第3話

 

 生後一週間ほどは順調だった。子犬たちはワラシの母乳をよく飲み、よく眠り、大きくなっていった。産箱に横たわると、乳首を一斉に銜えにくる子犬たちに恐れをなして、産箱から飛び出していたワラシだが、次第に慣れて、じっと横になって乳を飲ますようになった。

 そんなある日、一匹の子犬が乳を飲もうとしないのをお父ちゃんは発見した。他の四匹が乳首にしゃぶりついている傍で、その子はじっと寝ている。背中の体毛が描く模様から、その子はそれまで他の子犬たちを押しのけるようにして盛んに乳を吸い、体も他の子より大きくなっていた子犬と分かった。その子を動物病院に連れて行くと、医師は細菌に感染したのかも知れないと言い、他の子と隔離するように指示した。

 母乳を飲まないので、ミルクの粉末を水で溶いて、それを小さな注射器様の器具に吸引し、先端を口に入れて飲ませた。獣医からは三時間おきに飲ませるように指示されていた。二親は夜中に交代で起きてミルクを飲ませた。よく飲む時もあれば、飲み込まずに小さな口から溢れることもあった。なぜ病気になったのか、どこがいけなかったのかとお母ちゃんは悩んだ。お父ちゃんは仕事から帰ってくると、真っ先に子犬の様子を尋ねた。ミルクをよく飲んだと告げられるとお父ちゃんの顔はほころんだ。

 子犬の病状は一進一退だった。ミルクをよく飲み、元気そうに動くので、ワラシの乳首の側に置くと、乳首を銜えた。そして二、三度、乳房を手で押して飲む動作をした。これで回復だ、とお父ちゃんは喜んだ。しかし、すぐに子犬は乳首から口を離した。どうした、なぜ飲まない、とお父ちゃんは子犬の口を乳首にあてがった。しかし子犬はもう乳首を口に含もうとはしなかった。そしてミルクに逆戻り。そんなことが何度か繰り返された。

 兄弟から隔離された子犬は、一時携帯用のバスケットに入れられていた。バスケットから出されている時も、兄弟たちが体をくっつけ合っているダンボール箱の外に置かれていた。寂しいだろうな、とお父ちゃんは思った。兄弟たちと一緒にしてやった方が刺激し合って元気になりそうな気がした。しかし獣医の指示を破るわけにはいかなかった。

 病気の子犬は居間の電気カーペットの上に、小さな毛布を敷き、その上に寝かされていた。時折立ち上がり、カーペットの外の板張りに出て横になった。熱いのだろう。しかし、獣医から体温を下げてはいけないと言われているので、お父ちゃんたちは元の場所に戻す。しばらくすると子犬はまた電気カーペットの外に出て横になる。また戻す。それが繰り返された。休日の昼間、お父ちゃんが居間に座卓を出して書き物をしていると、座卓の下を通って子犬がカーペットの外へ出て行った。胡坐の側を、肩のあたりを少し震わすようにして出ていく小さな体を見ながら、お父ちゃんは子犬の苦しみを思った。

 子犬は何度か「回復」の兆しを見せた。全体的には次第に弱っていったのだが、その過程で何度か立ち直りの兆しを見せた。ミルクの飲み方が突然勢いよくなるのだった。寝ていた子犬がクッと起き上がってカーペットの外に出ていく。その姿が子犬の生きようとする意志を象徴しているようだった。子犬はなんとか生きようとしていた。自分の生を阻もうとするものに小さな全身で抗っていた。子犬はマロンと名づけられていたが、二度、三度と立ち直りの期待を抱かせるそのたくましさにお父ちゃんは感動して、名前を「元気」と変えた。この子は何と元気な子だろう、病気をしなかったら兄弟の中で一番元気な子だったろう、という思いを込めていた。

 子犬の病気が長引くので獣医を変えた。親切で腕もいいという評判の新しい獣医は、元気を診て、ウーンと唸っただけで、治るとも治らないとも言わなかった。元気の体と同じくらいの大きさの注射を打った。そして兄弟たちと離す必要はないと言った。同じ部屋の中の別の場所に置いても隔離にはならない。元気は細菌による肝炎と診断されていたが、同じ部屋にいる兄弟たちがなんともないのであれば一緒に居させて大丈夫と言った。言われてみればその通りで、無意味なことをしていたと二親は思った。もっと早くそれを聞いていれば、元気を兄弟たちの中に戻し、親兄弟との接触のなかでスムースに回復していったかも知れないと悔やまれた。二親には隔離を指示した前の獣医が恨めしく思われた。

 親兄弟のもとに元気を戻したが、既に手遅れだった。兄弟たちの体は元気より一回り大きくなっており、活発に動く彼らの傍らで元気はじっと寝たままだった。母親の乳首を噛む力もなかった。

 生まれて四十日後の一月の下旬、元気は亡くなった。その日、少し血を吐いた元気を二親は病院に連れて行った。ぐったりした体に痛々しくも注射を打たれ、連れ帰ると、ダイニングのストーブの傍らに横たえた。もう最期が近いのは明らかだった。ミルクを口に入れようとしたがもちろん受けつけなかった。しばらくして元気は血を吐いた。小さな口の周りが赤くなった。四肢が痙攣した。お父ちゃんにはそれは元気が足を動かしているように見えた。電気カーペットの外に出て行ったように、熱いストーブの側から離れたいのだとお父ちゃんは思った。元気はフーンと大きく息を吐いた。小さなお腹が膨れて萎んだ。それが最後だった。

 それからどれだけお父ちゃんとお母ちゃんは涙を流したことだろう。小さな遺体を小箱に納める時、動物霊園の炉の前で見納めをする時、マッチ棒のような骨片を拾う時、この苦しむためだけに生まれてきたような子犬の死をどれほど悼んだことだろう。「だから子供を産ませなさんなって言ったやろ」とお母ちゃんは泣きながらお父ちゃんを詰った。お父ちゃんは言葉がなかった。

 これがワラシに子供を産ませたことで起きた最初の悲しみだった。



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