第2話


 ワラシに子供を産ませることを強く主張したのはお父ちゃんだった。お母ちゃんは反対した。ただし、その反対は、「産ませない方がいいんじゃない」という程度のものだったとお父ちゃんは記憶している。お母ちゃんがもっと強く、明確に反対してくれていたら、自分も主張をひっこめたはずだ、とお父ちゃんは今でも思っている。しかし、そんなことを言ってみても、渋るお母ちゃん押し切ったのはお父ちゃんだったし、責任は免れないのだ。

 ワラシが母親になることをお父ちゃんが求めたのは、お母ちゃんが母親になれなかったからだ。二人の間には子供がなく、人工授精も何度か試みたがうまくいかなかった。人工授精を諦めたのは、恥ずかしさや痛みに耐えなければならないお母ちゃんではなく、お父ちゃんだった。お父ちゃんはシャーレに射精した自分の精液が他人のそれと間違えられることに恐怖を覚えたのだ。シャーレには名前も記されておらず、どこで識別するのか、と疑問をもったのが発端だった。誰の子とも知れぬ子を育てることになるのでは、という不安は次第に昂じ、「もう、やめよう」とお父ちゃんはお母ちゃんに言ったのだ。それでお母ちゃんは母親になることを諦めた。その時、お母ちゃんが零した涙をお父ちゃんは忘れることができなかった。せめてワラシだけでも母親にしてやろう、母親の気持を味わさせてやろう、とお父ちゃんは思ったのだ。

 ワラシのトリミングとシャンプーを任せていた店が繁殖も手掛けていた。そこに申し込むと血統書付きの牡犬を紹介された。交尾の当日はお母ちゃんがワラシをその店まで車で連れて行った。牡犬の所には店の人が連れて行き、お母ちゃんは同行できなかった。依頼者には交尾の現場は見せないものらしい。

 子を産む前のワラシを写した一枚の写真がある。赤地に白い花柄の模様の入った新調の胴衣を着せられたワラシが、颯爽と歩いている。立てた首筋の上の顔はしっかり前方を見つめ、前足の片方が勢いを示して上がっている。これは交尾の数日後、運動公園に散歩に行った時の写真だ。お父ちゃんはこの時のワラシの姿を見納めのような感覚で眺めていたことを覚えている。無事に出産できればいいが、万一、ワラシの命に関わるような事態になればどうしょうかという不安がいつも胸を掠めていた。今、目の前を歩いているような元気な姿に無事戻れることを願いながら、お父ちゃんはワラシを見つめていたのだ。

 ワラシのお腹は次第に大きくなり、お母ちゃんはシーズー犬の出産について本を読んで備えた。

 ダンボール箱で産箱を作った。箱の底に新聞紙とバスタオルを敷き、十二月半ばの出産なので防寒に留意して上から毛布も掛けるようにした。予定日の前日、ワラシのお腹はパンパンに膨れ上がり、歩行も苦しげになった。仰向けに寝かすと、紡錘形に膨らんだ腹部には、赤く充血して突起している五対の乳首を中心とする瘤のようなもりあがりがいくつか見られ、ワラシの苦痛が伝わるようだった。体毛はどういうわけか真っ白になってしまった。

 出産が始まったのは早朝だった。呻き声を漏らし始めたワラシは産箱を出て、部屋の中を動きながら子供を産んでいった。最初に産まれたのは牡だった。ワラシは何が起きているのか分からないようで、自分の体から出てきた十センチほどのネズミのようなものを見て逃げ出した。一匹を産んでも苦痛は治まらず、次の苦痛が襲ってくる。ワラシは呻きながら部屋の中を転々とした。一つの部屋では足らず、隣の部屋まで逃げ出した。しかし苦しみはついてくる。その呻き声には、どうしてこんな目に会うのか、もうやめてくれ、という哀訴の響きがあった。

 お父ちゃんは途中で出勤して行った。最後の子はお腹からなかなか出てこず、病院で産むことになった。出産が終ったのは午後だった。

 ワラシは五匹の子犬を産んだ。母子共に無事で出産を終えたことに二親は胸を撫で下ろした。

 

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