第6話


 時は速やかに流れた。子犬が生まれて三ヶ月になろうとしていた。四匹の子犬をそのまま飼い続けることはできなかった。世話も大変だし、お母ちゃんの両親への遠慮もあった。ジイジとバアバは犬が好きなわけではない。娘夫婦が犬を連れて引越してきたので受け入れただけだ。子犬を産ませることにも賛成ではなかった。家が傷むし、汚れると思っている。そんななかで子犬を産ませることをただ一人主張したお父ちゃんは義理の関係らしくない我儘を通したのだ。牡と牝を一緒に飼って、もしも発情期になって交尾でもすればという危惧もあった。二親は相談して牡の二匹を人にやることにした。

 子犬をやる人は本当に可愛がってくれる人でなければならない。お母ちゃんが知り合いの中から選び、貰い手はそんなに時間もかからずに決まった。

 三月の第一日曜日、ネロが貰われていった。貰い手は近所の松岡のおじさん。製鉄会社を定年退職して四、五年になる人だ。松岡のおじさんは前年の正月、お父ちゃんたちをイタリア旅行に誘った。おじさんがイタリアの知人を訪ねる旅の道連れとして二人に声をかけたのだ。おじさんが仕事でイタリアに駐在していた頃、部下だったジュゼッペという人を訪ねる旅だった。帰国してから二十年以上、おじさんはジュゼッペさんと文通を続けていたが、ジュゼッペさんの誘いもあり、イタリア再訪を決意したのだ。一人旅は心細かったのかも知れない。一週間あまりの旅だったが、南イタリアの地方都市に住む人々の素朴な人情と暖かなもてなしに二人はすっかり感激して帰ってきた。それで、子犬たちにイタリア語の名前を付けることにもなったのだ。

 その日は朝から雨が降っていた。四匹の子犬はいつものように元気に遊んでいた。ワラシは傍らでそれらを見守るかのようだ。お父ちゃんは四匹が揃うのは今日が見納めだと思いながらその情景を眺めていた。〈ワラシファミリーの崩壊〉、そんな言葉が浮かぶ。親子・兄弟の別れは犬の世界の宿命だ。ワラシもそうしてお父ちゃんのもとへやってきた。しかし悲しいものだ。牡の二匹をよそにやると決めるのは簡単だったが、貰い手が決まり、別れの日が近づくにつれ、お父ちゃんの目は貰われていくネロとカーネに多く注がれるようになった。あの日以来、特別な親愛感で結ばれたカーネに対しては、他人ひとにやるのはやめよう、という気持ちが何度も動いた。次の日曜日にはカーネが貰われていくことになっていた。

 先に取りにくる松岡のおじさんにどちらの子犬をやるか。ネロを選んだのはお父ちゃんだった。松岡のおじさんは子犬のなかではツムジがお気に入りのようだった。ツムジの顔が一番いいと言っていた。ツムジの顔は白かった。黒毛の部分はなかった。だから黒い目と鼻がくっきり見えた。子犬のなかで一番白い顔をしていた。ツムジは牝だから人にやる対象ではなかったが、ツムジの白い顔がいいという松岡のおじさんの好みを斟酌すれば、おじさんにやる子犬は片頬の黒いネロではなく、カーネとするのが順当だった。それをお父ちゃんがネロとしたのは、カーネとの別れを一週間先に延ばしたかったからだ。

 十時過ぎに松岡のおじさんはやってきた。おじさんが部屋に入ってくると、ツムジがさっと部屋の隅に逃げた。他の子犬は何ともない。ツムジに特有の反応だ。一週間ほど前、お母ちゃんの友達が子犬を見に来た時、この反応が現れた。お父ちゃんたちは驚いた。一番やんちゃなツムジが意外な怖がりさんだったのだ。松岡のおじさんは部屋の隅から窺うようにしているツムジに声をかける。他の子犬たちは胡坐をかいたおじさんの側に集るのに、ツムジは部屋の隅を行ったり来たりして近づかない。おじさんは諦めて、側の子犬を一匹ずつ抱き上げては眺めている。おじさんも以前、犬を飼っていたことがある。懐いてしまった野良犬を飼ったということだ。貰うことになったネロを抱き上げて、「顔が黒いね」と言った。お母ちゃんが「名前がネロだから」と答えて少し笑った。おじさんはネロをジャンパーの中に入れ、顔が出ているところまでチャックを引き上げた。そして下から両手で支えて、赤ん坊をあやすように揺すりながら部屋の中を歩いた。おじさんはその恰好で傘をさし、雨のなかを帰って行った。

 その日の夜中、ワラシが悲しげにク―ンクーンと鳴いた。朝、寝室の戸を開けると、飛び出したワラシは子犬たちのサークルの側に行った。そしてサークルに鼻を近づけ、クンクン嗅ぎながら周囲を回った。

 次の日曜日にはカーネを受け取りに中井さん夫婦がやって来た。お母ちゃんと中井の奥さんがパッチワーク教室の知り合いだった。あと数年で勤め先のバス会社を定年になるという中井さんは優しい笑みを浮かべて子犬たちを眺めていた。この夫婦ならいかにも子犬を可愛がるだろうという印象だった。カーネは奥さんの膝の上に抱かれておとなしくしていた。カーネはマックと名付けられることになっていた。今は呼べば小さな尻尾を振って駆けてくるこの子犬も、やがて自分のことを忘れてしまうだろうとお父ちゃんは思った。仕方がないことだった。もう当分会えないと思うと、近所の松岡のおじさんにあげればよかったと悔いた。そうすればちょくちょく会うこともできたろう。そう思って、いや、いっそ会わない方がいいのだとお父ちゃんは思い直した。日に日に自分から遠ざかるカーネを見るのは辛いだろうと思った。

 玄関での別れの時、奥さんの胸に抱かれたカーネの目を覗き込んで、お父ちゃんは、「カーネ、さよなら」と言った。あの日、見つめあったこの目を忘れてくれるな、という思いを込めた。

 こうして二親の許に残った子犬は二匹となった。実はこの二匹のうち、さらに一匹を手離す予定だった。残すのはワラシと子犬一匹というのがお父ちゃんたちの立てた計画だった。ワラシの実家にその一匹を引き取ってもらうつもりだった。その家にはワラシの母親と兄弟たち、合わせて六匹のシーズーがいた。そこに一匹を加えても構わないだろうと考えた。しかし、残った二匹の子犬にはそれぞれに問題があった。ツムジは人見知りが激しく、情緒に不安定なところがある。そんなツムジを見知らぬ人間と多くのワンちゃんがいる環境に入れて大丈夫だろうか。ストレスで命を縮めるのではないかと危惧された。カティアは兄弟たちの中で一番体が小さかった。今でもツムジがよくちょっかいを出しているが、よその多くの犬の中に入れれば、苛められるのではないかと案じられた。

 結局、子犬は二匹とも残すことにした。それぞれに理由はあったけれども、二親の気持が手離したくなくなっていたことも確かだった。もう別れはたくさんだった。


  

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