良い食物とは言えないと考えていた。それで犬たちには基本的に手作りの食事を与えることにしていた。新鮮な肉と野菜をできるだけ生の状態で与えるというのが犬の食事に関するコンセプトだった。それは当然お父ちゃんにも受け継がれる。それでお父ちゃんはまな板の前に立ち、慣れぬ包丁を使って、キャベツやカボチャ、大根、白菜などを刻まなければならなかった。勤め先から帰宅すると、ホッと寛ぐ暇もなく、ワンちゃんを散歩に連れ出す。三十分余りの散歩を終えて帰ると、風呂場で三匹の足や腹など汚れた部分を洗い、タオルで拭く。それから食事作りにかかる。こうして帰宅してから一時間余り、お父ちゃんは犬のために立ち働く。これが日課となった。仕方ないことだ、自分が産ませたのだから、とお父ちゃんは観念していた。

 ワラシは子犬たちと一緒に食事をするのに戸惑った。それまで四年間、一匹で好きなように食べてきたワラシだった。ぼんやりしているワラシの食器に、子犬が鼻先を突っこんでいることがよくあった。ワラシは子犬が自分の分を食べ始めると、譲るように身を退くのだった。

 二匹の子犬は順調に大きくなっていった。生まれて半年が過ぎ、やがて一年になろうとしていた。体の大きさはほぼ成犬のサイズとなった。しかしワラシに比べると体重は軽く、足の骨などは細かった。

 それぞれの個性も表れ始めた。カティアは人懐っこい。散歩していて通行人に会うと、尻尾を振りながらためらわずに近づいていく。その人が撫でようとすると、コロンと仰向けに寝て腹を出す。体はツムジより小さいが肝は太いようだ。ツムジは相変らず人見知りをする。特に小学校低学年以下の子供に弱い。子供の甲高い声がすると散歩の足を止め、頭を下げた姿勢でその方を見る。尻尾は下がる。子供たちが撫でようとして側に近づくと、尻尾を下げて逃げ回る。傍らではカティアが例によって横になり、子供に腹を撫でさせている。

 ある日の夜、お父ちゃんがテレビの前で横になっていると、カティアがお父ちゃんの顔を舐めにきた。しかし顔に歯を当てるばかりでうまくいかない。まだ舐め方を知らないのだ。そう思ったお父ちゃんは逆にカティアの鼻先をペロリと舐めてやった。カティアの反応を見ながら、二、三回鼻の周囲を舐めた。すると、じっとお父ちゃんの顔を見ていたカティアが、舌を出してペロリとお父ちゃんの唇を舐めた。二度、三度。それで要領がわかったようで、ぎこちない舐め方ながら、カティアはお父ちゃんの顔を舐め始めた。

 ツムジはお父ちゃんの顔を教わらずに舐めることができた。しかし力が入り過ぎて、口の力で顔が後ろに押される。年の功というか、顔を舐めるのはやはりワラシが一番うまかった。難点はしつこ過ぎること。ワラシは時には二十分以上も舐め続けた。しかもお気に入りの一箇所をずっと舐め続けるので、ついにはそこが痛くなってくるのだ。

 ツムジがお父ちゃんの顔を舐めるのは朝だ。ツムジは目覚めるとじっとしていない。それは幼い時から変わらない。体を掻き、動き回り、開けろとばかり寝室の襖を爪でカリカリと掻く。毎朝ではないが、顔を舐めるのもそんな朝の一連の動作の一つだ。つまり、お父ちゃんたちを起こすことにつながる動作だ。カティアは寝起きが悪い。お父ちゃんたちが起きだしてもまだ寝ている。カティアは夜しかお父ちゃんの顔を舐めない。夕食後、一杯飲んだお父ちゃんがテレビの前に横になる時刻だ。そう、顔の舐め方を教わった時刻だ。

