第1章 恋が、私は分からない
1-1 ファンの女の子が、できました?
二○一二年十月。
*
その日、私たち合唱部は、地元のホールでの演奏会に参加していた。コンクールのように賞を競う会ではなく、地元の音楽系クラブが合同で出演する企画だ。音楽をやりたい中学生が、志望校の参考にする――なんて噂もあったり。
普段とは違う、ダンスも交えた曲に挑戦したので、練習はとても大変だったけれど。頑張ったぶんの成果は出せていたし、お客さんも楽しんでくれていた手応えがあった。
充実した雰囲気で、今日の部活は解散。帰りはバスだが、この辺りは本数が少ないよな~と、メモと時計を見比べていると。
「柊さんもバス待ち?」
声をかけてきたのは、同じ部員の
「うん、飯田くんも?」
「そう。座りますか、とりあえず」
ホール前のバス停にバスが来るまで、二十分はある。広場の端のベンチに腰掛けて、一緒に待つことにした。いくら治安がいい街で、周りの目もあるとはいえ、独りで待つのは気が引けた。男子と二人きりというのも基本は避けたいが、彼なら別だ……男っぽくない、と言われると彼は複雑らしいが。
希和は空を見上げて、ふうっと息を吐き出す。やりきったような仕草に誘われて、私も脱力。
「練習中は絶対できないとかも思ったりしたけどさ」
「なんとかできたよね、私も飯田くんも」
混声四部が基本の合唱部なのに、今回はひとりずつ別パートの複雑な構成だったのだ。おまけにダンスやフォーメーション変化まで入っている。
私も彼も部活で合唱を始めたのは高校からだし、あまり器用な方ではないのでダンスも大変だった。特に彼のぎごちなさは深刻で、初めは笑って指導していた先輩たちの顔すら、段々と険しくなっていった日もあった。
しかし、追い込まれると顔に出るのは私の方である。
「……柊さん、いつか泣いてませんでした?」
図星である。何度やってもリズム通りに歌えなくて、申し訳なくて半べそになっていたこともあった。ソプラノパートの皆に慰めてもらったのはいいが、高校生にもなって恥ずかしい……私服だと小学生に間違われるくらい子供っぽい顔なのだ、せめて態度くらいはもう少し大人にしたい。
「記憶から! 抹消して!」
「はいはい」
私が抗議すると、彼は頷きながら笑う……どこかでやり返してやろう、彼だって弱みには事欠かないのだ。
しかし。
ひと区切りができると、どうしてもその先のことを考えてしまう。
「けど、さっき気づいちゃったんだけどさ」
私の声は、自分でも驚くほど暗い。そのトーンを察したのか、希和も真面目な顔になる。
「何でしょう」
「来年の今頃さ、私たちが一番上になるじゃん」
「……ああ、うん」
合唱部の三年生は、七月のコンクール県大会で引退するのが恒例だ。勝ち抜いてブロック大会に進む可能性もゼロではないが、雪坂高校に関してはほぼあり得ない。私たちだって、夏に三年生との別れを経験したばかりだ。
今の、頼もしくて格好いい二年生だって、来年の今頃は引退している。そのときには、私たちが上級生として後輩たちを率いていくことになるのだ。
そして私には、自分が先輩になるイメージが掴めない。中学のときのバスケ部だって、試験の成績が悪いせいですぐ親に辞めさせられたのだ……あのまま続けても伸びなかったと思うけど、勝負に向かない性格だし。
「
合唱部に、私たちの学年は五人。私以外の女子三人はみんな頼り甲斐がある。唯一男子の希和は歌こそ苦手だが、学校行事を仕切った経験もある優秀な人だ。
可愛がられはしても頼り甲斐はなくて、自分の失敗を怖がってばかりの私に、誰もついていきたいと思わないだろう――ということを、最近考えてしまうのだ。
「それは……」
希和は言葉に悩んでいる。
私が彼によく相談してしまうのは、ごまかしもあしらいもせず真面目に考えてくれるからだ。親友で学年リーダー格の結樹は「悩むぶん努力しろ」と正論で返してくるし、他の女子は丸く収めようとしてくれる。
希和は真面目に考えてくれて、そのまま詰まってしまった……というか、彼も同じことで悩んでしまったのだろう。合唱部員として足を引っ張りがちなのは、彼も同じだ。
ここで黙り込んでも仕方ない。とりあえず、お互い頑張ろうね――と、逃げようとしたところで。
「――あの、すみません!」
声に振り向くと、私服の女の子がこちらに歩いてきた――知らない子だ、知らないけど、可愛い! きりっとした雰囲気でコーデもいいセンス……
色んな意味で驚いた私が固まっている間に、希和が先に応じてくれた。
「はい、何でしょう」
「あの、
「そうですが」
私たちを探しにきてくれたらしい彼女は、見つかったと分かるとニコリと笑う……凜とした表情が柔らかくなって、可愛い……
「今日のステージ。すごく、すごくカッコ良かったです」
心から感動した、それが嘘でないと分かる声と眼差し。全力の敬意と好意が、私たちに向いている――こんなに嬉しいの、初めてかもしれない!