 ツムジの散歩の仕方には特徴がある。とにかく前へ進むのだ。ワラシとカティアがあちこちを嗅ぎながら、人間とほぼ同じ速さで歩くのに対して、ツムジは脇目も振らず、という感じでひたすら前に進む。しかも人間より速い。だからツムジのリードはいつもピーンと張っている。ツムジのリードを持つ者は常に引っ張られることになる。お父ちゃんとお母ちゃんが二人揃って三匹を散歩させる場合、三匹はワラシと子供二匹に分けられ、分担される。お父ちゃんが子供二匹を受持つことが多い。常に先頭を行こうとするツムジからリードをいつも引っ張られるお父ちゃんは疲れを覚える。お父ちゃんの七十キロを超える体重を、小さな体で後ろ足を踏ん張るようにして引っ張り、前に進もうとするツムジの姿を見て、股関節は大丈夫かとお父ちゃんは思う。ツムジの股関節はカクカクと鳴った。外れやすい状態と獣医に言われていた。ツムジが引っ張るのでカティアはおちおち排尿もできない。腰を落としてしようとすると引っ張られるので、カティアは変な恰好でそそくさとオシッコをする癖がついてしまった。

 ワラシは子犬たちから離れてマイペースで散歩をする。一匹時代四年間の気ままな散歩スタイルを維持している。ワラシの特徴は途中で立ち止まること。立ち止まって周囲を眺める。お父ちゃんが〈世間眺め〉と名付けた行為だ。さらに、一旦は過ぎても、やはり気になるニオイがあるとわざわざそこまで引き返す。このしつこさもワラシの特徴だ。しかしこうしたマイペースも子供たちと離れた場合に可能なことで、二親のどちらか一人が三匹を散歩させる場合は難しかった。ワラシはその場合でもマイペースを貫こうとするのだが。というより、もう身についてしまっていて変更できないのだ。散歩に限らない。四歳の出産はワラシにとって生活の大変動を意味したろう。もう生活スタイルも確立してしまっている年齢で、新しい境遇に放りこまれたワラシに同情すべきだ。

 カティアとツムジは遊び方にも違いがある。ツムジはボールが大好きだ。硬式テニスのボールをピンポン玉くらいに小さくしたような球がお気に入りで、それを壁に投げつけ、跳ね返ってくるところを口でキャッチする。これがツムジの大好きな遊びだ。床に落ちる前に口に銜えると拍手喝采を浴びる。ボールが床に落ちると、慌てるツムジは板張の床を後ろ足で二、三度空掻きして、ボールに向かって突進する。回を重ねる毎にツムジの興奮は高まる。拍手を浴びるとさらに興奮する。ボールを投げるお父ちゃん、あるいはお母ちゃんに早く次を投げろと催促して吠える。いやはやその賑やかなこと。カティアの遊びは縫いぐるみの動物を噛むこと、紙箱を噛んで解体することなど、静かなもの。それにお父ちゃんの顔を舐めること。

 カティアがお父ちゃんの顔を熱心に舐めている傍らで、お母ちゃんが投げるボールを追ってツムジが飛び跳ねている。カティアは一見お父ちゃんの顔舐めに余念がないようだが、ボールの行方にも神経を配っている。床に落ちたボールが、座り机の下や、物と物の隙間などに入った時がカティアの出番だ。たちまちカティアは舐めるのをやめて、サッとボールを取りにいく。ツムジは物の間にボールが見えていても、周囲の物が気になって、顔を近づけられない。そんなツムジを尻目に、カティアは平気で隙間に顔を突っ込み、ボールを銜えてしまう。ツムジは悔しがって吠える。カティアはツムジを無視して、ボールを銜えたまま適当なところまで動き、そこで伏してしまう。ボールは銜えたままだ。ツムジはカティアに向かって悲鳴のように甲高く吠え、助けを求めるようにお父ちゃんやお母ちゃんの顔を見る。時によってはカティアに噛み付くこともあるツムジなのだが、なぜかこの場合、吠えることしかできない。ツムジの訴えに、「カティア、ボールちょうだい」とお母ちゃんが手を伸ばすと、カティアは取られまいとボールを銜えた口を前足の間に深く入れる。無理に取ろうとすれば、立ち上がり、ボールを銜えて他の場所に移動する。お母ちゃんやお父ちゃんの賞賛を浴び、居間を独壇場にしていたツムジへのこれがカティアの復讐だ。


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