「本当ですか、それはありがとうございます!」
希和が答えてくれる、けど。
その女の子の感情は、彼も含めた二人ではなく、私だけに向いている気がした。
全力の敬意と好意が、私たちじゃなく、私に向いている――なんて、あり得ないのに、信じてしまえたから。
体温が上がる。歓声を上げて踊りたいくらいに、喜びが体を突き抜ける。けれど叫ぶのも踊るのもアウトそうなので、何とか堪える。
……よし、ちゃんと話せる、お礼を言おう。
ベンチから立ち上がって、彼女の目を見て。
「嬉しいです。すごくすごく、嬉しいです!」
しまった、大きすぎる声が出てしまった。けど彼女の表情も明るくなったので、気持ちは伝わったらしい。それなら良い、こんなに嬉しいって分かってほしい。
その女の子は、続けて私に教えてくれた。
「いま中三なんですけど、第一志望が雪坂で」
「えっ?」
「もし合格できたら、絶対に合唱部に行くので。その時は宜しくお願いします」
こんなに嬉しいのは初めて――それが数秒で更新されてしまった。この子が、こんなに私を見てくれる子が仲間になってくれるなんて、夢みたいだ。
それに、彼女の言葉には自信が溢れていた。合格できたら、は仮定じゃなくて宣言に聞こえた。なら私は、全力で応援するだけだ。
「――待ってます待ってます、だから合格できますように、絶対に!」
思わず早口になってしまった私のエールに、彼女は力強く頷いて。
「はい、待っててください。必ず行きますから」
ずっと忘れられない、信じる強さの詰まった眼差しで宣言して。
丁寧な挨拶を残して、彼女は去っていった。
その後ろ姿を見送っていると、隣で希和が呟いた。
「なんか……すごい人に見つかっちゃったね……」
「だね……」
ぼうっとしたまま答えて、思い返して、叫ぶ。
「え、今の子すっごくない!?」
「だから言ったじゃん今!」
希和は心配そうな目で私を見る。
「ってか柊さん大丈夫? さっきから顔真っ赤だけど」
「え、そんなに?」
言われてみれば、体がすごく熱いままだ。まるで恋――じゃないけど、じゃないけど! それくらいのサプライズだったし、プレゼントだった。
「飯田くんはテンション上がらなかったの? あんな可愛い子に熱烈に言われて」
「そりゃ嬉しかったよ? けど……多分だけどあの子、僕じゃなくて君に言ってたと思う。僕ら全体ってより、君のファンじゃない?」
「ふぁん……ファン!?」
「何その、未知の外国語を聞いたみたいな……いや外来語だけどさ」
「だって、私にファンとか、似合わないじゃん」
「まあ、慣れないのは確かだろうけど……君はちゃんと、人を惹きつける人になってるよ」
希和はたまに、ストレートな褒め言葉を贈ってくれる。こういう所に、友達になれて良かったと思うのだ。
「ファンか、えへへ……あの子が……」
興奮が冷めないまま、希和とバス停に向かう。さっき彼に話した不安が嘘のように、胸は誇りでいっぱいだった。私はまだ、いくらでも頑張れる。
私の合唱部活動を変えてくれる出会い、そう思っていたけれど。
実は彼女は、私の人生そのものを変えてくれる人だった――と気づくのは、もう少し後のこと。
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